見出し画像

北上次郎さんのこと

 かれこれ25年とか26年とか、以上前の話である。
 BS11チャンネルで『週刊ブックレビュー』という書評番組があった。
 司会は児玉清さんをメインとして、その頃はたまに木野花さんが司会を務められる回もあったと記憶している。私はどういうわけか高校時代、児玉清さんにひどく憧れとも信頼ともつかぬ感情を抱いていた。とくに氏の、紹介される本にすべて目を通して、どんな本にも敬意と真摯な考察をもって臨む姿に好感がもてた。
 その番組で、本を推薦するゲストが毎週呼ばれていた。そこにけっこうな頻度で登壇する目黒孝二という書評家がいた。面白い人だった。決して口数の多いタイプには見えないのに、いざ好きな本を手に紹介を始めるや、前のめりになってプッシュするエネルギーに引き込まれるものがあった。
 それと前後して(どっちが先だったか忘れてしまったが)、馳星周さんの『不夜城』という作品が世に出回った。当時無名の新人作家である馳さんの本の帯に、北上次郎という書評家の「1996年は、この長編がぶっち切りでリードする!」というコメントがあった。「ぶっち切り」なんて言葉、それまで本の帯で見たことがなかったので、その躍動感に驚いた。
 書評家という仕事についてその頃はまったく無知だったが、それでも文芸誌をいくつか読んで書評を斜め読みしていた身としては、それらとは明らかに異質な感覚を受けた。本を批評する、という意味での「書評」のセンスの話ではない。氏の言葉には、本のなかにある熱を、まだ読む前からこちらに体感させる役割が感じられた。以来、文芸誌で北上次郎の名前をそれとなくチェックするようになった。書評家というよりも、本の熱の伝道師として。
 「ブックレビュー」で前のめりで話す目黒孝二さんと北上次郎さんが同一人物であると知ったのは、たぶんそれからちょっと後のことだったと思う。それを知った時は、点と点がつながって線になった気がした。なるほど、あの前のめりの熱量が、「ぶっちぎり」という言葉を生んだのか。ひどく腑に落ちた。その頃から私にとってもう北上次郎さんは書評家という前に一人の人間として脳内にあった。氏がどんな本を、どんな熱量で推すのか、それが楽しみで仕方なかったのだ。
 時を経て、2011年。第一回アガサ・クリスティー賞の応募要項をチェックしていて、最終選考委員のなかに北上次郎さんの名を発見したときは胸が高鳴った。それも、毎週欠かさず見ていたブックレビューの司会者、児玉清さん、高校時代から貪るように読み耽った若竹七海さんという最強の三並び。自分のための賞ではないか、とすら思ったほどだった。
 果たして、その年、私の応募作『黒猫の遊歩あるいは美学講義』は受賞に至った。最終選考を前に、選考委員の一人であった児玉清さんは他界され、代わりに早川書房編集部の小塚さんが入り、北上さん、若竹さん、小塚さんの三氏で選考が行われたという。そこで若竹さんと小塚さんが自作を推してくださり、それに消極的に北上さんが賛同したことで受賞に至ったのだとか。
 受賞パーティー当日、控室で北上さんと若竹さんの三人になる瞬間があったが、緊張のためにほぼ何の言葉も出てこず、そのままパーティーに突入。
 のちの単行本にある選評でも、また受賞パーティーの壇上でも、北上さんは「個人的には苦手なタイプの小説」と私の本を評された。「ただし認めなければならない」と。パーティーの席では、『不夜城』の際のご自身の感想にも触れられた。細部は忘れたが、大意としては、あの作品も自分の好みだったわけではない。けれど時代に求められる小説だと思ったので「ぶっちぎりにリードする」と書いた、と。『遊歩』も好みではないがそういう時代に求められるところがある、みたいな話だった。
 手放しの賛辞でないところも、北上さんの正直な人柄が感じられて嬉しかったし、いつかは手放しで賞賛されてみたい、と強く思ったものだった。
 二次会の席で、一瞬だけ北上さんがとても和やかな雰囲気で一言声をかけてくださった場面があった。私が当時の集英社編集部に在籍していたI君と大学で同期だったことを誰かに話していたところを漏れ聞いた北上さんが「そうか、君はIと同期なのか!」と。何だか、その瞬間だけは親戚のおじさんとの関係みたいになれたような気恥ずかしさと嬉しさがあった。何しろ、北上さんのことをこちらは高校時代から注目していたのだ。
