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生=運転=性愛=社会=返済=生…──モデスト・マウス初期詞論

[略号]
BR:Broke[SG, 96/3/26]
AS:A Life of Arctic Sounds[SG, 96/3/26]
LD:This is a Long Drive for Someone with Nothing to Think About[AL, 96/4/16]
IN:Interstate 8[EP, 96/8/6]
FA:The Fruit That Ate Itself[EP, 97/5/13]
LC:The Lonesome Crowded West[AL, 97/11/18]
OP:Other People's Lives[SG, 1998]
NE:Never Ending Math Equation[SG, 98/5/5]
MA:The Moon & Antarctica[AL, 2000/6/13]
GN:Good News for People Who Love Bad News[AL, 2004/4/6]

 本記事の目的は、モデストマウス初期の歌詞の構造、および、その歌詞の周囲を経巡っているような極をとらえることである。そして、そのような構造、あるいは極が、まるで私たちとは無縁ではないことをも、明らかになるはずである。

 ここで言う「初期」とは、初のメジャーリリースとなった《The Moon & Antarctica》(2000)以前の時期、つまり、1996年3月26日発売のシングル《Broke》に始まり、1998年5月5日発売のシングル《Never Ending Math Equation》のリリースを画期とする、1996〜1998年の時期を指す。この間に、モデスト・マウスは4枚のシングル、2枚のアルバム、2枚のEPを発表している(このうち、シングル・EPに収録された楽曲は、《The Fruit That Ate Itself》の楽曲を除き、すべて2000年の編集盤《Building Nothing Out of Something》に再録されている)。本記事では、これらに発表された(インスト・重複曲を除く)全48曲を分析の対象とする。

 モデスト・マウスの歌詞は、しばしば韜晦、諧謔、ナンセンスに満ちているために、一貫したパースペクティブのもとで理解することは非常に難しい。本記事があくまで初期作品に分析対象を絞るのも、そのためである。ただその一方で、一聴すればわかるように、モデスト・マウスの初期作品には、車(car)、アメリカの地名、飲酒、躁鬱、生死などのモチーフが楽曲を横断して登場している。そして、これらは一貫したパースペクティブの下で論じることが可能な概念群でもあると考える。多く言われるように、モデスト・マウスの歌詞は厭世と人間不信によって特徴づけられるし、それらを直截に描いた楽曲も、あることにはある(Bukowski[GN]、Edit the Sad Parts[IN])。しかし、そうした通俗的な読みだけには還元できない問いがあることも、また事実である。つまり、なぜアイザック・ブロックはこんなに難解な歌詞を書いたのか? 以下は、そのような問いへ応答しようとする試みでもあるだろう。

1・生=運転

構造の端緒はどの極から始まるのか。極どうしの分離から始まる、といえる。それは端的に、躁(positive)と鬱(negative)の2つの極への分離である。「私」は、「お前が近くにいると寂しい」が、「私がそばにいるとちっとも寂しくない」のであれば(Baby Blue Sedan[LC])、この2極への分離は、「私」と「私」の不即不離な関係の断絶、および「私」と「お前」への分離を意味する。「自身から分離すること、これが構造の端緒をなしている(あるいは、それが構造への参入の条件である)。

 二極へ分離した「私」は、「私たちが故郷(home)と呼ぶ生」(Heart Cooks Brain[LC])の中、絶えざる動きの中へ放擲される。「すぐに駐車場で連鎖反応が始まって/大通りへ流れ込む(bleed)のを待っている/ハイウェイへ流れ出るのを/…/駐車場で座っているのは最悪な気分じゃないか?」(Convenient Parking[LC])。ここで注目すべきことは、駐車場での静止に耐えられず車を発進させる一連のプロセスが、血流の循環の比喩で、つまり生態系の語彙で語られていることである(「車」のメタファーの詳細については後述)。要するに、それは「私」の自由意志とは独立して、生理的な「動き」として把握されている。「私はするかもしれない/君もするかもしれない/でも誰もしないし、することはないだろう」(Might[LD])。

