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本能的に旅人 第十五話

タヒチとデジャブ


 
船に戻ると、日が暮れてちょうど夜が始まるところだった。
前方デッキにいるのは私だけ。

冷たい中にも、ほんの少し暖かさの混じった海風が心地良い。

空には、さっきからぼんやりとしか見えていなかった月が、分厚い雲の間から顔を出した。

どうしようもなく深い闇に月が出てくれて、やっぱりひとりじゃない、と心強く思う。

真っ暗な中、船は道もない海の上を静かに滑っていく。

どっちを向いても暗い湖のような水面を、ひたすら終焉に向かって。

月だけが希望のように高く昇っていく。

雲が晴れて、月の光が生きている私を異様なほど明るく照らしている。

舞台に立ってスポットライトを浴びているかのようだ。

いつだって主役は自分。
そして観客として一番前で見ているのも、人生の脚本を作っているのも。

宇宙の真ん中から風がぶわっとふいてきた。
こんなふうに大きく呼吸をする宇宙からみたら、きっと死も生の一部なのだろう。

吸ったら吐き、吐いては吸うの繰り返しは、生まれては死んでいきまた生まれくる、その営みに似ている。

つまり同じものを、生と死というそれぞれの側面から体験しているに等しい。

死んで終わりじゃないのなら、恐れるものは何ひとつない。

 
今回の寄港地はタヒチ島。

次の朝早く、パペーテという港に着いた。

サアヤは少し風邪気味で「ビーチじゃなく街に行く」と言うから、一人でビーチに行くことにする。
 
暖かいところでは細胞が喜んでいる。

生きているのが気持ち良いからなのか、南国の人たちは一様におおらかだ。

現地に元々住んでいた温厚な人々は、ヨーロッパからやってきた人たちを愛想よく受け入れてきた。

その影響か南の楽園ではあるが、近代的に栄えている面もある。
とは言え道行く人を観察していると、裸足で職場に向かう人や、道端に咲いているハイビスカスを手折って耳の後ろに飾っている女性もいて、喜ばしいことに楽しげな南国の自由さは失われてはいない。
 
タヒチ島についてすぐバスで移動したビーチは作り物のように色鮮やで、波の音に誘われるまま水着に着替えて海に入る。

体をいっぱいに広げて、ただ波が来るに任せてゆらゆらと水面に浮かぶと、風の心地よさと柔らかな日差しがすべての思考を遮る。

海に包まれ体はふわりとして、自分であって自分でないみたいで、思考がないとき、人はやっと存在そのものになれるのかもしれないと思った。
 
ぷかぷか海に浮かび、ゆったりと満ちた今という時間と空間にいることをただ喜んでいた。

しかし水中にもぐり、魚たちが縄張りに入られないように見張っているところをぐるりと迂回して見ると、少し悲しくなった。

この辺りのサンゴは白骨のように全部、死んでいたのだ。

タヒチがほんものの自然から離れたリゾート地になってしまったからだろうか。

黒砂がかぶさった白いサンゴの死体が海底一面に広がっていた海から上がり、別の浜辺を見に行くことにする。
 

バスに少し揺られて着いたビーチではエネルギーあふれる若者たちがサーフィンをしていた。

その中に、ピンク色をした楕円形のフルーツをかじっている男がいる。
褐色の肌はこんがり焼けていて、がっちりした体形。
背は高く、髪は長くてパーマがかっている。

その男がそうしている姿を見るのは初めてではない、となぜか私は知っていた。
絶対見たことがあると強烈に思った。
完全に、デジャブ。

そう確信してじっとみていると視線を感じたのか、男が気付いてこちらに向かって歩いてくる。
砂浜を大股で、胸を張って。

“Hi, I`m Ralf.”
差し出された大きな手を、”Hi.”と彼の力に負けじとぎゅっと握り返した。

彼の風貌、分厚い手の感触、海風と混じり合った匂い、どうもなつかしい気がして仕方ない。

今日のことを夢で見た? 
もし夢が教えてくれているのだとしたら、人はまるで自由意思で行動しているかのようだが、実は自分で設定した未来からつながる道にピタッとはまるべく歩んでいるのかもしれない。

