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ギリシアの世界遺産からギリシア神話に迫ってみる。 *

ギリシア神話と世界遺産

ギリシア神話と世界遺産

ギリシアの世界遺産は18ありますが、そのうち8か所がギリシア神話にかかわるもののようです。残りの内4つは、同じぐらいの時代ですがマケドニアにあるもので、ギリシア神話とのつながりは強くありません。
のこりの6つキリスト教関係の遺産で、場所によっては、多少切り神話とかかわりのある地域も含まれています。
ギリシア神話と関係の深い8つの遺跡をまとめてみました。

15、ミケーネとティリンスの古代遺跡群 紀元前16世紀
  円形墳墓
2、デルフィ(デルポイ)の古代遺跡 紀元前1500~前1100年
  ミケーネ人の遺跡 
  アポロン神殿、紀元前8~前7世紀
7、アスクレピオスの聖地エピダウロス  紀元前8世紀
  アポロン・マレアタスの聖域として崇められ、
13、サモス島のピュタゴリオンとヘラ神殿 紀元前8世紀
11、デロス島 紀元前7-4世紀
 太陽の神アポロンと月の女神アルテミスの双子が生まれた場所
 アポロン神殿(アテネ人神殿、デロス人神殿、ポロス石神殿)
 アルテミス神殿、レト神殿、ゼウス神殿、アフロディーテ神殿
 ヘルメス神殿
3、アテネのアクロポリス 紀元前480年
 紀元前480年ペルシアに勝利記念 パルテノン神殿(紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。)
  アテナ・ニケ神殿(紀元前6世紀に建設されたアテーナーの神殿が紀元前480年にアケメネス朝ペルシャに破壊されたため、その廃墟の上に建設された。)
 エレクテイオン(現在残っている神殿は紀元前480年にペルシア人が侵入したペルシア戦争で破壊された後、再建されたものであると信じられている。)
10、オリンピアの古代遺跡 紀元前470~前457年頃
 ゼウス神殿、ヘラ神殿
1、バッサイのアポロ・エピクリオス神殿 紀元前5世紀

神殿についてみてみると、ギリシアの古典期以降のものがめにつきます。また、アポロンの神殿が意外と多い一方でゼウスの神殿って意外とないようです。。
このことから、アポロンはもともと土着の神様で、ゼウスは神話の構成上作られた神様ではないかと思いました。
ギリシアといえばアテネのアクロポリスが印象的ですが、アテネの神殿は、ペルシア戦争の後に建てられたため比較的新しいことになっていました。アアテネでもゼウスの神殿は紀元前には完成していません。

ギリシアの世界遺産(指定順)

1、バッサイのアポロ・エピクリオス神殿

文化遺産 1986年
ギリシア南部ペロポネソス半島のアルカディア山脈コティリオン山の中腹に広がる「バッサイの聖域」と呼ばれる聖地に、紀元前5世紀に築かれたアポロ・エピクリオス(治療神アポロン)に捧げるギリシア神殿。

ペロポネソス半島西部アルカディア地方にはギリシア都市フィガリアが栄えていた。紀元前420~前400年頃、ペストに悩まされていたフィガリアの人々は町から6.5kmほど離れたコティリオン山の中腹、標高1,130mほどの場所にアポロ・エピクリオスに捧げる神殿の建設した。パルテノン神殿やヘファイストス神殿、アテナ・アレア神殿を設計した建築家イクティノスの作品。

バッサイのアポロ・エピクリオス神殿

2、デルフィ(デルポイ)の古代遺跡

文化遺産 1987年
ギリシアの首都アテネの北西約120kmに位置するデルフィ(デルフォイ/デルポイ)は最高神ゼウスが大地の中心として定めた古代ギリシア最大の聖地。人々は太陽神アポロンを祀るアポロン神殿で下される「デルフィの神託」によって重大事の決定を行った。

デルフィ(デルポイ) パルナッソス山

デルフィの地には古くから人間の居住の跡があり、紀元前1500~前1100年のものと思われるミケーネ人の遺跡が出土している。この地が聖域として整備され、神託の地となったのは紀元前8世紀頃と考えられており、紀元前6世紀にはギリシア全土から巡礼者が訪れていた。

ギリシア神話によると、全知全能の神ゼウスは世界の中心を定めるために世界の両端から2羽のワシを放ったという。この2羽が出会ったのがパルナッソス山中、ファイドリアデスと呼ばれる光り輝く断崖に囲まれたデルフィの地で、ゼウスは目印として「世界のヘソ」を示す聖なる石・オンパロスを置いたという。現在、アポロンの神域にオンパロスのレプリカが設置されており、オリジナルはデルフィ考古学博物館に収められている

