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私と「書く」ということ

思えば「書く」という行為は、常に私の隣にあったような気がします。

小学校の時は挿絵も描いて絵本の制作をしていたし、高校ぐらいまでノートに日記を書くことが日課になってました。

インターネットが普及してからは、ブログやSNSは創成期から使っています。

引きこもり時代には、とある漫画の同人小説サイトを作り、その界隈ではちょっとした有名人になってしまって、私の小さな自己顕示欲を満たしてくれていました。


そして今はこうしてnoteを始め、意識はしていなかったけれど、私は常に文章を書いているなと気づいたのです。

なぜこんなに文章を書いていたんだろうと考えたんですけど、理由が分からないんですよね。

友達がいなかったから暇だったのかもしれません。



それとも・・・私はお喋りできなかったから、文章を書いていたのかな?

なんて、今まで考えたことのない結論にいきつきました。

当時の私は、場面緘黙症という状態で人と会話ができず、表情もあまり変わらない子供でした。はたから見たら何を考えているのか分からない不気味な存在だったと思います。

「気持ち悪い」

こういう言葉はよく投げかけられていました。

「何も喋らないっていうのは、何も考えてないのと同じ」
親からはこんなふうに言われていました。

でも、私は喋らないからと言って何も考えてないわけではありません。人に伝えたいこと、さらけ出したい気持ちは沢山あったと思います。

人が当たり前のように会話をするように、私は紙や液晶画面に向かって会話していたのかもしれません。

だって、日常会話を困難なくできる人は、「なぜ口をつかって喋るのか?」なんて考えないでしょう?

それと同じで「なぜ文章を書くのか?」なんて考えたことがありません。

私にとっては当たり前の伝達ツールだったから。

特別文章が書くのが好きだとか、得意だとかも思ったことはないです。ここまでご覧になった方はお気づきだと思いますが、さほど文才がある方ではありません。

でも、これでも一応学生の頃は作文や論文だけは、唯一教師に褒められていました。

中でも高3の頃の担任(たぶん、私のことを一番嫌っていた担任)からもらった論文評が忘れられません。

「あなたはちゃんとものを考えられる人だったのですね。だったら、もっと言葉に出して自己表現すれば、世界が広がると思いますよ」

この担任には、私がどのように見えていたのでしょうか?

まあ、それはいいとして、「世界が広がる」ってなんて希望溢れる言葉なんでしょうか。


できれば私もそれを願っていました。

だけど、喉に石がつまってしまったように声が出ない、顔がこわばってしまって表情が動かせない私にとっては、「言葉で自己表現して世界を広げる」なんて夢のまた夢でした。

その後、インターネットが普及し、同人小説サイトを立ち上げた時にはファンの交流会に参加したりして友人ができたり、ブログを始めたらイイネやコメントがもらえたりして顔も知らない人との交流ができたりしました。

今までは誰にも見られることのない日記に書いていただけなのに、自分が文字で発信したものを誰かに見てもらえて反応がもらえるだなんて、なんていい時代になったのでしょうか。

いままでは自分一人の世界にこもりがちだったのに、同じ趣味を持った人や同じ悩みを持つ人と知り合うことができたのですから。

劇的な広がり方ではないけれど、これも「自分の世界を広げる」ことになったのかな?なんて思います。

そして子供を産んで専業主婦となった今、また新しい世界を広げてみたいという意欲が出てきました。

WEBライターという仕事があると知り、今挑戦しています。


noteと同様こちらも駆け出しなので、まだ収入はさほど多くはないのですが、ぼちぼちとお仕事がいただけるようになっています。

気づけば子供の頃から続けてきた「ものを書くこと」で、また新たな世界が広がりますように

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