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2020/06/23 『ミッドサマー』を観た話

昨夜、『ミッドサマー』を観た。本当は映画館で観たかったのだが、その頃は入校だなんだとバタバタしていたような気がする。ポスターが非常に美しかったのと、予告編がよかったので観てみたかったのだ。

余談だが、予告編のつまらない映画は、まず100%間違いなくつまらない。かつて北野武だったか誰かが、映画は任意に選びだした絵が絵ハガキになるほど「絵になる」ことが望ましいみたいなことを言っていたが、「絵になる」のはもちろん、任意に選んだシーンをつないだだけでも「なんか面白そう」になるのがいい映画なんじゃないかという気がする。

その点、『ミッドサマー』の予告編はなかなかスリリングだった。まだ公式ホームページがあるようなので(よくこういうのは半年とか1年で消えてしまう)、興味のある方はみていただきたい。

あらすじは、ホームページをコピペするとこんな感じ

家族を不慮の事故で失ったダニーは、大学で民俗学を研究する恋人や友人と共にスウェーデンの奥地で開かれる”90年に一度の祝祭”を訪れる。美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。妄想、トラウマ、不安、恐怖……それは想像を絶する悪夢の始まりだった……

その村の特異な文化は、民俗学的にはアーミッシュっぽさや中東やアフリカの一部の部族に「ありそう」な無茶苦茶ぶりでもあり、生々しい部分もある。

こういう趣向から、『八墓村』などに見られる「奇妙で閉鎖的な村モノホラーなのかな」という程度の認識で観始めた。そして、わりとなんということもなく観終えた。しょうじき、人から聞いていたほどショックは受けなかったし、観終えた直後の感想も、ものすごくよかったわけではなかったのだ。

もちろん、観ているあいだから、生々しい感触だけはじくじくと抱いてはいた。過去の自分の至らなさとか、そういうものを次から次に思い出し、見せつけられる。とくにヒロインであるダニーの恋人のクリスチャンの言動には、過去を振り返らされる。「ああ、このくらい優しさを見せておけばいいと思ってた時期あったな」とか。

クリスチャンという人物の振る舞いには、男女問わず、人と向き合うことに器用になったと思い込んだ者にありがちな「できるだけ真摯に見えそうなまがい物特有の態度」がそこかしこにちりばめられていた。

ただ、この男がすべての元凶だろう、とはじめから思っていたせいもあって、その後の流れはまあ予想通りであった。そのため、鑑賞直後は宙ぶらりんな感覚があった。良作なのは間違いないにしろ、これはどう処理したらいいのかな、という感じだ。ホラーの大傑作というほど怖いかというと、そうでもない。いいかげんこの年にもなるとホラー免疫というものがあるせいもあって、しょうじきそれほどホラー的な衝撃は感じなかったのも事実だ。

ところが一夜明けて、なんとなく身体の中に残っているものがある。これは何だろうな、とぼんやり思っていたら、ふと10数年前に観た『ドッグヴィル』という映画を思い出した。そして、その瞬間、何もかもが急にクリアに見えはじめた。「ああ、そういうことか!」という感じだ。

ここであえて『ドッグヴィル』がどんな映画なのか詳しく語るのはやめておこう。ただ、ある道徳的な男が、ギャングに追われた女を匿う、という話だ。ムラにとって危機をもたらす要素となる女が入ったことで、ムラの人々の心理が蠢いていくという話で、閉塞感のある村が舞台であり、中でも恋仲となる男女が物語の主軸にあり、その後半の展開において、一見道徳的にみえる男のある側面が重要なファクターとなってくるところに共通項がある。

この「ある側面」というのが、今日ツイッターでも書いたが、「主体のなさ」なのだ。欲求は誰しもがもつものだ。「●●をしたい」と思うとき、人はある意味で主体的に行動している。だが、一方で自分とはべつの「●●をしたいと考える他者」の存在を認めることは簡単ではない。とくに自分と正反対の欲求の場合は困難だろう。

「山へ行きたい」と思うときに、共に生きる者が「海へ行きたい」と言った場合、我を推し通して山へ行くのは簡単だし、反対に「わかった、君の言うとおり海へ行こう」と言うのは、我慢が必要だが、我慢している自分にアイデンティティを見出せば簡単だ。

だが、実際には「僕は山に行きたい。でも君は海へ行きたい。余暇は1日。どうだろう。互いがなぜそこへ行きたいのか。そしてその日はどちらへ行くのが適切なのか。冷静に話し合わないか」とこのようにならないのならば、主体は「我が儘」かもしくは単なる「無」になってしまう。

