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人工失楽園BARからこんばんは。 2020/03 コロナとワニ

人工失楽園BARからこんばんは。と題してこれから1年、ためしにエッセイのようなそうでもないような、曖昧なテクストをこさえていこうと、まあこんなことを考えた。

タイトルにある「人工失楽園」というのはボードレールの「人工楽園」からとった。「人工楽園」は阿片の効用や吸引法なんかを紹介した散文であるが、ドラッグによる快楽を、21世紀が始まってから最初の20年にたとえてみた。いわば楽園を失った地点として、2020年を再定義した虚構のBARがこの空間だ。思いのままに寛ぎ、酒など用意しながらだらだらと読み進めていただければ幸いである。

そもそもツイキャスというものを不意にやる気が失せてしまったので、そのお詫びの企画はないものかと思ってこうしたことを始めるものだから、文章といったって、話し言葉と書き言葉の中間的な性質のものとなるだろうと思われるし、大したオチもあるかもないかもわからない。ひとまずBARであるからには、快楽なき世界に、しかしたしかな思考の愉楽をもたらして幕を閉じられればいいなと思っているので少しお付き合いいただきたい。

そういえば巷ではカミュの『ペスト』が流行っているようで。それというのも、例のコロナだ。卒業式を無観客に追いやり、あらゆるライヴを無観客に追いやってご満悦な王、コロナ、これを何か事前に予言するような書物はなかったかしら、あったあったぞ、『ペスト』だ、と。まあ感染の世界レベルでの拡大を考えれば、作中に登場する右往左往も予言めいたものというのは出てくるわけだ。

まったく世の中のイベント中止には参ってしまう。そのくせイオングループの店舗はどこも人で溢れ返ってるじゃないか。これじゃ話がちがうんじゃないか、という気がしてしまう。かといってスーパーマーケットまで閉鎖されたのでは喰ってはいかれないだろうが、それはイベントを飯の種にしている人だって変わらないわけで、「食って行かれない」の主語が消費者か否か、というところで要するに、少数派に泣いてもらう、というようにこの国はできているようで、それは今回にかぎらずどんなときもそういう国だよなあと呆れたり、嘆いたりしながら、まあ本でも読んでくれ、我が新刊ならば『探偵は絵にならない』がたいへん好調だぞ、なんてことをついでにここに言っておいたりしてみる。おっとこれは脱線。

さてさて、そもそも、なぜ人は予言を必要とするんだろう? というのを、じつは4,5年前から考えていた。『ペスト』に限らなくて、たとえば『100日後に死ぬワニ』というのも、ゆるく考えれば予言だ。我々は、予言が当たるのを目の当たりにする「目撃者」となることを運命づけられていた。

もう一つ、もしかしたらナレーター役のスキャンダルのほうばかりに注目していてこのニュースを見逃している方もいるだろうが、じつは数日前から『三島由紀夫VS東大全共闘』が公開されている。これはドキュメンタリー映画なのだが、現代の我々は、1000人の左翼学生に囲まれた三島が一年後に自衛隊の駐屯地に立てこもって侍よろしく自決を図り、部下によって斬首された、という悲劇的な<未来>を知っている。言ってみればこの映画もまた<1年後に死ぬ三島のある一日>みたいな内容なのである。

これらは偶然の一致だろうか? もちろん、まったくの偶然だ。

しかし、こうは言えるかもしれない。人は、混迷のなかにあって、変えられない未来を知って初めて生き始めるのだ、と。

じつは4年前から書き続けてきた大長編(僕にしては)のテーマとも重なってくるのでこの話題はあんまりこれ以上触れたくないのだが、ワニを例にとると、あの漫画のワニというのは、100日後に死ぬとわかっているので、彼のなにげない日常が我々には愛おしく、尊く感じられたわけだ。

で、三島の場合も、「その一年後に亡くなり、現在に至るまで死者として現代と関わり続けている作家、三島のある一日。あの日、彼は敵対する思想の学生たちを前に、あくまで対話を試みた」というドラマが、現代の我々にまさに「ドラマ」として屹立してくる。これもまたたいへん尊く感じられる。

