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人工失楽園BARからこんばんは。2020/04/11 責メルノ見ルノツライ病

自宅で過ごすのにもそろそろ飽きてきた頃でしょうか?
みなさんこんばんは。
ちなみに私は最近、「荒野行動」というアプリゲームにはまっている。
戦場で殺し合う物騒なゲームだが、荒野を駆け巡れるので、自粛自粛であんまり出歩けないなかではけっこう気分転換になっている気がする。
まあ、気がするだけなんだが。

さて、先日、某有名コピーライターさんがコロナによる状況がつらいのではなく、「誰かが誰かを責めるのを見るのがつらいんだ」的なことを言ったとか言わなかったとか。

その発言自体は、一見すると「なるほど、ごもっともだよね」と思うし、この「誰か」というのが明らかな個人で、たとえばコロナ患者のようなことを指しているのだったら、絶対的に強く頷けるところなのだ。

ただ、ご本人がわりと日頃から体制寄りの発言が目立つこと、ことが波立ったときにことなかれ主義をとる傾向のあることなどを考えると、どうもそうではないようだ。

恐らくこれは、政府や首相に対するここ数日のネットの声を、コピーライターらしく、キャッチ―に主語をなくして捉えたのだろう。「そんなこと言ってる場合じゃないのに、いまたいへんなときなのに、そんな声聴きたくないよ、もう神経まいっちゃうよぉ」ってな感じだろうか。「たぬきだってがんばってるんだよぉ」くらいのノリなのかもしれない。
まあそんなことはいいじゃないか。

いや! あんまりよくはないな。

まずもって、たとえば「布マスク2枚給付」というお笑いトップダウン判断や、事実上もらえる人がいるのかがいまいち不鮮明な手続き超めんどそうな給付金問題とか、そういうものについて国民から声が上がるのは自然なことだ。なぜ声が上がっているかといえば、政府というシステムが国民のために「うまく機能していない」からだ。

結局、某コピーライターの発言は、そういう意味でコロナが広まりだしてから始まった「いまそんなこと言ってる場合なのか」論調の一つと考えていいのではないかと思う。

こういう論調が最近とくに多い気がする。桜を見る会問題や、近畿財務局職員の遺書問題などいま責任の在処を追及すべき問題は山ほどあるが、まあそれは百歩引いて置いておくにしても、肝心のコロナ対策オイ!と言いたくなる人々に対し、「いまは有事であるぞ。何をこのような時に、心を一つにすべき時に…!!」と。

心をひとつにすべき時であればこそ、嘘のない言葉、嘘のない政策が求められている。だが、求めているのに、そこに嘘や不誠実な誤魔化しでかわされたら、責任の所在を求めて「誰かを責める」のは当然のことだろう。

この場合、「誰か」と言ったが、厳密に言えば、責められているのは「誰か」ではなく、このような「状態」である。だから、先のコピーライターの発言はやはり完全な目くらましなのだ。

前回の記事でも述べたように、コロナ以降、「物質─意味」の紐付けが解除された。家にある適度な生地のものがマスクに代用された。もはや産業が与えた意味以外の用途で、物質が使用され始めたところに、国家の「綻び」が生じている。その「綻び」はここ数年の政府が不誠実に国民から逃げ回ったことと無関係ではないのだ。

「いやいや、無関係でしょ、さすがに」という声が聞こえてきそうだが、ではどうだろうか、今回の件で、いち早く次のように言っていたら?

「国民の皆さん、3月から世帯ごとなんてケチなこと言わず国民皆さんに一律30万渡しますので、これでどうにか自宅から極力出ずにお願いします。企業の皆さんにも個人事業の皆さんにも手厚く補償出しますから長期休暇をお願いします」

こう言っていたら、いまごろ感染率はまったく違って、ほかの物質、たとえばハンカチや下着の類が「マスク」となることはなかったはずだ。結局、今まで同様にのらりくらりとかわそうとした結果が、こういう事態になっている。
このように考えれば、「物質─意味」の紐付けを解除させた──言霊による結束を自ら解除する道を選んでしまったのは、政府自体の判断ミスによるものなのだ。

「そんなこと、もうこの段階で言ったってしょうがないじゃん!」

こういう声も聞こえてきそうだ。これはつまり、体制批判をするべきタイミングは逸したと言いたいわけだ。もう現段階は批判すら自粛すべき時で、「みんな、手を合わせて、自分にできること、やっていこうね。ステイホーム♡」って、ハッシュタグをつけて間抜けな動画をアップすべき時だと、まあこう言いたいわけだ。