主体をもつ、とは自分が相手に影響をもつことを自覚し、また同時に相手も自分に影響を与えうることを許容することなのだ。

『ミッドサマー』も『ドッグヴィル』も、他者の主体を認めぬ者には、また自らの主体も存在しない、ということが「特異な村」という装置を通して明らかにされていくドラマだ。

どちらの映画もヒロインの恋人は一見優しく振る舞っているが、実際には恋人の行動を規定しており、そこからはみ出すヒロインに内心で苛立っている。主体を認めていないのだ。そして恋人の主体を認めぬ彼自身こそがじつは主体をもたぬからっぽの存在だということが、徐々に明らかになってくる。

そこから後半の悲劇は起こる。この後半に関しては『ミッドサマー』も『ドッグヴィル』もなかなかショッキングなので、もしこれからご覧になる方はある程度の覚悟は要るだろう。思うに、自分が『ミッドサマー』が平気だったのは『ドッグヴィル』体験があったせいかもしれない。

ちなみに、検索してみるとアリ・アスター監督自身がどうも『ドッグヴィル』の影響を受けているらしい。まあ人の作ったものというのは、およそ人の想像の範疇に収まるということでもあるので「当たったぞ」と大喜びするほどのことではない。つねづね私は「予想通り」ということで鬼の首をとったように感じる輩が嫌いだ。「予想通り」なんて、そんな珍しい代物じゃないのだから。

脱線したが、少し『ミッドサマー』を掘り下げると、この映画は、さっきあらすじにもあったように、まず冒頭でヒロインが家族をなくすという悲劇に見舞われる。で、そこで恋人であるクリスチャンはそれなりに親身になってくれてはいる。ここは脚本がたいへんうまいのだが、クリスチャンは、いわゆる冷たい男じゃない。このあたりは、『ドッグヴィル』の道徳的な男の造形にも通じるものがある。

とりわけこんな国に住んでいると、お、案外頑張って優しくしてる若者では、なんて思いながら観る人もいるかも知れない。この国は女性の主体を認めない点ではかなり後進国なので、そう見る人も多い気がする。

でもよく見ていくと、このクリスチャンという男は相手の行動をかなり規定している。「自分はこのラインまで折れる。そしたら相手はこう言ってくれるはず」という形で、譲歩するふりをして相手を限定している。これが「相手の主体を認めていない」ということだ。

また、自分のしたいことを我慢して100%相手の欲求に主権を譲り渡しておきながら、内面に相反した感情をもやもやと隠し持ったりもしている。ゼロか100かしかなく、相手の主体と対話することができないのだ。自分の主体を通すか、さもなくば折れるか。コミュニケーション不全な現代人の姿がそこにある。

このあたりは、近年の流行のwhataboutismやごはん論法とも無縁ではないだろう。近年の政治家やSNS上で大流行している論法の多くは、「対話をするため」の論法ではなく「対話せずに済ますための論法」でしかない。

そして、このような物語として、たしかに『ミッドサマー』は露骨なまでに『ドッグヴィル』を引き継いでしまっている。ただし、違いもある。『ミッドサマー』は主体をもったヒロインが主体を手放して幸福を手にするが、『ドッグヴィル』のヒロインは主体を手放さずにあのラストに至るのだ。
とはいえ、どちらも狂気には従順であったという意味では、純粋知性としての主体を放棄したとも言えるので、そういう意味では同じ穴の貉ということもできる。

まあ二作の比較はこのへんで終わりにして、話を『ミッドサマー』に絞ると、本作のヒロインのいわゆるメンヘラ具合は、いちばんに目につくポイントでもあろう。

そして同時に「メンヘラ」という言葉の罪深さにも思いを馳せずにはおれない。十代の頃、私は他者の痛みは煩わしいものだと思っていた。祖母が亡くなって、葬儀を終えても悲しみ続ける母の姿は、10代の自分にはしょうじき苦痛でしかなかった。けれど、母が傷ついていることも理解はできるので、優しいふりをしなくちゃと思っていた。

でもそのようにして生まれる優しさは、相手を「面倒くさい物体」と思っている証拠のようなものだ。メンヘラとレッテルを貼って済ませて、逃げようとしている。内面はこうだ。「何とか早く泣き止んでくれ。早く本屋に行きたいんだ」。我が家はそういう意味で誰も母の悲しみに寄り添えなかった。それは今でも大いなる反省ポイントだと思っている。

私は長いこと、優しさとは何かを考えてきた。いくつかの恋愛経験のなかで、あるいは夫婦生活や、育児生活のなかで、自分のしたいことと相手のしたいことがぶつかったとき、「すべて折れる」という選択をしたことが何度もあった。我を通しさえしなければ「優しさ」になるのなら、こんな安いことはない。