「私」たちはああすることもできるし、こうすることもできるが、こうすることしかできない。それは、「私」たちの分離による必然の結果である。「私が故郷と呼ぶこの場所で/私の脳は崖で、私の心臓はにがにがしいバッファロー」(Heart Cooks Brain[LC])。「私」たちは動態を必然化された「故郷」である「生」への放逐によって動き続けさせられる、あるいは、運転させられる(しかし、ここでも伝統的な方法によって、存在と当為は区別される──後述)。もはや駐車場にじっとしているわけにはいかない。運転が再開される。「駐車場はもう後ろに」(Convenient Parking[LC])。

「1年、20年、40年、50年、お前は生の道を下る」(Doin' the Cockroach[LC])。このようにして、「私」は生=道=動きの中へ投げ込まれる。モデスト・マウスにならって、以下ではこのことを「運転」と呼ぼう。この「運転」のようすを端的に表現しているのが、〈Interstate 8〉[IN]である。8の字の高速道路を何日も何時間も何か月も何年も経巡りながら、「私」は結局どこへも行くことができず、ガスの給油もままならないまま、同じ場所でまた同じ18時間を過ごすしかない。残りの6時間が睡眠に充てられると考えれば、この曲が「生」の比喩であることはあからさまだろう。そして「私」は、「どこにも行くつもりがなかったが、遅れることだけは保証されていた(but I'm guaranteed to be late)」。

 初期モデスト・マウスの特徴は、この「遅れ」の意識にある。「私」には現在しかない、それなのにその現在からもつねに遅れてしまう。「お前はそれを手に入れられない、なぜなら手にしていないからだ」(Dog Paddle[LD])。現在しかないのだから当然である。あるいは、時間を分割できるペースはすでに壊れてしまっている。

〈Broke〉[BR]は、まさにこの「遅れ」の中にある。brokeという単語を地口にさまざまな印象が継ぎ合わされるなか、運転の比喩と「遅れ」の意識とは、「ペースが乱れて時間を使い切った(broke my pace and ran out of time)」および「車が壊れたので約束が破れた(broke a promise 'cause my car broke down)」という節で奇妙な和合に行き着く。「私」は運転し続けてもどこにも行けないが、つねに遅れていることははっきりしている。しかし、時間を使い切り(runという表現が使われていることに注意!)、ペースは壊れ、「車」が壊れたために約束も壊れてしまう。お互いの会話は「生」と同様、同じところを廻り続け(go round and round and…)、まるでそれ自体が「壊れた時間の証拠」であったかのように感じられる。

「私」には現在しかないが、「私」はその現在からもつねに遅れている。では、なぜ遅れてしまうのか

 それは一つには、やはり極どうしの分離による。「私」はつねに、当為の意識にさいなまれている。「脳が、靴を履いて歩けとメッセージを送る/働かなければいけない、仕事に就かなければ」(Custom Concern[LD])。「しまった、もう行かなきゃ」(Never Ending Math Equation[NE])。率直に「私の脳は弱い心臓で、私の心臓は長い階段」(Heart Cooks Brain[LC])といわれるように、脳=心臓=階段の等式は、あらかじめそうした当為を不可避のものとしている。しかし2極への分離=躁鬱はこうした当為を不可能なものにしてしまう。「双極はどこへも行かない/いつもの日と変わらず、週末も同じように/行かなきゃいけないのはわかってるけど、多分ここにとどまるだろう/そういうことしかできないものもあるんだ」(Polar Opposites[LC])。あるいはそれは、端的にガス欠であるか(「私はガス欠になったので止まったが、ガソリンスタンドはどこもやってなかった」Interstate 8[IN]; Out of Gas[LC])、親父のシェビーに乗っているので余計にガスを食ってしまうか(Dog Paddle[LD])である。

 とはいえ奇妙な話ではないか。現在しかないなら、それぞれ現在/未来に対応する存在/当為は成立しえない。それにもかかわらず、その現在からも遅れてしまうためにどうしても存在と当為が要請されてしまう。それは土台無理な話だ。「彼女の時計は遅れたまま止まっている」(Summer[FA])という一節はこの意味で解されるだろう。時間の関節はとっくに外れている。

2・運転=性愛

 以上見てきたことを、モデスト・マウスは別の局面からも照射している。今度は「性愛」に焦点を当てて検討しよう。いささか唐突だが、初期のモデスト・マウスでは、「車」は2通りの方法で男性性の象徴ともみなされている。