 それから歳月は流れた。作家業は一進一退を繰り返していた。たまに重版はあれど大きく売れるわけでもなく、発行部数だけみれば先細る一方に感じられて危機感ばかりが募ることも多かった。
 そんな焦りのなかで、背水の陣で3年前に発表したのが『探偵は絵にならない』だった。生まれ故郷の浜松を舞台にした軽ハードボイルドである。地元では大きく取り上げられ、書店さんたちに盛り上げていただいたおかげで私にしては好調な滑り出しができた。爆売れではないものの、それなりに安堵もした。ただ、一方でまるで書評が出ないことにわずかな寂しさを感じたりもしていた。
 それが、発売から二カ月ほど経った頃、日刊ゲンダイさんに北上さんの書評が載った。飛び上がるほど嬉しかった。だが、その文章には北上さんが作者である私に「見ているぞ、気を抜くな」と仄めかしているような厳しさも感じられた。「まだ文章の一部に粗さが残ってはいるけれど、このまま書き続ければそれもこなれていくに違いない」という部分などは、私を世に送り出した立場からの公開指導だな、と受け取った。
 よし、やはり自分の執筆活動は間違っていなかったのだ。この道をさらに進めてみよう。次こそ氏を唸らせてみせる。そう気合を入れて次作『探偵は追憶を描かない』を1年後に書き上げた。すると、刊行から数か月後、こちらもまた北上さんは取り上げてくださった。
 ところが喜ぶ前に刀をつきつけられた。「いきなり注文を一つ」と文が始まっていたからだ。やはり公開指導であった。しかし、それをひとしきり終えてから「ということを書いたのも、本書は私のごひいきシリーズの第2弾だからだ。」とある。何ですか、そのツンデレは。感情が揺さぶられてメンタルがもたない。
 けれど、それでもあの熱量の伝道師の琴線にわずかにでも触れることができたことに少しの歓喜があったのも確かだ。そして、いつかは「ぶっちぎり」並みの言葉を引き出したい。さらに強くそう思った。
 23年1月25日、朝の寒さに耐え、インスタントコーヒーが切れてしまったがために珈琲豆を挽いて飲むというわりと面倒な作業を済ませ、これから仕事というタイミングで氏の訃報を知った。それなりに深い味わいの珈琲だったはずだが、まったく味がわからなくなってしまった。
 北上次郎=目黒孝二さんは、作家、書評家、編集者、と立場を越えて愛される存在であり、その影響力は出版界の父と言ってもよかった。そして、私にとっては好みの作風でもなかった自分を受賞させ、世に送り出してくれた〈父〉でもあった。
 公開指導はあっても手放しでは一度も褒めてくれなかった〈父〉。そして、もう二度と氏から賛辞を受け取ることはないのだ。その虚脱感は、なにも私一人の特別なものではなく、ほかの作家さんや書評家さん、編集さんたちのほうが強く感じておられることだろう。
 まだ少し、心もとない感覚が大気中を彷徨っている。ふと気を抜くと何だかすべてに投げやりになってぷかぷか浮いてしまいそうな、そういう重石がのいたような感覚もある。
 やらねばならないことはわかっている。北上さんがいたら、受け取ってくれそうな熱量のある作品を書いていくこと。ただ少し、この虚脱感から抜け出すには時間がかかりそうである。接点は少ないけれど、それだけ大きな存在だったのだな、と改めて思う。
 最後になるが、一つだけ。
 6年前、クリスティー賞の二次会で藤田宜永さんにご挨拶をさせていただいたとき、藤田さんから思いがけず「君が森くんかぁ」と言われた。「いや、北上さんにクリスティー賞受賞者って誰が活躍してるのって聞いたんだよ。そしたらそりゃあ森くんだろうって言うから気になっててね」と。北上さんが私の活動をそれとなく追っていてくれたことが意外だった。それまで一度も書評が出たことがなかったから。
 藤田宜永さんも遥か昔『ダブル・スチール』を拝読して以来、私の中で神のポジションにある方だ。そして、お二方とも今は遠い場所にいってしまわれた。いまごろ、児玉清さんたちと、どんな小説談義に花を咲かせていらっしゃることか。そこで私の名前は出るだろうか。「あいつまだ売れてないねぇ」という笑い話でも、出てくれたら嬉しいなと思う。
 北上さん、本当にありがとうございました。あなたに届くような熱量の小説を書いていきます。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?