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遊歩する書物たち

知らないかも知れないが、じつのところ書物は遊歩する。あなたの知らないときに、書棚を飛び出し、台所へ向かって冷蔵庫を開けることもある。

書物によっては、トイレにも行く。べつに何をするわけでもなく、ただ便器というものの大きさに感心し、ごおっと音を立てて流れる水に慄くだけだ。

洗濯機が好きな書物もいる。とくにドラム式の、中の回転がよく見えるタイプの洗濯機は好まれやすい。書物はそれらをじっと眺めている。飽きるまで眺めて、飽きがくるとゆっくり、少しふらつきながら書棚に還る。

家の外に行く書物もいる。ただ、多くは迷子になるのを恐れて、たとえ玄関のドアが開いていても、外には出ない。玄関の淵までいって、しおりの紐がひらひらと風で舞うのを嬉しそうにする程度だ。でも、冒険心の強い書物はちがう。ジャック・ヒギンズや船戸与一の著作だったりすれば、何カ月も世界中を旅して帰ってくることもある。

おなじ時期に買った本なのに、さほど汚れがないものがあったり、かと思うとひどく薄汚れてしまっているものがあったりする理由は、書物によって動き回る率がちがうからだ。たくさん動き回る書物はもちろんそのぶんくたびれやすい。

カート・ヴォネガットの本などは時空さえ行き来する。たまになぜか同じ本が二冊見つかって首を傾げたりしてしまうのは、過去にタイムスリップしたまま元の時空に戻れなくなった書物が心細くてとりあえず同じ書棚に収まっているからである。

ところで、そもそもなぜ書物が歩くのかについては、いまだ研究が進んでいない。これはとても残念なことだ。唯一この問題に取り組んでいるモーリス・アクィナス・マーロウ博士は、書物が歩くのはひとえにリアリティを探求するためではないかと推測している。もしもまた飼い主が再読を試みたとき、以前よりも知見を得て、リアリティを増し、豊かな読み心地を与えたほうが、よりかわいがられるからではないか、と。

いずれにせよ、我々が歩いている書物に遭遇する機会は滅多にないだろう。それは我々が書物を動かないものと規定し、書物を探すときには必ず動かぬものとして探すからだ。だから、「あるはずの本が書棚にない」という不在の発見や綻び、汚れ、そういったものの痕跡からしか、我々は彼らの行動を推測することはできないのだ。

それで何が困るかといえば、何も困らない。人間は歩き回るうちに喧嘩や戦争を始めるが、いまのところ書物は喧嘩も戦争も始めていない。戦争を起こさぬ者たちについては、その全貌を把握していなくても、さほど困ることはないのだ。


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