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犬に種類があるように

子供の頃、「流れ星銀」という漫画があった。
犬が熊を倒すために集まる話だ。
その影響で、ポインターとかセントバーナード
とかグレートデンとか、とにかく犬の図鑑をみては
いろんな犬の種類をかたっぱしから覚えたものだった。
不思議なもので、
我々は「犬」というカテゴリを知っているから
ドーベルマンとチワワを同じ「犬」と認識できるが、
そうでなければ、とてもそれらをひとまとめには
見られるはずがないのではないか、と思う。
ある国では「狸」も「犬」に含めるという。
そこでは「ドーベルマン」と「狸」が同列に
扱われるかもしれない。

絶望にもいろんな種類があるだろう。
たとえば「これをがんばればこうなるかも」
という一縷の希望にすがって
それが叶えられないとか。かと思うと
すべてが順調にいき始めた途端
不意にその先が見えなくなる、とか。
「いつかこうなるかも」と思っていたのが
永遠にそうならないと気づく、とか。
犬に種類があるように、
絶望にも種類がある。

振り返ると、これまでの人生で
何度絶望したか数えきれない。
単に「明日も今日と同じであることの絶望」
という生ぬるい次元のものまで含めれば
ほんとうにきりがないくらいだ。

これらは「絶望」というカテゴリがなければ
本来はバラバラの感情だが、
一度「絶望」と名付けられることで、さまざまな
ものがあたかも「君も僕も絶望だよね!」とばかりに
同じ「絶望科」に収められる。

だがダックスフントはダックスフントで
テリアはテリア。
やはり一つ一つの「絶望」もべつべつのもの。
たとえ誰かと誰かが、互いに「絶望」を持ち寄って
一時的に埋め合わせができたとしても
それはほんのつかのまそう見えるだけで根本的なものは
何も埋められないんじゃないかという気がする。

それでも一つ言えるのは、犬の種類を多く知っていると、
たしょう「犬」についての見識が広がるということ。
だから、まあ若い人は初めての絶望とかに出会うと
この世の果てに来たような気持ちになるだろうけど
これが何種類もあって、棒に当たる勢いでそこかしこに
転がってるんだと覚悟して年を重ねていくしか
ないんじゃないかな、という気がする。

まあ人生で何種類もの絶望を味わうって
ことは「たいていの絶望がそのうち
トンネルを抜けられる。明日を迎えられる」
っていうことでもある。
そういう意味では、どんな種類であれ、
その絶望の真ん中は、それを抜ける「前夜」かもしれない。

とはいえ何もなしに絶望という暴れ馬に
またがるのは心もとない。
どうせなら「自分はこれしかできない」という何かを
手綱と思って手放さずに進むといい。
どんな暴れ馬でも、振り落とされなければ
それが何かの「前夜」だと気づけるときもくるだろう。

あなたは何の「前夜」にいるだろうか?
まあそんなことを考えながら書いた本が
最近出たとか出てないとかいう話であるよ。

前夜』(光文社)

ところで話は「流れ星銀」に戻る。
銀という秋田犬が、子犬から成長してやがて
奥羽山脈の総大将になっていくまでの話だ。
そのダイナミックな物語は恐らく私に
いちばん最初に「つよい物語」を教えてくれた。

一人の世界に閉じこもっていた空想少年が
兄の死から映画の世界に足を踏み入れ、
兄のような映画スターへと変貌していく本作の
青春大河も、もしかしたら無意識に影響下に
ないとは言い切れない。いや、どうだろう…。



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