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やがて哀しき反復 〜ベルク「ヴォツェックから3つの断章」の思い出

導かれたもの

1.幻の指揮者のレパートリー

上岡敏之&読売日本交響楽団が、ウェーベルン「6つの小品」、ベルク「ヴォツェックから3つの断章」そしてツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」を演奏するのを読んで、これは聴きたいと思った。
上岡氏が言うようにこれらは世界大戦前夜の不穏な空気を反映しており、奇しくもこのご時世(ウクライナ侵攻)と符合している。
一方で上岡氏が最も愛する音楽のひとつと言う「人魚姫」は最後のあの美しい「人間の不死の魂」「魂の救済」の動機を以て、痛みを負った世界を浄化する組み立てになっていないだろうか。
偶然ではあるが、今聴くべき実に秀逸なプログラミングだ。
https://yomikyo.or.jp/concert/2022/01/617-1.php

読売日本交響楽団 第617回定期演奏会 2022年5月24日開催

ところでその痛みを負った世界を切り取ったベルクのオペラ「ヴォツェック」
その初演者はご存知エーリッヒ・クライバー、つまりあのカルロス・クライバー の父であった。そしてカルロスも父の影を追うようにこのオペラをレパートリーにしていた。
しかしカルロスがそれを上演する機会は決して多くなく彼の生涯の後半はオペラ全曲を振ることはなかったのだが、作曲家がオペラの予告編のような形で編んだ「ヴォツェックから3つの断章」については1980年代にあのウィーンフィル と演奏していたりした。

1982年2月27&28日 ウィーンフィル 第6回定期演奏会(ウィーンフィル 公式サイトより)

ところで、このカルロス・クライバーの「3つの断章」は私の学生の頃に雑誌「レコード芸術」の輸入レコード店の広告欄にその放送録音を音源とした海賊版の発売が予告された。
当時私はそれを入手することはできなかったが、その後、知り合いの好事家からコピーテープを頂戴して聴いていた。
これが私のヴォツェック初体験だった。

WAVE 31「カルロス・クライバー 」(WAVE+ペヨトル工房1991年) P.188

2.若杉弘が与えた衝撃

1992年1月のNHK交響楽団の第1160回C定期演奏会は若杉弘指揮により以下のプログラムだった。

NHK交響楽団のPDFによる演奏会記録より

まだ学生だった私はこのプログラムを見た時に浮き足だったのは、この一夜のプログラムは全てカルロス・クライバーのレパートリーであったことだ。
いくら当時クライバーが好きだったとは言え、何故そんなことに胸を踊らせたかには理由があった。この年1992年3月、クライバーはウィーンフィルを引き連れて日本公演を行い、この若杉プログラムのうちのシューベルトの「未完成」そしてブラームスの4番を演奏する予定だった。
だからこのN響の演奏会は私にとってクライバー様を迎えるための予行演習、儀式でもあったのである笑
(ご存知の通り、1992年クライバー&ウィーンフィル の来日公演は指揮者がキャンセルしてしまった)

もちろんこのN響の演奏会には出かけたが、今となっては当夜の記憶はほとんど残っていない。
しかし唯一強烈に印象が残っているのは他でもないベルクの「3つの断章」だった。
この日はオーケストラの後ろに組まれた合唱用の雛壇に少年合唱団が座っていて目を見張ったのだが(3つ目の断章で歌われる子供の輪舞のみの出演)、何より驚いたのは例のクライバーのライブ・テープで予習していた私には、聴いたことがない音楽が一箇所あったからだ。
そして、それはあまりにも衝撃的だった。

その一箇所、後にわかったことだが本来アルバン・ベルクが編んだこの演奏会用編曲版にはないもので、これは3幕のヴォツェックの情婦マリーが彼に殺害された直後に奏でられる全オーケストラがH音のみでfffに至るクレッシェンドだったのだ。

「3つの断章」は主人公のヴォツェックではなく不幸な犠牲者となる情婦マリーに焦点が絞られて音楽がピックアップされている。しかし彼女の死という重要なシーンがどうした訳か含まれていない。
だから若杉弘はヴォツェックの心を侵食する闇と彼女の死を象徴するあの強烈なクレッシェンドを必要としたのだと思う。
このいかにも若杉らしいアイデアは私に大きな衝撃を与え、未だにその記憶だけは残っているのである。

アルバン・ベルク:歌劇「ヴォツェック」3幕第2場のH音のみのクレッシェンド

3.1997のヴォツェック

それから5年後の1997年、私はついにヴォツェック全曲を観る機会を得た。
ベルリン国立歌劇場の来日公演による上演で、指揮はダニエル・バレンボイム 、ヴォツェックはファルク・シュトルックマン、マリーはヴァルトラウト・マイヤーそして演出はパトリス・シェローだった。

この時の公演は具に覚えている。なぜなら私は事前に全曲のスコアを買い、歌詞とそれに伴って動く音楽の隅々を頭に入れていたから。
若杉弘が撒いた種はこの奇特な青年をそこまで実らせてしまったのだ笑

ところでこの時、シュトルックマンやマイヤーの熱演はもちろん凄かったのだが、バレンボイムの指揮そしてシェローの演出の頂点・クライマックスは第3幕の第4場から5場・終場にかけての間奏曲だった。
これは「3つの断章」の3つ目で取り上げられている箇所で、ベルクがわざわざニ短調という調性を使い、オペラに出てくるあらゆる主題を総動員して書いた「レクイエム」である。
貧困と虐めそして嫉妬によって心歪められたヴォツェック、不倫への後悔と自分の子供の将来を常に憂いた情婦マリー。
社会に押し潰されたこの2人への「レクイエム」をバレンボイム&ベルリン国立歌劇場管弦楽団は渾身の力で嘆いたのである。

そしてシェローはこの間奏曲の間、ほぼほぼ闇に帰した舞台に一点の小さな小さな灯を灯した。
世界への絶望と悔やみ、慟哭する音楽にあって、儚い存在だった者への生の証、あるいは希望の光を示していた。

1997年ベルリン国立歌劇場来日公演パンフレット

やがて哀しき反復

上岡敏之&読響では若杉同様に少年合唱団が起用されるとのことだ。少年合唱は終場の子供達による輪舞の歌のみの登場(わずか3小節!)なので、「3つの断章」の商業録音でも省略されることが多い。
珍しいのは上掲のカルロス・クライバーだ。
彼はその終場を全曲通りに再現して、輪舞はもちろんそれに続くその子供らの台詞まで全て語らせているのである。これは珍しいバージョンだと思う。

その終場、
子供達がマリーの死体を見るために去り、舞台に残るのは遺児だけ。
その子はただお馬さんの玩具に跨って「ハイホ、ハイホ」と駆けている。
虚な響きの中で無窮動な音楽が始まり、しばらくしたら突然停止して幕。


このあまりにも虚無的な反復。
世界はなお救われていない。
まだあの灯が必要なのだ。




この項、愛するTUに捧げたい。


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