また、デルフィの地は古くから大地の女神ガイアが治めるピュトーと呼ばれる土地で、ピュトンと呼ばれる巨大なヘビあるいはドラゴンがこの地を守護していたという。アポロンは生後4日目にして弓矢でピュトンを退治して遺体をオンパロスの下に埋葬したという。アポロンはピュトンの魂を鎮めるためにピュティア大祭を開催し、また神託所を作ってピュティアあるいはシビュラと呼ばれる巫女を集め、大地から湧き上がるピュトンの霊気を吸わせて神託を与えたという(異説あり)。こうした伝説からデルフィはアポロンの聖地として崇められ、紀元前8~後4世紀頃までアポロンの神託=デルフィの神託を授かる聖地として数多くの巡礼者を集めた。

アポロンを祀るピュティア大祭は紀元前8世紀頃からはじまった。当初は8年に1度、紀元前6世紀には4年に1度、開催されていた。同じく4年に1度のオリュンピア大祭と重ならないようオリュンピア大祭の2年後に開かれた。当初は音楽の演奏や演劇の上演、詩歌の発表を中心としていたが、紀元前6世紀には戦車競争やレスリングなどの体育競技が追加されて音楽祭&体育祭となった。勝者にはアポロンの象徴であるゲッケイジュの葉で作られた「月桂冠」が与えられた。また、ピュティア大祭は1,000年以上にわたって続けられたが、ローマ皇帝テオドシウス1世によって異教の祭りであるとして中止された。

デルフィの遺跡は神殿コンプレックスと都市遺跡に大別される。エントランスに当たるのがアテナ・プロナイアの神域。中心となるのは円形神殿トロス。神域の北にはカスタリアの泉があり、ここで沐浴を行って西のアポロンの神域へ歩を進めた。

アポロン神殿、紀元前8~前7世紀にはゲッケイジュで造られた木造神殿が立っていたという。神殿は少なくとも4回は再建されており、現在見られるドーリア式石造神殿の遺構は紀元前4世紀に築かれたものと考えられている。主祭壇にはアポロンの石像が収められていた。残念ながら390年にローマ皇帝テオドシウス1世によって破壊された。

スタディオンは紀元前4世紀に建設された屋外競技場。古代劇場は紀元前4世紀に築かれた。デルフィはギリシア・ローマ時代を通じて聖地としてありつづけたが、4世紀にキリスト教が広がると急速に衰退し、392年にキリスト教以外の宗教を禁じたローマ皇帝テオドシウス1世によってピュティア大祭やオリュンピア大祭が禁じられ、神殿の多くが破壊された。

3、アテネのアクロポリス

文化遺産 / 1987
紀元前5世紀後半、アケメネス朝ペルシアに対する勝利を記念してギリシア都市国家アテネの中枢に築かれた古代ギリシア芸術・建築の最高峰が集う神殿コンプレックス。アクロ=高所・頂上、ポリス=都市で「頂(いただき)の都市」を意味する。高さ156m・平面170×350mほどの丘の上にはプロピュライア、パルテノン神殿、アテナ・ニケ神殿、エレクテイオンをはじめ数多くの遺構が立ち並んでいる。

西を除く3方を断崖に囲まれたアクロポリスの丘は紀元前2000年紀から城塞として使用されていた。紀元前1600年にはミケーネ文明を担ったミケーネ人が進出して宮殿や礼拝堂を建設し、紀元前1200年頃には麓にペラスギコンと呼ばれる城壁が建設された。紀元前8世紀に女神アテナの神殿が築かれ、紀元前6~前5世紀には数々の神殿を有する聖域として崇拝されていた。アテナはポリスの守護神として広く信仰されていた女神で、ヘシオドス『神統記』やアポロドロス『ギリシア神話』では全知全能の神ゼウスの頭部から鎧をまとった姿で誕生したとされ、戦略や知恵・芸術・工芸を司るオリュンポス12神の1柱に数えられている。

都市国家アテネはオリーブやブドウといった果樹栽培と銀の採掘によって成長し、やがてスパルタなどと並んでギリシア最大のポリスへと発達した。しかし、アケメネス朝ペルシアのギリシア侵略がはじまってペルシア戦争(紀元前499~前449年)が勃発すると、ギリシアの諸ポリスは存亡の危機を迎える。紀元前480年、ペルシア皇帝クセルクセス1世は最大50万といわれる大軍勢を率いて来襲したのに対し、スパルタ王レオニダス率いるギリシア連合軍はわずか数千~1万程度にすぎなかった。テルモピレーの戦いでギリシア連合軍を打ち破ったペルシア軍はポリスを破壊しながら進軍し、ついにアテネを占領してアクロポリスを徹底的に破壊した。追い込まれたギリシア連合軍だったが、アテネ海軍の活躍もあって同年のサラミス海戦で奇跡的な勝利を収め、翌年のプラタイアの戦いにも勝利してペルシア軍をバルカン半島から駆逐することに成功した。

