ソコデコソダテ 第2回「我輩は動画が超好きなわけじゃない」
かれこれ20年ほど育児をしていると、どうしても子どもの相手をしてばかりもいられないほど忙しい時期というのが、父母ともにある。それは昔のような日本家庭でないかぎり仕方のないところがある。
しかし運のいいことに、私は13年くらいまえから自宅を作業場とするようになったので、家にいるといえばいる。なので、原稿の締め切り前でも、子どもが私の背中をよじ登っているなんてことはよくある。それでも、どうしてもここだけは集中させてくれ、という場面がある。そういうときはテレビに頼る。あるいはスマホのアプリである。
一時期、というか今もそうかもしれないが、テレビや動画をベビーシッター代わりにする親へのバッシングがあったりしたが、自分の周囲の家庭をみていても、父母ともにじっと子に寄り添って育児できるのでないかぎり、これは仕方のない側面だな、と思う。
現在の末の息子4歳がハマっているのはYouTubeの動画で、海外のクリエイターによるアニメーションなども入っている。そのよしあしはよくわからないが、中には子どもがやっているチャンネルというのがあって、その子が遊園地などの施設をめぐる動画に同化して見入っていることもある。
じつのところ、最近の彼はすっかり教育テレビ、いわゆるEテレを見てくれなくなった。これは上の三人の子のときとは明らかにちがう。時代の流れかな、とも思う。いまの子にとって、Eテレの番組はかならずしも彼らの見たいものど真ん中ではないのだ。というか、きっとずっとど真ん中ではなかった。ただそれ以外の選択肢がなくて誰も指摘しなかった。それが、YouTubeができたら如実になった。
ひと昔前なら「若者のテレビ離れ」なんてSF小説の世界にしかない話だったが、いまは確実にそれが現実となっている。しかも、それはべつに「動画なら時間帯を自由に選べる」のが理由ではなかったりする。というのも、Eテレのコンテンツも、今ではU-NEXTなどに入っていて、時間帯を選ばずに観ることができるからだ。それにも拘らず、4歳児はもはやめったなことではEテレを見なくなった。
それを根拠に、YouTubeには中毒性がある、ということもできる。ゲームアプリなどにも同様のことは言える。欲求を満たすことを目的に作られたコンテンツには、きっと何にでもそういう側面があるだろう。そして人間は欲求を一つ満たされれば、次なる欲求を、となる。子はとくにそうした自制心がきかない。そうなると、視聴時間に歯止めもきかなくなったりする。
通常は親の用事が済み次第、この「ベビーシッター」はお役御免としなければならない。だが子のほうもうまく立ち回る。かわいさアピールでスマホを持ち去ったり、「あ、こんなところにケータイがあるねえ」と言ったり、「●●、いっしょに見よう?」と誘ってきたり。
それに対して親は一応対策を立て、「トイレにちゃんと行けたらね」とか「ごはんをしっかり食べたらいいよ」とか条件をつけつつ、時間制限をもうけて与える。これがまあ我が家の現状になっている。のだが、これは傍から見れば甘い、甘すぎる! というご意見もあろうかな、と思う。
自分たちも現状がべつにベストだとは思っていない。ちょっとまだ視聴時間多いなぁ、と思ったりしているが、子にはそれぞれの歩幅に合った対応があっていいという気がしている。欲求を満たすのも大事な経験だし、たまには満たしすぎて欲深くなってしまう時期がくるのも、それもまた経験なんじゃないかと思ったりする。
それに、彼はいつでも動画を見たくて見たくてたまらないから見ているわけでもなかったりする。本当は、私と公園で遊びたいけどそれが叶わないとか、実際の恐竜時代へタイムスリップできない不満であったり、機関車トーマスと会話できないやるせなさであったり、そうしたことの代償として、見たり、見すぎたりしている側面も、きっとあるのだ。
だから、動画であれゲームであれ、それにハマったり中毒になっているように見えたとしても、かならずしも本人が「そうしたくて仕方ないから」ではないんじゃないかな、と思うのである。こういう事象は、たとえば子どもが思春期になっても変わらないだろう。ゲームにハマって部屋から出てこないようになったとしても、それ自体が本人のベストな状態というより、ベストな状態が得られないがための代償行為のようなものだったりするかも知れない。
たとえば、いまの時点でゲームや動画を全面禁止にして遠ざけたとして、その存在は永遠に子についてまわるし、それにハマる行為が何かの代償なのだとしたら、その代償さえ得られない欠落は何らかのべつの代償を求めるか、さもなくば大きな影を生むことになる。
親はこういうときに子のために何がしてやれるんだろうか。時間制限を決めたり、注意を促すだけなのか。そのへんは自分もよくわからなくなるときはあるのだが、とりあえずどんなときでも味方でいたいな、と思う。味方というのは、何か苛立ちや悩みを抱えたときに、助けを求めて「もらえる」立場にいるということだ。
「いつでも助けてやるぞ」と思っているのは、たぶんきっとどの親も思っている。でも実際には子はいつでも助けを求めてはくれない。それはいつの間にか「こういう悩みは親に言ってもダメ」とか「あの人に言っても」というような心理的隔たりを築いてしまっているからだろう。
私には4人の子がいる。そして、私は4人の子を育てるうちに、薄皮をめくるように少しずつ親とは何かを考えさせられてきたけれども、基本的にはいまだにただの不器用な人間にすぎない。それが子によって山羊の声を真似たり、踊ってみせたり、寝る前に歌ったりという、それまでの人生では人前で滅多にしなかったようなことを毎日のようにするようになる。
そういう中で、少しずつ、子に自分の立ち位置を教わってきたようなところがある。なので「味方でいたい」とこちらが思っているのに対して、それぞれの子がどれくらい自分を味方と感じてくれているかは、自分にはわからないところがある。けれど、毎日、ああ、まだきちんと味方になりきれてなかった、と反省する場面は多々あるし、そのたびにそこの部分については改良していこうと努めてはきた。
「いつでも助けてやる」はもちろん最初から思っている。でもきっとそれでは足りない。だから、毎日どうしたらいざというときにまず自分の顔を思い浮かべてもらえるかを考えて行動する。ただ制限ばかりすればいいわけでもないし、ただ相手の言いなりになればいいのでもない。呼吸するように、子を見守り、寄り添えるようになりたいなと日々思っている。
公園にもなるべく連れていきたい。でもどうしても「ベビーシッター」のお世話になったら、せめてその動画の感想を、そのあとにでもお風呂で聞いてやる時間をとろうと思う。なかなかうまくはいかないが、まあ、そんなふうな毎日である。
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