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人工失楽園BARからこんばんは。2020/04/09 緊急事態宣言と解放区

「この不況なんてあのコロナ時代に比べれば」
いつの日か、若者たちにじじぃどもがこう語る日がくるとかこないとか。

先日、緊急事態宣言が7都府県で発令された。ロックダウンではないので道路が封鎖されたりはしないし、交通機関も運行が続いている。これは強行な禁止によるパニックが、結果的に引き起こす地方都市への感染拡大を防ぐ可能性があるわけだが、同時に幅広い業種に対する面積等から割り出された法的根拠のある施設・イベントに休業要請が出されたりもしている。これを受けてスターバックスや吉野家、サイゼリヤ等も休業となり、私の身近な世界で言えば、大型書店さんの休業が相次いでいる。

この法令の是非については、もろもろ思うところはある。不要か必要かと言えば、現段階ではやや早すぎるきらいがあるが、遅すぎるのだ、という声もある。「早すぎる」というのは法整備と補償の足並みが揃っていない点からで、もしも手厚い補償が揃っていれば、たしかに「遅すぎる」の意見にも頷けるところで、「早すぎる」と「遅すぎる」と一見正反対のようでも、実際には相反する考えとは簡単には決めつけがたい。

大きな懸念点としては、何より緊急事態宣言が発令されたという前例ができてしまったことだろう。もちろんこれは憲法が機能しなくなる緊急事態条項とは違うので、ごっちゃにしてはならないのだが、トップダウンの判断で国民の財政緊縮を「自粛」させられるというのは、考えようによっては危険にもなり得る。何しろ、今回なんてむしろうちも発令してくれ、と求めている県があるくらいで、事態に泡食ってしまうと、むしろ国民のほうから「早く緊急事態宣言出せよ」という風潮も出てくる。パニック状態さえ創り出せば、今後も労せずして「自粛」のかたちによる緩やかな支配は可能となる。繰り返すが、もちろんこれは小さな萌芽であって、緊急事態条項とはまったく異なるこの今回の発令を揶揄したり非難したりする意味ではない。ただ、小さな萌芽だ、とだけ言っておきたい。「なるほど、こういう状況になると、すすんで自粛を求めてしまうのか……」と空気を見ながら考えた。

自粛とマスク。これはまったく異なる。自粛は行為概念で、マスクは物質だ。しかし、なんだかマスクというのは自粛の象徴にも思えてくるから不思議だ。そういえば脚韻も踏んでいるじゃないか。

マスク。まずこの物質の現代における意味付けを振り返る。子どもの頃、風邪をひくとマスクをつけさせられた。周りにうつしてはならない、というわけだ。それがいつ頃だろうか、「うつらないためにするマスク」という用法が石垣島の猿の芋洗いよろしく徐々に浸透していった。やがてマスクは「感染予防のためのもの」として徐々に定着していく。さらに近年になり「素顔隠し」などの意味も付加されるようになった。
ただ、前々から実際にマスクに感染予防効果があるのかは疑問視しているところもある。感染をおそれるなら、ゴーグルもしなきゃダメだし手袋も必須だろうが、なんとなくマスクがお守りみたいに機能してしまっている側面が、たしかに現代にはある。まあ実際のいちばんの効能は喉を保湿できるということが大きいんじゃないかと思うが。保湿はウィルスの最大の敵でもあるから、結果として予防効果はやっぱりある、というのはあるんだが。

しかし、これまで家に余った布のどれがマスクに適用できるか、と考えたことがある人はまずもってほとんどいなかったはずだ。それは産業が「マスク」という物質を生産し、我々はそれを消費するという契約があったからだ。ところが、この生産と消費の関係が崩れるところから、「物質─意味」の紐づけが解除されてゆく。

たとえば下着がマスクになる。それはただそれだけのことではない。下着をマスクにしていいのなら、テレビを椅子にしたっていいし、テーブルと恋をしたっていいし、芥川龍之介の著作を森晶麿の著作ということにしたっていい。「物質─意味」の紐づけがいったん解除されたということは、いま一時的な「意味の解放区」が生じているということになる。

変わったのは「物質─意味」ばかりではない。「家にいる」という行為の意味も変わった。「家で仕事をする」に対するこの国の長らくの無理解は国際社会と比較するまでもなく頑固で偏狭なものだったことは、多くの会社員が実感するところだろう。

それは個人がいくら「もう家で仕事できる時代だよね」と思っていても、それが不可能なようなシステムとして稼働しているので、変更できずにずるずると進んできた、というのが多いのではないかという気がする。

一社の変更では済まない。取引先A,Bがどうするか、そういったパワー関係のもとに互いの顔色を窺っているうちに日常に忙殺され今日に至った、みたいな感じではないか。

それがコロナひとつで大号令が起こり、「在宅業務」、「テレワーク」が常識化し、システム上まだそういうふうにシフトできていないから会社に行かなければ仕事ができないような人が「おやおや」みたいな顔をされてしまうという歪んだ逆転現象が起こっている。

