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今回は日記なので面白くありません。

 お店を閉店して次のステージに移行しました。少し落ち着いている?みたいな?毎日ポコポコにやられつつ、もがいてやっと先日『糸』を手にしたような気がしています。
 いつかこの文章を読み返す時が必ず来ると思うので、自分の為に書き留めたくなって今タブレットの前にいます。過去にもこんな気持ちにには何度かなったし、やって来ましたので今回もいつもと同じだと考えるようにしています。
 今年の初めに父親が施設に入る事が決まり
 『よいよか。少しずつ大人が子供に戻りそして植物になり土に帰る。おじいちゃんの時もおばあちゃんの時もお同じだった。願わくば子供あたりで安らかに。めちゃくちゃな父親だったがあの人も自分の威厳を持ったまま逝きたいだろう。』
 こんな事があると決まって兄は調子が悪くなる。病気だから仕方無いと慈愛と我が子の為に不都合な優しさが発動する母親が心配ではある。
 僕の子も新しい世界に行ける事になり、僕としては嬉しい気持ちもあるがすぐに現実が覆い被さってきて『この子を希望の場所に行く金銭的手助けが出来るのだろうか?』すぐに喜びをかき消す。頭の中はグチャグチャ。退院した日がふっと頭によぎった。 僕のかかった病気は劇症型心筋炎。今も心臓の左側の線が切れている。治療してペースメーカーがその線の役割を果たしてくれている。

 妻と退院してすぐカーシェアで恵比寿に行った。もし死んだら店じまいをお願いした友達に生きてる事を伝えて、心配かけたくなくて無理してノーアルコールビールを舐めた。首に入れていた管の傷口とカテーテル入れていた鼠蹊部がジンジンしながら、美味しくないけど痩せ我慢しつつ、ありがとうだけ言って帰った。ただただ情け無い気持ち。
 家に着いたら妻がお寿司を買ってきてくれたので減塩醤油を少しつけて食べたら、涙が出てきたけど照れ臭いから『ありがとう、美味しい。シャバの飯はいいね』とふざけて誤魔化し、たった12カンの1,580円のパック寿司も食べ切れない自分に、また不安と情け無い気持ちが押し寄せてくる。
 子供達が帰ってきたのでまた泣きそうになった。無理して笑って
 『帰ったぞ。元気だ』
 とだけ言ってらそっけなく
 『おかえり』
 とだけ返ってきて
 『ママお腹減ったー』
 晩御飯は家族でホットプレートで焼き肉をした。30分位で血の気が引いて座って居られない。病院で感じたのと同じでこのままだと気を失うと思い、家族に疲れたと伝えて一人床に着いた。
 入院してからずっと鮮明に夢を覚えているし、3時間ごとに不安で目が覚め1時間時間ぐらい寝れない。社会に戻れるのか?家族のただのお荷物になるのでは無いか?不安で寒気と吐き気がする。麻酔が効きにくい体質の僕は治療が痛すぎて『もう殺して欲しい』と思い管を抜こうと暴れて拘束具を装置させられた、人工透析では痛みで何度も意識が無くなりそうになり嘔吐し、やっとリハビリまでこぎつけ、あんなに現実社会に戻る事を熱望していたのに。
 退院してすぐに電話した親友には
 『生きていたから全部オッケーだ』
 と泣いてくれた。
 本当にそうなのか?
 かけがえのない家族に負担をかけてまで生きる必要はあるのか?

 2022年の12月に運命の検診に行って。
 『無事にペースメーカーで心臓は動いています。安心して日常生活を送って下さい』
 と病院で言われた。2年以内に自脈の回復が無ければペースメーカーの線が同化して外す事は困難になるとオペ後に言われたので、まずはそれを目的として生きようと思っていた。この返答は
 『ペースメーカーは外せません』
 を意味する。勿論外せないって事ですか?と確認もした。
退院してから3カ月検診の後、前からお世話になっているキックボクシングのジムの会長にお願いして『頑張り過ぎる性格ですから、頑張らないと約束してくれるなら。コンタクトプレーも勿論ダメです』と言って頂き復帰させもらった。
 最初は絶望しか無かった。イライラして酒を呑みまくっていた。何もうまく行かないと思った。
 1週間ぐらいして尊敬してる方が引っ越すって話をなんとなく聞いた。いつもお会いする時は緊張するし、酔ってしまわないと話せない。いつもの酒場で偶然いらっしゃって、
夢の話とか新しい生活に挑戦する話を聞いた。いつも
 『まあ落ち着け。一生懸命やる。それだけだよ」
 と言ってくれていたので、その日も同じ事をいって貰えたら
 『あー何やってんだろ?また勘違いして勝手に暗い気持ちになってた。逆を返せばこれつけていたらやれるって事だよな?やってやるよ!』ってなった。

 年越したらアクションを起こし出して変化が生まれた。そしたら父親の話がきて、負けるもんかとなり、ごちゃごちゃしながら、5月に新しいスタートラインに立てたかのように思えた。でも詰めが甘かった。トラブルシューティングしながら進めていたが、上手くいかない。
 でも拾ってくれるお客様もいらっしゃって本当にありがたかった。
 今ままの自分を査定してもらう為に先輩にお店に来て貰った。
 『やんわりがいいか?それともはっきり評価した方がいいか?はっきりはかなり辛口だぞ』
 と言われ
 『厳しめにお願いします』
 と答えた
 けんもほろろに指摘を頂けた。ありがたい。ブレーキをかけて貰えた。
 ここ数年、お店の経営のことを考えてワインの資格やサービスに目を向けていたと思う。正直退院してから塩分調整があった為、塩に怯んではいけないと思う事が多く、料理に不安がありワインに『逃げていた』と思う。そしてクラッシックなフランス料理(とはいえ1980〜2000年位)にフォーカスしてやって来たのに出来もしない、アレンジや創作をしてしまった。
 先輩とお客様から頂いた仕事をした次の日についに父親に胃ろうをすべきかどうかと言う話が母親から来た。
 『なんて病院から説明されたかわからないけど、母さんそれは父さんのことを植物にしませんか?という話だよ。お父さんがまだ人で判断できるなら本人の意思を尊重するよ。』
 とだけ伝えた

 前も見えてないし、足元もおぼつかない。
 それでも明日が来る事を僕は望む、退院した日の夜の情け無さに比べればマシじゃ無いか。このステージに立つ事を選んだのは僕だ。反対も押し切ってやるって言ったんだろ?
明日が来るのは生きている証拠。目が覚めたら真っ直ぐ一生懸命やるだけ。失敗したらカッコつけず、嘘つかず謝って取り返す位やろう。

 料理も辻調理師専門学校の教科書からやり直します。
 今回は先輩一人と拾ってくれたお客様のおかげでやり直せる。
 負けても負けても『一生懸命やる自分』をやめない。
 妻が教えてくれた
『努力は人を裏切らない』
 を信じて。

 日記の為僕の若かりし頃の話はお休みです。



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