さてさて、ここで問題だ。コロナによって我々は混迷の時代に叩き落とされたのか? そうではないんじゃないかと思う。もっとずっと前から、我々は各々の混迷の真っ只中にいたはずだ。

ただ、それを何となくやり過ごして、ぼんやりとしたなかで平成を終えただけなのだ。それが、コロナという脅威に出会うことで、はじめてくっきりと「ああ、いま我々は混迷のなかにいるのか!」と理解してしまった。

一見、「ペスト」、「100日後のワニ」、「三島由紀夫VS東大全共闘」とまったく無関係なものに見えるが、そのじつこれらが現代の「不安」を形づけている。無形の現代を形作る。

無形といえば、この国の国民性だろうか。
よく、この国には「空気」のようなものがあって、その「空気」につねに動かされているなんてことが言われる。戦前は天皇主義によって、確固たる核があるかに見られていたのだが、戦後に民主化が進められると、核が取り除かれ、国民の無形ぶりが露呈した。

そのような大衆の愚かしさに見かねた三島は精神そのものの中心に天皇を据えなければ、と考えるに至り、一方の全共闘の学生たちは嘘っぱちの民主主義国家としての日本の形をぶっ壊していこうと考える。三島はこの学生たちと自分の違いは、天皇を中心に据えているか否かでしかなく、国家にノーと突き付けている時点ノーサイドだと思ったからこそ対話を試みたのだろう。

互いをディスり合う「暇な時間」は終わった。攻撃はサディスティックで、エロティックなものかも知れないが、人々が予言の必要性に気づき始めた時点で、そのような方法論自体がもう色あせてゆくのだ。

ところで東京オリンピックが延期になるというではないか。それを受けて我が構想4年の大作は、もう二度もゲラになっているにもかかわらず内容を多少修正せねばならない可能性が出てきた。まあそんな大きいものではないだろう。

自分はまだそのニュースが出る前に、アボカドと挽き肉をまぜていた。アボカドと挽き肉をまぜてそこにチーズを投入し、牛乳で湿らせたパンを細かくちぎってまぜ、マヨネーズと塩で味を調えて容器に詰め、オーブンで焼く。これは手抜き料理なんだけど、出来上がるとまるで高級料理店にでも来たみたいな目でまわりから見てもらえるのでけっこうコスパのいい料理だ。何より、コックとしての自分の腕に少しの自信がもてるのでおススメなのだ。

私は「よし19時に食べ出すぞ」と家族に告げた。

果たしてオーブンは18時55分にチンと音を立てて止まり、私にしては珍しくも、19時ジャストに夕飯の支度を完了することができた。
何が言いたいのかというと、世の中にはいまアボカドと挽き肉のオーブン焼きが必要なのではないかということだ。予言どおりに、ゴージャスなディナーに化けてくれるアボカドと挽き肉のオーブン焼きは、東京オリンピックみたいに来年に逃げてしまったりしない。我々はアボカドのたしかな食感をたのしむことができる。ここに、手のとどく「予言」がある。

こういうことをくだらない、と思うかもしれない。けれど、まず最小単位のすぐ近くにある「予言」にむけて歩き出すとき、あなたの日常はワニの尊い99日間のように輝けるものと変わるかも知れない。最小単位の予言をいくつも用意してみよう。

そうそう、最後にワニについての思い出を。実家がいま伊豆高原というところにあるせいもあって、何年かに一度、バナナワニ園に行くことがある。ここには、名前のとおりワニがいるのだが、入園料を払って入ったはいいけれど、ほとんど動いたところを見たことがないのだ。見ているだけで欠伸が出そうになる。ほんとうにオブジェか、さもなくばすでに死んでいるのではないかと思うくらい、奴らは動かない。しかしそんなワニのなかにも、きっと100日後に死ぬワニはいるだろう。
ワニは予言を必要としないのに違いない。予言を必要とするのは、人間のほうだ。だから、「100日後に死ぬワニ」の読者はワニでなく人間に規定されていたのだなあ。なーるほど、なんてことを考えていたら、おお、もう確定申告のためにレシートを集めなければならない時間ではないか、というわけで本日の人工失楽園BARはここまで。


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