ペルシア戦争に勝利した諸ポリスはペルシア軍の再来に備え、サラミス海戦等で絶大な戦力を見せつけたアテネを盟主にデロス同盟を結成する。政治家ペリクレスはデロス同盟諸国から集めた資金を投入してアテネの再興を図り、アクロポリスの再建を開始した。ペリクレスは紀元前443~前430年のあいだストラテゴスと呼ばれる将軍職に就き、アテネを中心にギリシアの帝国化を推し進め、アテネの黄金時代「ペリクレス時代」を築き上げた。ペリクレスによるアクロポリスの再建は彫刻家フェイディアスが指揮を執り、建築家イクティノスやカリクラテスらの指導の下で進められた。

アクロポリスの中心的な建物が白大理石で築かれた白亜のドーリア式(ドリス式)神殿、パルテノン神殿だ。アテナに捧げられた「処女宮」を意味する神殿。かつてはペディメント(頂部の三角破風部分)やフリーズは極彩色の彫刻やパネルで彩られていたが、神殿が倒壊すると徐々に失われていった。彫刻や彫刻パネルは現在、アテネの新アクロポリス博物館を中心に世界中の博物館に散在している。

プロピュライアは「前門」を意味し、アクロポリスへ通じる唯一のルート上に重厚な門塔として立ちふさがっていた。17世紀にオスマン帝国の弾薬庫として使用され、1656年に弾薬が爆発して倒壊した。

プロピュライアに隣接するアテナ・ニケ神殿はイオニア式の神殿で、「ニケ」は勝利を意味し、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との戦い=ペロポネソス戦争(紀元前431~前404年)の勝利を祈願してアテナに捧げられた。

イオニア式を極めたプロスタイル(前柱式)の神殿がエレクテイオンだ。かつてのアテネの名君エリクトニオスに捧げられた神殿で、当時ナオスにはエリクトニオス、アテナ、ポセイドンの3つの像が収められていた。

アテナ・プロマコス像、医学の神アクスレピオスを祀ったアスクレピオス神殿、ヘロディス・アティコス音楽堂、ディオニュソス劇場。

ペリクレスは「地上のゼウス」と呼ばれるほどの力を誇った

ギリシアで勢力を増すアテネとデロス同盟に対し、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟が結成され、紀元前431年にペロポネソス戦争が勃発。紀元前前404年のアテネの降伏をもってスパルタの勝利に終わり、アテネの黄金時代は終わりを告げた。

ゼウス神殿」ローマ帝国第14代皇帝ハドリアヌスの統治下で132年にアクロポリスの麓に建造されました。紀元前6世紀、僭主政のアテナイの時代に建設が始まったが、古代の世界で最大級であった神殿を完成させることは出来なかった。

4、アトス山

アトス山

複合遺産 / 1988
アトス山はアトス半島の先端に位置する標高2,033mの聖山で、半島のほとんどがアトス自治修道士共和国という宗教国家として自治が行われている。共和国内は女人禁制で、男性も18歳以上の正教徒しか入国できず、旅行にも特別な許可が必要となっている。内部では現在20の修道院が活動を続けており、約1,400人の修道士が厳しい修行を行っている。

ギリシア神話においてアトスは巨人族ギガスのひとりで、オリュンポス12神に挑戦して海神ポセイドンに巨大な山を投げ付けたとされるこのとき海に突き刺さった山がアトス山で、古くから聖山として祀られ神殿が建設された。

3~4世紀にキリスト教が広がるとアトス山に住み着く信者が現れはじめ、392年にローマ皇帝テオドシウス1世がキリスト教以外の宗教を禁止すると神殿は破壊された。キリスト教の伝説では、生神女マリアが船で移動中に嵐にあい、アトス半島の海岸に流れ着いたという。マリアはアトス山の守護聖人となった。7~8世紀にイスラム王朝が勢力を伸ばすと北アフリカや西アジアから多くのキリスト教徒が移り住んだ。10世紀に修道士の活動が活発化し、数多くの小型修道院や共同体が形成された。

5、メテオラ (ギリシア神話との関連なし)

メテオラ テッサロニーキ

複合遺産 / 1988/
最大で高さ400mを誇る奇岩は「天の御柱」と呼ばれた。古くからキリスト教修道士たちはメテオラの地に集い、厳しい修行を行った。最盛期には24の修道院が活動を行っていたが、6院が現在も活動を続けている。

