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推理作家、鮎辻川三紀子は二度寝する

推理作家・鮎辻川三紀子の一日は朝六時にはじまる。まず朝ごはんを作り、それから小学生の息子を起こして着替えを手伝い、朝食を食べさせる。その間に、三紀子は今後のスケジュールについてあれこれ考える。

ええと、今日はたしかA社にプロットを出さないといけない。それからB社と朝の11時に打合せ。C社の短編原稿も「月の中旬」とあいまいに言ったものの、気づけば今日は20日という微妙なライン。

そもそも中旬ていつまで?
20日を過ぎたら、もう下旬だろうか? 今日まではギリギリ許される?

というか、あの手の約束ってけっこう編集さんはガチで覚えてるものだろうか。案外テキトーで忘れていてくれたりしないだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、あくびをする。

「まあでも今日出しといたほうが自分の気分がラクよね」
となると、今日はプロットと短編を仕上げる、プラス打合せ一件。なかなかハードではある。プロットはもう8割できているけど、まだいろいろ辻褄の合わないところもある。短編に至っては、解決篇を書くのが面倒で残り十五枚ほど手付かずなままだ。

可能なら打合せ前にプロットをいったん完成、打合せを終えてお昼を食べ、午後から短編を書き上げる作業に入り、夕方四時ごろにプロットの見直し作業に入って、編集者が帰り支度を始めそうな夜七時前後に送れたらベストだろう。短編のほうは「今日中」でよかろう。

この「今日中」の概念がけっこうむずかしい。日付をまたいだらいけない、というほど厳密なものじゃない。だいたい、12時に出したって昨今の編集さんは滅多に反応しない。たいていの人は会社でしかメールを見ないから。

となると、翌朝会社にきて受信ボックスを開くまでが「今日中」ということになる。それだけの時間があれば、まあ確実に終わりはするだろう。

それから三紀子は息子を小学校に送り出し、夫を叩き起こした。夫はぬるぬると起き上がり、前の日の仕事がどれほど大変だったかとか愚痴を一通り並べる。本当はこの時間が惜しい。早く原稿を書きだしたいのだが、30分程度の時間だから、と自分に言い聞かせる。どうにか「あーまだ今日水曜かよ」などと愚痴る夫を励ましたりなんだりして追い出す。

時刻は8時15分。ふう。今からすぐにプロットに取り掛かれば、打合せ前には一応の完成はできるだろう。と考えながら、またあくびが出る。

そうか。寝たの3時だったな。3時間しか寝てないのか。これじゃ、効率わるいよね。ちょっと寝てから始めよう。ちょっと? そう、ほんとうにちょっとよ。9時まで寝ればいいじゃない? キリもいいし。そうしたら、そこからすっきりした気分で11時までプロット。うん、全然終わるでしょ。

でも……もし寝過ぎたら、すべての予定が台無しよ? 三紀子、それわかってるの? 

「だ、大丈夫よ。スマホのアラームを1分刻みで15回くらいかけるから。これで起きないのはよほどのお馬鹿さんよ」
たしかに、過去、アラームを15回もセットしたことはない。ここまでやれば、さすがに起きるよね。

いや待ちなよ。個人事業主の作家にとって二度寝は大罪よ。芸能人にとってのドラッグと同じくらいの大罪。マスコミはもっと有名作家にパパラッチを張り付けて「●●先生、二度寝する!」とかの特集をするべき。

それに、このまま仕事を始めれば、打合せまでに2時間45分できる。対して、9時まで寝たら2時間しかできない。45分のロスをどう考えるの?

だけど、ほら「ふぁあああ……」また三紀子はあくびをした。
こんな状態でパソコンと向き合ったって、どうせXやったりネットサーフィンしたりして時間をつぶしてあっという間に打合せの時間になってしまうに決まってる。それくらいなら、いさぎよく二度寝をしたほうがいい。

「そうよ。二度寝をマイナスにとらえちゃダメ。前向きに。ポジティブにね」

アラームを15回。「ええい! おまけにもう1回!」と16回分のアラームを仕掛け、ソファに寝そべった。ベッドはやめたほうがいい。二度寝が二度寝にならないから。これは経験則。

しかし眠ろうと決めたわりに、すぐに睡魔がやってこない。こういうときは、いい手がある。kindleで購入してある、ふだんは滅多に読まない難解な実用書を読むのだ。この方法は案外有効で、五分後、見事に睡魔がやってきた。

三紀子は夢をみる。けっこうミステリのネタに使えそうなハードな夢だった。自分が殺人犯になって追われているのだ。どうして私、あんな犯罪に手を染めてしまったんだろう……でもとにかく逃げなきゃ。そんなことで必死に逃げていた。細部は忘れてしまったけれど、本当にハリウッドで映画化してほしいくらいハラハラドキドキの連続の夢で、夢を見ている最中から、これをそのままプロットにすれば企画通るんじゃない? などと考えていたくらいだった。

そのクライマックスシーンで、電話が鳴る。いまはそれどころじゃないのに。そんなものに応じていたら、警察に捕まっちゃうじゃないの。だけど電話はしつこい。仕方なく、三紀子は電話に出た。というか、出た瞬間に意識が浮上して、目が覚めた。目が覚めた、ということは、それまで自分は寝ていたのだ、と同時に悟る。

よかった。あれは夢で、自分は何も罪を犯していなかった。安堵感にホッとため息をつきつつ「もしもし」と画面もみずに答えた。

「あの……鮎辻川さんですか? B社の山田です。本日、11時からのお打合せだったと思うのですが……何かありました?」

「え……?」
飛び起きて、時計を確めた。11時20分……。嘘でしょ。16回のアラームはどうしたの? 16回のアラームを連続でこの指が止めたってこと? 馬鹿じゃないの???? 

何が「何も罪を犯していなかった」だ。大罪中の大罪に手を染めているじゃないか。二度寝のなかでも「二度寝が二度寝にならずにスケジュールを台無しにする」は、本当の大罪だ。これは作家生命に関わる。

「あ、ごめんなさい……あの、いまパソコンがうまく起動しなくて……」
「ああ、そうでしたか、よくありますよね。大丈夫ですよ、お待ちしてますので」

電話を切り、すぐに鏡の前に行き簡単に化粧をした。よし、寝起きには見えまい。パソコンを立ち上げながら、しかし心は悲しみに打ちひしがれている。プロット……プロット……短編……短編……すべての作業を12時からスタートする、となると、本来の予定から考えれば3時間45分遅れとなる。

「そりゃ頭はすっきりしているけどさ……」
泣きたい。こんなに泣きたいのは久しぶりだ。でもわかっていたことじゃないか。泣きたい気分になるのは、いつだって二度寝の誘惑にかられた時なのだ。

だが、そこでパッと天啓が舞い降りる。

「そうだわ。『中旬』の概念を更新すればいいのよ。私のなかでは『中旬』は25日まで。そういうことにしましょう」
これでだいぶ気持ちがラクになった。罪悪感も減った。なにしろ、今日は短編は無理をせず、プロットを一つ片づければいいのだから。これならラクショーだ。私ったら、天才だわ、と三紀子は自賛する。

「まったく、これというのも、何もかもあのソファがわるいのよ、きっと」
三紀子は、今度から二度寝は書斎のデスクで椅子に首を預けて、に変えよう、と心に決めながら、Zoomを立ち上げた。 


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