現実の会社が「職場=物質的商材や生身の顧客との取引場」で、それ以外はすべて在宅で済ませられるのだという新常識に背を向け続けてきた結果、「仕事は在宅が基本」という単純なイメージ転換の「誤解」が生じているのだ。

あまりに急速に「物質─意味」「行為─意味」の紐付けが解除されてしまったために、さまざまな場面で「誤解」が生まれつつある。「外出」という行為についても、いまだ意味が定まっていない。

そこに従来の緊急時にこの国で多用されてきた「自粛」というこれもまた行為概念なのだが、すでに「行為─意味」の紐付けが解除されはじめているがために「自粛」もまた、これまでのようにはうまく機能しなくなっているのだ。

国の「かたち」はまず言葉から変わっていく。コロナはきっかけに過ぎない。言葉を手放したところから、かたちが変わっていくのだ。

たとえば、この6,7年というもの、一人の人物を頂点に据えた長期政権というものがこの国では可能となった。大企業に有利な政策を多くとることで、格差は進んだが、国民は持ち前の無気力さゆえか何かぼんやりとした平和未満ゆえか、あるいは一度期待した革命への失望ゆえか、そのすべてか、とにかく「もう当面はこれでいいじゃないか」という空気が流れていた。

たとえどんなに裏で嘘をつかれ、それについてのじゅうぶんな説明がなくはぐらかされるばかりであっても。桜を見る会についての説明が嘘に嘘を重ねドツボにハマる子どものような展開であったとしても。いいじゃないかいいじゃないか、と。

つまりある地点から、国民は政府というものの内容を固定していた。「この程度の意味づけでいいよ」と。だが、コロナ下にあってその意味もようやく解除されつつあるのを感じる。この相次ぐ紐付け解除は、言葉をないがしろにし続けた政権の一連の流れと決して無関係ではないだろう。

とはいえ、この感覚は幻想かも知れない。

幻想かもしれないが、少なくとも幻想の入り込む余地が生まれた。
これをすなわち解放区だと捉えてみたい。「物質─意味」、「行為─意味」が解除されたのだ。この解放区がどれくらいの期間続くものか、あるいは、どれくらいの規模に発展していくのか、というのはこれからの推移を見守っていきたいのだが、一度この紐づけが外れてしまうと、さあ日常が戻って来たぞ、となったからといって簡単には元通りの紐づけになるとは考えないほうがいいだろう。

じつのところ、解放区をつくった原因は政府にもあるだろう。おそらくドイツのメルケル首相のように用意周到にしっかりとした施策をとっていれば、混乱はなく「物質─意味」の紐付けも解除されなかったのだ。

「物質─意味」「組織─意味」「構造─意味」「場─意味」「行為─意味」の紐づけが解除されたところでは、もはやかつて国家がある種の「言霊」によって維持できていた骨格が成り立たなくなる。それを、「日本人の優れた良識」という「自国民のエゴをくすぐる言葉の魔術」で封じ込もうにも、もはや苦しいところにきている気がしている。いやどうかな。やっぱり今回もうまく言霊は機能してしまうものなのか……。

さて、こんなことを暢気に言っているが、私とてこの緊急事態宣言の煽りは受けることになる。なにしろ大型書店が一気に閉店する。本を売る「場」がなければ、新しい本を作る動きもストップされる。次々といたるところに弊害は出てきているし、まだまだ出るんじゃないかという気がしている。

「本屋」というものも、ネットショップはあるものの、テレワーク化は困難だ。そこは生身の顧客が訪れ、物質的商品に触れ、それを買い求める。その根幹がアウトとなれば、当然「本屋」という「場─意味」が解除される。もしもこれが真冬で、当面の外出禁止とでもなれば、家にある本という本が、灯油で燃やせる燃料へと変わることだろう。まあ春先なのでそうはなっていないが、長引けば来冬には「本」の意味が解除される日もくるわけだ。

そのようにして、いったん作られた解放区は、必ず世界を変容させてしまう。それはディストピアか、革命か。どっちにも転びうるだろうと思う。

想像してみてほしい。
「マスク」は今後どうなるのか。
「在宅ワーク」は今後どうなるのか。

いろんな意味合いが変わってきているはずだ。つまり、我々はコロナに乗じて、社会にはびこる物質や行為の意味を変更させてゆく。

あなたはこのコロナの影響下で、閉塞感を抱いているだろうか。
私も脅威は感じている。
恐ろしいな、とも思っている。
だが、同時に一秒たりとも「言葉」の動きから目をそらすことができない、緊張感に満ちているという意味では、きわめて充足した時間を日々送っているようにも思う。

とにかく場違いな台詞に聞こえるかもしれないが、愉しもう。
愉しめないのなら、韻を踏んでみよう。
大型店舗が自粛
だが店舗に付けるマスク
そんなものはなく
あるのは在宅ワーク
でも大型店に在宅ワークはなく
従業員はまだしもバイトは最悪
yeah……

よい眠りを。
そして、よい一か月を。


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