メテオラの大地ができたのはおよそ6,000万年前の新生代古第三紀。大地が隆起して標高2,637mのスモリカス山を最高峰とするピンドス山脈を造り上げたが、メテオラ周辺はもともと石や砂・泥が堆積した湖底だったと考えられている。数々の断層が走っており、大地震でできた亀裂を河川や風雨が侵食しペネアス渓谷の奇岩地帯を生み出した。

人類の居住は50,000年ほど前にさかのぼり、近郊のテオペトラ洞窟などで旧石器~新石器時代の遺物が発掘されている。キリスト教の修道士が住みはじめたのは10~11世紀頃と考えられている。

6 テッサロニーキの初期キリスト教とビザンチン様式の建造物群(ギリシア神話との関連なし)

文化遺産 / 1988
マケドニア王国テッサロニカ地方の州都として発達したテッサロニキではいち早くキリスト教が普及し、ヨーロッパへの宣教の拠点となった。4~15世紀にかけてビザンツ様式を中心に初期キリスト教美術が開花した。

テッサロニキは紀元前315年頃マケドニア王カッサンドロスによって港湾都市として建設され、王妃テッサロニカにちなんで命名された。紀元前168年にピュドナの戦いでローマに敗れてマケドニアが滅びると自由都市となり、エグナティア街道の要衝として発展し、ローマやビザンティウム(イスタンブール)、あるいはエーゲ海を巡る貿易で繁栄した。

50年頃、イエスの使徒であるパウロがテッサロニキを訪れ、キリスト教の宣教を行った。

7 アスクレピオスの聖地エピダウロス

文化遺産 / 1988
ギリシア都市国家エピダウロス近郊に築かれた医学の神アスクレピオスを祀るアスクレピオスの聖域=アスクレペイオンを中心とした古代遺跡。アスクレピオス神殿、患者や巡礼者を収容する治療所やゲストハウス、湯治のためのスパや公衆浴場、屋外・屋内競技場、古代劇場などを備えた複合治療施設。

ペロポネソス半島東部に位置するエピダウロスは紀元前2000年紀から人間の居住の跡があり、港を中心に港市国家として発達した。紀元前8世紀には8kmほど離れた山中のアルゴリデス渓谷のテラスがアポロン・マレアタスの聖域として崇められ、アポロン・マレアタス神殿が築かれた。アポロン・マレアタスはゼウスの息子でオリュンポス12神の1柱である太陽神アポロンと半神の英雄マレアタスが習合した信仰で、アポロン信仰の一種。

エピダウロス神殿

紀元前6世紀頃になるとアポロン・マレアタス信仰は徐々にアスクレピオス信仰に移行し、アポロン・マレアタスの聖域と同時にアスクレペイオンが整備され、やがて吸収された。伝説によると、アポロンはテッサリアの娘コロニスと結ばれるが、純白のカラスがコロニスの浮気を進言したことからアポロンは彼女を弓矢で射殺してしまう。浮気はカラスの嘘だったためカラスを真っ黒に変え、身ごもっていたコロニスから胎児を取り出して救出した。あるいは別の伝説では、不貞を働いたためコロニスはアポロンの姉アルテミスによって殺害され、出産した赤ん坊がこの地に捨てられた、あるいはアポロンによって救出されたという。この赤ん坊がアスクレピオスで、赤ん坊が生まれた場所がアスクレペイオンとされている。アスクレピオスは半人半獣のケンタウロス族の賢者ケイローンに育てられ、特に医学において才能を発揮し、死者をも蘇らせる秘法を編み出した。生死の定めをも超越するアスクレピオスに対して冥界の王ハデスが最高神ゼウスに抗議すると、ゼウスはアスクレピオスを雷撃で撃ち殺し、天に召されたアスクレピオスを神々の一員として迎え入れたという。

アスクレピオスはオリュンポス12神でも絶大な人気を誇るアポロンの息子であり、医学・癒やし・幸福の神として大いに人気を博した。紀元前4~前3世紀に全盛期を迎え、アスクレペイオンには数々の建造物が立ち並んだ。中心を担ったのがアスクレピオス神殿。神殿としてはこれ以外にアルテミス神殿、テミス神殿、アポロンの祭壇、円形神殿トロスなどが築かれた。

エピダウロスではじまったアスクレピオス信仰はギリシア中に広がり、全土から治療を求める患者や巡礼者が集まった。アスクレペイオンは紀元前1世紀にローマの将軍スッラによる略奪や海賊による侵略を受けて荒廃するが、1~2世紀にはローマ帝国の庇護を受けて聖域としてありつづけた。