だが、恥ずかしい話、つい最近になって、これが間違っていたことに気づいた。遅すぎる気づきだなあ、と思う。きっかけは、三島由紀夫が敵対する思想であるはずの全共闘の学生たちと話し合う姿を映画で観たからだ。おお、これもう今年の話じゃないか。そうなんだよ。今年なんだよ。

つまり、生きている三島由紀夫がしゃべっている姿を見た瞬間に、自分はそれまでの何もかもの自分の姿勢が間違っていたことがはっきり見えてしまったのだ。これは大きすぎる体験だった。いや、正確にいえば、そのだいぶ前からうすうす感付いていたことにはっきり形が与えられた感じだろうか。

まったく、四十の手習いとはよく言ったものだ。だが、思春期や、もしかしたら大人になっても一生そのままの人だっている。遅すぎたし、進化の途上ではあるが、そのままでいるよりはよかったはずだ。

実際、いわゆる「毒親」に育てられていなくても、大半の家庭では子は子であってそれ以上ではないことがほとんどだ。しつけや規律、家のルールの中で子を見守るか、子の好きなようにさせて社会的にはみ出しすぎた時にだけ注意する、でもそうだが、だいたいにおいて一つ一つの行動に理由を尋ね、親もまた自分の行動の理由をつまびらかにする、なんて家庭はめったに存在しないだろう。

そして、成長したときには今度は子とはみなさず頼るか、相変わらず子としての幻想をみるか……いずれにせよ、たとえ主体はあっても、その輪郭がぼんやりしているところから人生がスタートする人が多いのではないかと想像する。

自分の親の世代なんかはもっとひどいところからスタートさせられたのだから、あの世代はさらに大変だっただろうと思う。何しろ、挙国一致で戦争を賛美し、欲しがりません勝つまではをスローガンとしていた世代がいた。そこから「あの戦争は間違ってた」と米国の属国ルートを辿るあたりから、ようやくアイデンティティというものの探求が始まる。

さっき挙げた三島は、戦前の思想へのさらに強靭な回帰を目指したし、左翼たちは「こんな主体性のない国家などいらない」と暴動を起こした。どちらも「国家の主体」には敏感であった意味では共通していた。

ときどき、親の世代の口論をみていると、「この人たちは社会に対して主体をもつことには敏感なのに、個人の領域において主体を認め、主張し合うのは極端に苦手だな……」と感じることがある。

だからお茶の間のお菓子がなくなったとか、まっすぐ帰ると言ったのに帰ってこなかった、とかそんな言い合いで一日を費やすくらい喧嘩したりする。そして絶対に対話による解決に至らない。社会と対話することや、あるいは社会についての意見が異なる者と対話することには敏感で真摯だったのに、私的なことで個人同士で対話することができないのだ。

それは、恐らくは社会全体の抱える「私的主体の欠落」ではないか。プライベートな領域において個を主張することと、はっきりと主体をもつことはまったく別次元にあった。この手の問題を語るのには、社会全体に、ある程度の年月が必要だったということだろう。

自分がもし20代で『ミッドサマー』の舞台のような村と出会ったら、と考えると恐ろしい。あの村は徹底して共感することで「我々」になろうと強いる。その共感集団を前に「主体を持たぬ現代人」はひじょうに脆い。

何しろ、20代で『ドッグヴィル』を見たとき、私は「すっげえ衝撃的な作品」程度の感想しかもたなかった。そのような者があの村に行けば、たぶん間違いなく主体性のなさゆえに飲み込まれてしまっただろう。

『ミッドサマー』は、観る者に華やかな白昼夢を提供する。
その村の人々は異様なまでに共に泣き、共に踊り、共に叫んでくれる。
もしかしたら、それはあなたの人生にも共感を示してくれるかもしれない。この共感のシステムは、実際にある種の集落では実践されていたことだろう。いまでも、葬儀では全員で泣くという民族はある。共感能力は、共同体の幻想を維持するスパイスとして有効なのだ。
その閉鎖的で一体性を求められる共同体を前に、他者の主体さえ認められぬ者たちは立ち向かえるのか?
「山へ行きたい」
「海へ行きたいわ」
「…君が言うなら海へ」
このように0か100かでしか進められぬ者は、容易に自己を投げ捨て、その「からっぽ」の容器をべつの者たちによって容易に乗っ取られてしまう。
『ミッドサマー』の問いかけを、あなたはどう受け止めるだろうか。最後のヒロインの笑みとともに、考えていただきたい。

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