それとも、もしかしたら似たような場面が実際にいつかどこかであったか。

もしくは今世で会う人とは、前世や別の時空間でも会っていて、何かしらの関係があるというあかしか。

「サーフィンやる?」
頭の中で色々と思い巡らせていたとき、突然聞かれて戸惑った。

でも私は初めて会う感じのしない彼を怪しむことなく、サーフィンは未経験だったのだが、やらせてもらうことにした。

「うん、初めてだけどいい?」
「じゃあ、これ使いなよ」

彼は二つサーフボードを持っていて、ひとつかしてくれた。

ボードがなくならないようにゴムのひもで足とボードをつないで海に入っていく。

隣で見せてくれるラルフの見よう見まねでパドリングを繰り返し練習する。
 
タヒチのビーチでサーフィンをしている人は多い。
さすがサーフィン発祥の地。

ただこの浜はパドリングが少なくて済むビーチブレイクではなく浜からかなり離れたリーフブレイクで、初心者向けのサーフスポットではない。

「今日は穏やかで、挑戦しやすい状態で良かったな。そろそろ波の表面に乗る感覚をつかんできたから、次は立ってみよう」

ラルフは先生みたいに言った。
そっとボードの上に立ち、ほんの少しだけど波に乗る感覚をはじめて味わった。

それは滑り台やスキーのように、動かないものの上を滑るのとは違う、動いているものそのものに自分を融合させて、一体になって動く感覚。
自分が波とひとつになるような感じ。

ところが「わぁ!」と思った瞬間バランスを崩して後ろにひっくり返り、波の中でどっちが上か分からなくなってしまった。

苦しくて急いで水面に顔を出そうとするが、もがけばもがくほど水面とは逆の深い海底へ潜ってしまう。
「苦しい……ここで、死ぬのかも……」

そんなふうにうっすら思った覚えがあるが、気づくとラルフが私を抱きかかえてくれていた。

ゲホゲホとせき込んでいるとラルフは言った。
「波にのまれるのは、よくあることさ。ああいう時には力を入れちゃダメ。人間は自然の力には絶対にかなわない。逆らわずに、力を抜いて委ねるしかない」

命拾いした私は命の恩人と海からあがり、夢中でパドリングをしたために疲れ果てた体を休めるべく、海辺にあるカフェで休憩することにした。

「いつものちょうだい、彼女にも」
ラルフはいつもの店員であろう細マッチョな男性に頼んだ。
 
遠浅の海岸でザザーッと音を立てている波を眺めていると、彼は言った。
「波の洗礼を受けちゃったな」
「うん、思いっきりね。でも初めて波に乗る感覚がわかって楽しかった」

私は遠い目で、次から次へと遠くから波が崩れずにやってくる、人の命をも奪い得る恐ろしい面を持つ海を眺めた。

彼は言った。
「君、どこから来たの?」
「日本だよ」

「へぇ、珍しいな。オリエンタルな国、僕は興味あるよ。僕は南米のベネズエラからタヒチに旅行中」

オリエンタル、という英単語は差別用語だと言う人もいるけど、私は特にそう感じない。
寧ろそうか、えらい異国から来たのか私は、と改めて感心してしまっていた。

しばらくして細マッチョくんが持ってきてくれた飲み物は、黄色いさっぱりした少し酸味のあるシトラス系のスムージーで、グラスの端には輪切りのオレンジと、紙でできた小さなパラソルが飾ってある。