まず、いま絶対に批判をやめてはいけない理由をいおう。

①この国の国民は非常に忘れやすい。

これは本当に、だれもが頷いてくれると思うのだが、1カ月前のことさえもう過去すぎて責めるのが億劫なような人たちなのだ。
いま、この状態で感じている不満点は、いま声を上げて集団による意思として記録していかなかったら、絶対にすべてなかったことになるだろう。なぜなら、コロナが去ったあとに待っているのは、たのしいたのしいオリンピック騒ぎだからだ。

②批判と非難はちがう。

非難というのは相手の上げ足をとりあげては糾弾することである。対して、批判とは現状の問題点を指摘し、「こうしたらいいのに、なぜこうしないのだ?」と声を上げることだ。これは体制に監視の目を向けて、そのシステムの欠陥を指摘しているのであり、もちろん真に意味のある政策には評価を与える。これも「批判」だ。

批判というのは、価値に関わる行為なのだ。価値のない政策に価値がないと述べるのもまた、批判である。これをするのは、体制を監視する国民の義務のようなものだ。国民が監視をしなくなったら、いつでも権力は暴走する。

③現状を変えなければならないから

批判は、現状をより良いものにするために繰り返していくべきものだ。先ほども言ったように非難ではないのだ。批判だ。その中にはもちろん責任を追及する「責める」場面もあろうが、価値に関わる行為であるから、反対に、その価値を賞賛する場面もあろう。いずれにせよ、それは現状をより良い状態にしていくために行なわれるのだ。

結局、「いまは心をひとつにするときじゃん、みんなとにかく言うこときいて、大人しくじっとしとこうよぉ。人を責めたりしないでさぁ」という考え方は、現状をより良いものにしようという意志を砕いて「無思考のぬるま湯」へとハマらせてゆくことでもあるのだ。

じつはこの「無思考」は国民の多くに巣食う傾向でもある。「もういいじゃん、そんなことは」と、「そう熱くなるなって、当面の秩序と平和未満を大事にしてぬるっと生きていこうよ」と。

このような考えは、情報過多な現代社会において、なるべく余計な情報をカットしたいという感情ともどこかでつながっているのかも知れない。情報とは欲求の指数で、あまりに多くの欲求を持っているのは生きるうえでは生きづらくなるものだから、ある程度のところで情報を脳が制限したがる。とりわけ、今回のような非日常的な出来事を前にしてパニックを起こすと、いつも以上に多くの情報を受け付けなくなるので、例のコピーライターのようなシンプル思考の人間が増えてくるのだ。(どうでもよいが私はコピーライターとしての彼の能力は高く買っている)

そこで問いたい。本当に情報をカットしたら、幸せになれるのだろうか? おそらく答えはイエスだ。「お国のため」と言ってあらゆる命令を「これがお国のためになるのだ」と単純に捉えられた頃、人々はドーパミンがドバドバ出て、さぞや恍惚感に浸っていたことだろう。ただ撃ち落されるだけの飛行機に乗ることだって厭わなかっただろう。情報は、カットすればカットするだけ、幸せの近道になる。それは「蟻」に近づくことだからだ。「蟻」は濡れた道に入って溺れ死にながら人柱となることをいとわない。

そこでさらに問いたい。あなたにとって幸せとは、ほんとうにこのような「集団エクスタシー」の状態をいうのだろうか? このような「幸福」はある意味で官能小説を読んだときに得られる快楽と変わりがないように思われる。あるいは刺激的なセックスでも得られるだろう。

極論を言うと、いま国民は刺激的セックスで得られる快楽に溺れてゆくか、どんな状態であっても「人間」であることを選択できるのか、が試されている。

いまが自粛すべきときだ、という考えにノーを唱える気はない。外出も控えるべきだし、「三密」だって大事だ。壇蜜もそこそこ大事だ。できることをしていこう。自分のすべき仕事をしよう。それにもイエスだ。

だが、それでも唱えよう。

今、意味の紐づけが解除された「ばらばらの世界」で、あなたがひとつひとつの意味を管理しなければ、コロナが去ったあとに、「昨日の世界」なんてもう絶対に帰ってこないんだ、と。

まず手を洗ってほしい。

マスクもしっかりつけよう。

自宅にいよう。ステイホーム。ハッシュタグ。

コロナにかからないで。

そして、責メルノ見ルノツライ病にもかからないで。

生き延びよう。

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