見出し画像

恋は幻想。現実とファンタジーのあいだを行き来するわたしたち。

他人に見えるかたちで書いていない期間が積み重なると、どうしても息詰まるような気がする。紙の日記にはどちらかというと断片的なものを転がしているだけで、思考の流れは描かれない。

私たちは語るとき、いつでも他に誰かが必要だ。たとえそれが空想だとしても。

「そういえばあの本おもしろかったなぁ」と思って、『あらゆる人生に奇跡を起こす不思議な物語 超常戦士ケルマデック』といういかにも不思議そうな本を読み返した。

(元電通社員で、今は岐阜県郡上で自分の会社をやっている人もあれはおもしろいよねと、言っていてびっくりした…!)

以下、妙に納得した部分の要約と、引用。

UFOや宇宙人、魔法も魔女もファンタジー。愛とか恋愛も強力なファンタジーで、お金だって単なる印刷してある紙であって、「人間のすごいところは、ファンタジーを創り出し、現実のものとして味わうことができるというところ」
 
「我々は外の世界をありのままに感じているのではなく、脳の中で感覚を再構成している」

『あらゆる人生に奇跡を起こす不思議な物語 超常戦士ケルマデック』

別れようと話し合った恋人と今でも会うたびに夢みたいですぐに時間が過ぎてしまうし(そもそも一緒にいる時間が少ないからということもあるけど)、実際この人と一緒に生活できるのかと冷静に考えると、きっと私も相手もお互いの生活スタイルというか、生活の中で大切にしたいことがズレているようで、きっとお互いにとってストレスになるんだろうなと最近になって気付いた。今までなんで気付かなかったのかと衝撃を受けたけど、それこそ恋で盲目になっていたと思う。

そう気づいたら、あぁもう夢から醒めなければいけないんだと自然と思えた。

彼がこの前ある劇を演出したので、その公演を観に行った。

10ページくらいの作品で一言で言うと、家の近所をいつものように散歩していたらいつの間にか全く知らない町に迷い込んでしまったという幻想のような物語。

フライヤー抜粋

「信じてもらえないかもしれないが話したい、記録しておきたい体験。自分でも信じ難いが確かに身体は覚えている何か」

パンフレット引用

上の言葉を読んで、なんだか自分と彼とのあいだにあるものと通じるようにも感じて、今が目を醒ます時なのよという合図のようにも思えた。

公演の翌日彼と会って話した。私がアンケートの感想に書いた箇所と、彼が私を思い浮かべて演出したという箇所が一致していた。

別にその箇所が気に入ったというわけでもなく、ただなんとなくそこが印象に残っていただけなのだけれども心に届くものは確かにあるのだと思う。

こうやって私たちは、ファンタジーと現実を行ったり来たりするのかしら…

*********

ここ一年ほど読書会で扱っている本のテーマがSFやファンタジーで、一年ほど前に読んだマーガレット・アトウッドのディストピア小説『侍女の物語』の場面がときどき脳裏浮かんで、正直少し気味が悪くなる。

最近読み終えた本と今読んでる本。

以前読んだときに線を引いた箇所を読み返してみると、自由を奪われ、監禁され、書くことを禁じられている彼女が感じ、考えていることは、現代に生きる私に通じる部分があって納得した。

これが物語ならば、頭のなかで話しているにすぎないにしても、わたしは誰かに向かって話しているにちがいない。人は物語を自分に向かってだけ語ることはない。いつでも他に誰かがいるものだ。
 
誰もいないときでさえ。
 
物語は手紙に似ている。親愛なるあなたに、とわたしは言おう。ただ、名前のないあなたに、と。名前をつけてしまうと、あなたを事実の世界に結びつけることになり、そうするとより危険になるからだ。外の現実の世界で、あなたが生き残る見込みがどれだけあるだろう。

マーガレット・アトウッド『侍女の物語』

こうやって言葉を打ち込んでいると、自分はただ言葉によってイメージを思い描いているだけで、それこそ幻想のなかに生きているように感じられる。

いま自分がどこにいるのかすらよくわからなくなる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?