可愛い飾りが落ちないように人差し指で押さながら、おしゃれなスムージーを一気に飲み干すと、ラルフは言った。

「僕は今から仲間のところであれをやりに行くけど、君も来る?」
「買い物にいくからやめとく」
あれ、には関わらない方がいいと、直観的に思った。

「OK, じゃあまたな。きっと、また」
ササッと走り書きした彼の連絡先を手渡してくれ、私の分も飲み物代をテーブルに置いてから行ってしまった。
 
このビーチに来る途中にマーケットがあったのを思い出し、白いプラスチックいすからさっと立ち上がる。

たしかバスから見ていた時ここに着く直前に見かけたから、歩いてすぐのはず。
記憶を頼りに歩いていくと、野外にカラフルな店が連なるエリアが見えてきた。
 
いろいろな国からの観光客が、それぞれの国の言葉で会話をしている。
にぎやかで、通りを歩くだけでも心躍る。

幅広の帽子、マリンウェア、貝殻でできたアクセサリー、南国のフルーツ、トロピカルな雑貨のお店が、所せましと野外に軒を連ねている。

パステルカラーのろうそくを売る店からはアロマの香りが漂っていて、思わず深く息を吸い込んだ。

ぴかぴかに光る貝が太陽の下でますます輝いている。
あちらこちらで売られているワンピースが、あり得ないくらい可愛い。

ティーシャツやショーツが並んでいるお店で、大きな赤い花柄がモチーフのロングワンピースを見つけた。
その服自体がゆるくリラックスしてぶらさがっている様子をうっとり眺めていたら、定員さんが話しかけてきた。

「きっとお姉さんにお似合いだ。よかったら試しに着てみな」
商売文句であろうお兄さんの言葉にうまくのせられて、「こっち、こっち」と促されるまま試着室に来てしまった。

実際に着てみると、サイズも色合いも肌になじんでぴったりだ。
「これ、いくらですか?」
「十フランにしておくよ」

多分、現地の相場からしたら相当高いだろう。
「うーん、ちょっと高いなぁ。八フランなら買う」

「この貝のネックレスつけて、十フランでどう?」
かわいい緑のビーズの先に、光る貝がついたネックレスがこのワンピースに合いそうで、すぐに買うことに決めた。
とは言え最初から買おうと思ってはいたのだが、買いたい気持ちにさらに嬉しさが加わった。

人はだいたい感情で買い物をするものだ。

定員さんに代金を払い、試着したワンピースを着たままネックレスをつけて、うきうきとお店を出る。

お腹が空いてきたことに気がづいて、またさっきのお店に行くことにした。
 
「おかえり、リトル・レディ」
細マッチョくんが出迎えてくれた。

「あいてる席に座って」
そう言ったあと他のお客さんの注文を取りに行った。

さっきと同じ席に座ると、隣では男たちがBisonという巻きたばこを嗜んでいた。

五センチ四方の小さい紙に、黒い粉のようなたばこをトントンと載せて器用に巻いている。
紙が薄いから、できた煙草を指ではさんでいるとへにゃっと曲がってしまう。

しかし器用に口に運んでBGMに合わせて体を揺らして煙の中でリラックスしている様子は、見ているだけで気持ちがよかった。

煙が光に当たって空気に模様を描き、辺りには独特の濃い草原のような香りが漂っている。

空は夕焼け色に染まり、眩しかった太陽はだんだんオレンジ色を強めて沈む準備をしている。

「お待たせしました。ご注文は?」
「魚介パスタください、あと、さっきのスムージー! とてもおいしかったから」
細マッチョくんはOK,とほほ笑んで、厨房に伝えに行った。
 
波はさっきより高さも激しさも増して、ゴゴゴと壮大な音を立てている。
夕日が水平線に半分沈んで、こちらに向かって反射した光が揺れながら長く伸びてきた。

きらきらと夢みたいに光る水面がまぶしすぎて、今が本当に現実なのか疑わしくなってくる。
 
少しずつ暗くなるにつれて、店を縁取るイルミネーションが鮮やかになり、テーブルに置かれたランタンの光が濃くなっていく。
 
「だーれだ」
海を見つめていると突然、誰かに後ろから目隠しをされて驚いた。懐かしい海のような甘い匂いがふっと漂った。

「びっくりしたぁ、この大きな手は、ラルフでしょ」
「へへ、当たり」
彼は無邪気に笑っている。

「僕も夕食をここで食べようと思って。そしたらまた君がいた」
そう言うと私の隣に腰かけた。

手にはパッションフルーツを持ってかじっている。
あまりにも当たり前のように私の隣でそうしているので、毎日会っているような気さえしてきた。
デジャブからはじまった今の時間がとても不思議だ。

こんなふうに突然ストンと落ちたようにしっくりくる瞬間があると、努力や自分次第で運命が決まるというよりは、やはり生まれる前に決めてきたシナリオに沿って物事はそうなるべくして進んでいるのではないかと確信してしまう。