「私」が「運転」を余儀なくされること、また、「生」が現在しかないのに、「私」はその現在からも遅れてしまうことを上では確認した。〈Broke〉ではその性愛の側面がわずかに明かされたが、〈Baby Blue Sedan〉[LC]ではそれが全面的に表現されている。「私は一生懸命やっている/宦官が全員列に立って歌っている/「なるべく速くわれわれに種付け(stud)してくれ」と」。「なるべく速く」、つまり「運転のスピードを上げて、「は宦官に種付けしなければならない。「車」が男性性の象徴であることは、いまや明らかである。同時にそのような男性性が「私」にとって到達しえないものであることも、また明らかである。ここにも同じ論理がはたらいているのがわかるだろう。

 あるいは別のエピソード。「私」が深夜営業の食堂でなにも考えず座っていると、男があらわれ、「私」にこう言った(「私」と男との出会いはこれ以外にも描かれる──後述)。「セックスのときはいつも道路(pavement)のことを考えてるんだ/早漏が防げるようにね」(All Night Diner[IN])。明示されてはいないが、これはcementとsemenを掛けた駄洒落だろう。セメントで舗装された道路は(あたかも男根のように!)硬い。ゆえに、舗装された道路を走り続けることは、「私」にとって男性性を維持し続けることと重なる。「運転」を続けなければ男根は萎えてしまう。

 しかし、ここにも同じ論理が働く。ゆえに無理が押し通され、疲弊する。「私たちの心臓はすり切れて傷ついて乾いている」(Ohio[LD])。現在しかないにもかかわらず、「私」はあらゆることをやり尽くすこともできない。「一か月仕事に行かなかった/8日間ずっとベッドから離れなかった」(When I Breathe Out, You Breathe In[BR])とは消尽の謂ではない。それはたんにやらなかっただけのことである。「お前が行ってしまわないと/私は謝れない/自分が言わなかったことややらなかったことを」(A Life of Arctic Sounds[AS])。現在しかないのだから、「私」は言わないしやらない、ゆえに謝る=負い目を感じることもないはずだが、にもかかわらず、「お前に負い目を感じている(少なくともそのように読める)。私は私自身に負い目を感じている。そして、負い目はいつまで経っても負い目である……

3・生=返済計画

「私」は生=動きの中でどこへも行けず、ただ遅れを取り戻すために同じところを動き回りつづけるしかない。同時にそれは返済の目処の立たない負債を抱え込むことでもある。「自分の人生を生きるなら、それがお前の払うツケだ」(Whenever I Breath Out, You Breathe In[BR])。「私」はつねに負い目を感じている。では、なぜ負い目を感じてしまうのか。

 あるいは、次のエピソード。「私」はある日、2日も寝ないまま、カフェイン剤のミニシン(mini-thin)を飲んで車を運転していたが、「お前」の車と事故を起こしてしまう(典型的な2極への分離)。そこに「男」があらわれて「私」を助けられると言った。私=「私」と「お前」以外の第三者がここに介入する(しかし「私」と「お前」は私自身なのだから、実際にはこれは第二者である。つまり錯誤である)。「私」は「男」の家へ行って「スピードをやり」、「男」は「カルマがこの行いを清算してくれるだろう」と言った。ここで「私」の「カルマの返済計画」が立ち上がる(Karma's Payment[FA])。

 つまり、「私」と「お前」だけでは負債は生まれない。「お前の衝突を調停する第三者があらわれるために負い目=負債が生まれるのである

「私」は借金している。カネを返さなければならない。つまり、車を運転しなければならない。しかしカネは溜まらない。「こいつは医者、こいつは弁護士/こいつはカネ泥棒、お前の金を取る」(Doin' the Cockroach[LC])。「心優しい銀行家なんて/一人もいないと思う」(Tundra/Desert[LD])。カネ泥棒のせいでいつまで経っても借金は返せない。利子と返済期限はどんどん繰延べられる。「私」にカネはない。カネがないのはカネの出ない仕事をしているからだ。「メトロに戻って、グレイハウンドに乗って、アムトラックで飲んで、黙れ」(Doin' the Cockroach[LC])。