降参するしかない。
個人の力が及ばないくらいが、また面白い。
 
日が完全に落ちると辺りはますます暗くなり、濃いオレンジと青色の残る空には、星がちらほら見えてきた。

目の前からは波がダイナミックにザザーッと寄せては返す音、後ろからは店から流れるピアノのサウンドに挟まれて心地が良い。

「今日はありがとう。初めての体験が刺激的で楽しかった」

「いや、こちらこそ。今サーフィンのインストラクターを目指していて、誰かに教えたいと思ってたんだ。教えるって、自分も初心者だった頃をよく思い出して何がわからないか、どんなふうに言われたら分かりやすいか、相手の立場になる優しさがない務まらないこと。相手が分かっているのかを全く気にせずにひたすら自分が言いたいことをしゃべり続けるのは、僕の知っている大学教授にいるけど、あれはとても失礼な行為だ」

「ラルフは教えるの、向いているね」
「ありがとう。もっと、人間性を磨きたい。そのために、相手のためになると思うことを見つけたら、すぐやるように心掛けている」
ラルフは微笑んで私を見ていた。目の奥に深い緑色の輝きを宿して。
 
ふと海に目をやると、波の形にぴったりと沿った青白い光のうねりが見えた。
うねりは大きくなったりしぼんだり、波のリズムに合わせて動いている。

月明りが反射しているのだろうか?
「ねぇ、あの光、なんだろう」

「あれは夜光虫だよ。海中のプランクトン。波で刺激されて発光してるね」
現実とは思えないくらい幻想的で、波に合わせるように無数の粒が光り踊っている。
「近くで見る? 水面をバシャバシャやると、もっと光るよ」

ラルフは立ち上がって私に手を差し出した。黙ってその大きな手を取ると、彼は海のほうへと私を引いていく。

目の前に広がる真っ暗な海に、空から星の屑が落ちてきて宝石みたいにきらめいている。

彼は躊躇なくザバザバと遠くに行こうとするが、暗い海に入るのは少しこわかった。
足首までつかりながら、恐る恐る青白い光に近づいていく。

「見てごらん、ここら辺にたくさんいる」
「本当だ。きれい~」

彼が指さす足元に光が集まっている。
私がそれを手ですくうと、しばらく光って揺れてから、静かに消えてしまう。
その様子を見て、ラルフは唐突に言った。

「歩こう。そうすれば、光はずっとなくならないから」
彼に手を引かれて沖へと進む。

ゆっくりと深みへ進んでいくにつれ、ワンピースが裾から徐々に濡れていく。

日が暮れてもまだ温かい海水に太ももまで浸かった時、私は言った。
「気持ちいい。全然冷たくない」

実際、少しくらい服が濡れても平気なくらい、夜も南国だった。

甘い風にふかれていると、細マッチョくんが二人分の食事ができたことを手をふって合図してくれた。
 
ラルフはチキンのトマト煮込みを頼んだようだ。飲み物は同じスムージー。
「二回目の出会いに乾杯」

さわやかに乾杯したあと私が手を合わせているとき、ラルフは小さくお祈りをした。
「アーメン」
人差し指と中指をくっつけて、その二本の指で額から胸に丁寧に線をひき、その後左肩から右肩に線をつないで、十字を切ってから食べ始めた。

感謝と敬意を表するのは、いただきますと同じだ。
 
魚介の塩分はちょうどよい加減で、一日外にいて疲れた体に染み込んでくる。
海辺で食べる魚介類がおいしいのは、新鮮だからという理由だけではない気がする。
潮風まじる空気にすごくマッチしているし、体も欲している素材なのだろう。

おいしい料理でお腹が満たされたことで、なんだか心もいっぱいになった。
 
「ありがとう、ラルフ。そろそろ船に戻るね」

大きい彼にハグして胸板に耳を当てるとドクンドクン、と鼓動が´「ぜんぶ大丈夫、大丈夫だから」と応援してくれているように響いている。

「きっとまた会えるよ」

耳元でささやかれた言葉が、もしかしたら今世ではないかもしれないけれど、いつかきっと本当のことになりそうな予祝に聞こえた。
 
 「どこかで、また」
祈りを紡ぐようにウインクで返した。

かたちを変えながら何度も巡りあうの、楽しみにしてるよ。

ご縁があるからこそ、人と人は出逢うから。

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