4・運転=社会

 もはや指摘するまでもないが、そもそも「車」の比喩は、なんらかの社会的事象を必要とする(工業化がなければ、「車」はそもそも存在しない)。こうしたことから、初期のモデスト・マウスの歌詞に、一群の社会問題が必然的に前景化する。たとえば、中卒のトレーラーハウス生活者(Trailer Trash[LC])、トラック運転手(Truckers Atlas[LC])、缶詰工場の作業員(Grey Ice Water[GI])などのブルーカラーの労働者。この3者は共通して「車」の問題系に属している(工場はレーンで成り立つ)。「私はアラスカへ行って無罪放免(scot-free)になるつもりだ」(Trucker's Atlas[LC])。しかしアラスカへ行ってもカルマは清算されず、缶詰工場で働き続けなければならない(Grey Ice Water[GI])。

 そして、「市長の機械が道路(pavement)を掃除している」(Medication[AS])。不意に社会が外挿される(ように見えて、不意でもなんでもない)。事態はたんに「私」だけの問題にとどまらない。というより、都市計画そのものがある種の男根的秩序にのっとっているのだ。「われわれはあるものを取り壊して別のものを建てた゠勃起させた(erected)」(Heart Cooks Brain[LC])。男根的秩序は、「運転」する「私」の性愛に固有なだけでなく、一般的な社会的事象をも指示している。

「駐車場を通り抜ける/それら(they)が収益の上がる゠屈服する(yield)徴は見なかった/これは絶対に終わらない、絶対に止まないのだろうと思った」(Custom Concern[LD])。yieldは「儲かる」「取って代わる」「(車に)道を譲る」の3つの意味をもつ。駐車場は儲かることも、別のものに取って代わることも、道を譲ることもない(だからこそ、「駐車場で座っているのは最悪な気分」なのだ)。つまり、yieldという単語を軸にカネ現在運転という3つの問題系をアイザックブロックは鮮やかに接続しているのである

 ここでも時間の関節が外れている。「インターチェンジ、プラザ、モール/人混みのチェーン・レストラン/住宅開発がさらに続く/…/こんな気分転換゠ペース変化(change of pace)は好きじゃない」(Novocain Stain[LD])。「私」のペースが壊れているのと同じく、街もペースを乱しているなら、「私」の経験は街の経験でもあるだろう。与えられた現在からも遅れてしまうゆえに現在に追いつこうとすることが、都市計画にもつきまとっている。それは「絶対に終わらない」し、「絶対に止まない」。終わることがないとは永遠の謂であり、永遠とは現在しかないことだが、なんらかのかたちで埋め合わせなければならない。

 ここから〈Cowboy Dan〉[LC]を解釈できる。カウボーイ界隈では名の知れたやり手の「Dan」は、ピックアップ──pickupは、アメリカでは車の加速能力をも意味している──に跳び乗ってペダルを踏み、「取り分はもうあるが、俺はもっと欲しい」と言い、「俺が街に来たんじゃない、街が俺に来たんだ/とにかくここから出たい」と言う。「Dan」と「街」の動きはほぼ同一だといえる。どこまで行っても「もっと欲しい」は終わらず、「街」は伸長する。

 これはさらに〈Head South〉[LC]にも接続できる。土地しかないところから来たサーフロックバンドの「お前」は「自分の古い場所」に恥を覚え、髪を脱色してスキー板を質に入れ、「ヤシの木の日陰」で大売れする。しかし、「ああ!なんと後ろ向きな(backward)計画だろう/ここでは物事が灰色から灰色に逆戻りしてしまう」。ペット・サウンズはもう終わっている。だからこう言うしかない、「南へ!」と。

 しかし南へ行ったところで何が変わるのか?「モールはじきにゴーストタウンになる/さよなら、さよなら」(Teeth Like God's Shoeshine[LC])。ある街が伸長し、別の街が衰える。現在しかないので、それはたんにゼロサムゲームにすぎない。「街は動いていないが、だんだん近づいている、不利になっている」(Beach Side Property[LD])。どこかへ向かい続けているようにみえて、その実どこにもたどり着けない。まるで8の字の高速道路をいつまでもいつまでも経巡っているように……

5・生=永遠?

「民衆への慣習的な関心は/モニュメントや尖塔を建てて私たちの眼をすり減らす」(Custom Concern[LD])。モデスト・マウスの批判はいまや社会のみならず、それを包括するさらに上の次元に向けられている。

〈Never Ending Math Equation〉[NE]が、それを端的に示している。「宇宙は数式にのっとって動いていて/終わりになってもけっして終わることはない/無限が螺旋状に創造を生み出し/私たちはその舌先にいる」。つまり、「私」(たち)の自分自身からの分離、およびそれに起因する「運転」は無限の数式によって規定(物象化?)されている。「私」(たち)はあくまで、その包括的な運動の突端に位置しているにすぎない。

 そんなことを見越してか、《This is a Long Drive for Someone with Nothing to Think About》の最後は、宇宙旅行の曲で終わっている(Space Travel is Boring[LD])。つまり、素朴に地球からの脱出(exit)である。しかし曲題のとおり宇宙旅行は退屈で、「30分もしたらもう帰りたくなってきた」。「私」は会話ができるようにと鏡をもらい、「まだかなり孤独だが、それも時間の問題だ」と割り切る。「私」は宇宙まで出てようやく「私」と不即不離の関係を取り戻すことができる(自己との対話!)。しかし、「いまは孤独を感じていないが、すぐに寂しくなるだろう」。孤独→非孤独の遷移と、非孤独→孤独の遷移が同時に言われる(あるいは、歌われる)。この二重の動きはどちらかを偽とすれば解決する問題とは思われない。むしろ字義通り受け取るべき言葉である

「私」は「私」と一体になった(と仮定しよう)。しかしそのうち、もう一度「私」が分裂する事態が生じる。「私」はそれを「気が狂った」のだと受け止めてしまう。受け止めた時点で「私」はふたたび「私」と「お前」の二極へ分離する。要は宇宙まで行ったところで分離がとどまるわけではない。

宇宙まで行ってもダメとなれば、残されるのは死あるのみである。ガスが切れ(out of gas)、道を外れ(out of road)、ついにはすべての外へ(out of everything at last)──
「存在しなくなるか(out of existence)、永遠に道を下るか」(Other People's Lives[OP])。あるいはこうも言い換えられる。「世紀の対決、不在か薄い空気か(absense versus thin air)」(Heart Cooks Brain[LC])。「生」にふみとどまるかぎり、文字通り「私」はミニシン(mini-thin)を噛んで「運転」しつづけなければならなくなるだろう……。正気と狂気のうちの狂気にベットしてけっきょく正気にとどまってしまう。二極への分離とはそのようなものである。その意味で、「出口は存在しない」(Exit Does Not Exist[LD])。

追記──死後?

 モデスト・マウスの初期作品とは、ひとまずこのようなものであった(力量不足と時間不足で、神と悪魔のモチーフまでは触れられなかった。が、上で示したことが私の理解の9割がたである)。

 ではこれ以降の作品はどうか。「96年、97年、98年/私たちはみんな2000年を待ちわびている」(Summer[FA])。そして2000年以降、本当にモデスト・マウスは変わってしまった。すくなくとも初期のような、あまりにナイーブな歌詞は書かなくなった。はたから見れば、それはこの惑星での生/死を端的に踏み越えてしまって、際限のない宇宙旅行へ舵を切ってしまったようである。「そうやって世界が始まって、そうやって世界が終わる/3番目〔の惑星〕はできたばかりだ」(3rd Planet[MA])。あるいは諦め。「人生が長くなるにつれ、おそろしいことは柔らかく感じられる/…/痛みがなければ人生は美しくないのなら/まあ、美なんて二度と見たくもない」(The View[GN])。

 さんざん歌われてきた「みんな落ちてしまう」(The Waydown[FA])とは、「あるべきところに落ちつく(fall right into place)」(Gravity Rides Everything[MA])ことなのか。いまのところ、それを判断することは私にはできない。これを読んだ方々が、モデスト・マウスに自分なりの理解を施してくれることを(あらゆるテクストは問いを内に含むのだから)。


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