3~4世紀にキリスト教が広がると下火になり、392年にローマ皇帝テオドシウス1世がキリスト教以外の宗教を禁止し、426年にテオドシウス2世が異教神殿破壊令を出したことでアスクレピオス信仰は途絶えた。

8 ロードス島の中世都市(ギリシア神話との関連なし)

文化遺産 / 1988
ロードスはヨーロッパへの玄関口であるアナトリア半島におけるキリスト教勢力最後の砦として聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)がロードス島に整備した難攻不落の要塞都市で、1309~1523年にかけてその座を守り抜いた。イスラム教勢力であるオスマン帝国に奪取された。

ロードス島は古来、ヨーロッパとアジア、アフリカを結ぶ要衝として政治的・軍事的・経済的に重要な位置を占め、中継都市として発達した。紀元前408年には建築家ミレトスのヒッポダモスによって計画都市が建設され、紀元前300年前後には港の入口に台座を含めて高さ50mにもなる太陽神ヘリオス像(アポロンの巨像/ロードスの巨像)が建設され、船は石像の股の下をくぐって入港したという。この巨像、いわゆるロードス島の巨像は古代ギリシアの旅人フィロンが記した「世界の七大景観」に選出されたが、紀元前226年の地震で倒壊したとされる。

エーゲ海

9 ミストラ遺跡(ギリシア神話との関連なし)

文化遺産 / 1989/
ミストラは13世紀に十字軍によってペロポネソス半島南部のタイゲトス山脈内に築かれた城郭都市遺跡で、ラテン帝国下のアカイア公国、後にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)下のモレア専制公領の都市として繁栄した。山中には城郭都市の遺構やビザンツ様式(ミストラ様式)の教会堂が残されてり、パレオロゴス朝ルネサンスの美しい作品で彩られている。なお、本遺産は「ミストラ "Mystras"」の名称で登録されたが、2007年に改称されている。

10 オリンピアの古代遺跡

文化遺産 / 1989/
紀元前776年、あるいはそれ以前から393年まで1,000年以上にわたって開催された古代オリンピック=オリュンピア大祭。最高神ゼウスに捧げられたオリンピアのアルティス(聖域)はオリュンピア大祭の舞台であり、ギリシアの諸ポリスは戦争さえ停止してスポーツで覇を競った。現在のオリンピックはこの「エケケイリアの理念」を引き継いでこその平和の祭典なのである。

オリンピアはペロポネソス半島西部、アルフェイオス川とクラデオス川の合流地点の渓谷に栄えた古代都市で、紀元前4000年紀にまでさかのぼる歴史を持つ。紀元前1600~前1200年のミケーネ文明の時代にゼウスの父親である神々の王クロノスや大地の女神ガイアらの聖域となり、紀元前1000年頃にゼウス信仰に移行したようだ。オリンピアの名はゼウスらがいた聖山オリュンポスにちなんで命名されている。ギリシア神話ではクロノスを盟主とするティーターン神族の神々と、ゼウスを盟主とするオリュンポスの神々が天の支配権を巡って10年にわたる大戦争=ティタノマキアを戦い、オリュンポスの神々が勝利してクロノスらはタルタロスの深淵と呼ばれる奈落に落とされて終戦を迎える。

最高神ゼウスを讃える祭りが4年に1度開催されたオリュンピア大祭だ。最初のオリュンピア大祭は半神半人の英雄ヘラクレスが最高神ゼウスのために神殿を築いて競技会を開いたとする伝説や、超人アキレウス(アキレス)が親友パトロクロスを弔ってスポーツ大会を催したという伝説をはじめ、数々の神話が伝わっている。

人間によるオリュンピア大祭は紀元前8世紀に開始される。こちらも伝説だが、この頃、伝染病の流行に頭を抱えていたエリス王イフィトスは聖地デルフィを訪れて太陽神アポロンに伺いを立てた。アポロンの神託は、「戦を止め、オリンピアで競技会を開催せよ」というもの。イフィトスはスパルタ王リグルゴスやピサ王クレオステネスらと会談を行って大祭の開催を決め、期間中はすべての戦を中止し武器をとることも禁ずるというエケケイリアの理念を定め、これをイフィトスの円盤に刻んで布告した。大祭前にはオリーブの葉でできた冠を被ったスポンドフォロイと呼ばれる平和の使者がこの円盤を持って諸ポリスを回り、開催を知らせたという。オリンピアで開催された記録に残る最初の大祭は紀元前776年で、この大会を第1回とすることが多い。

オリュンピア大祭はゼウスに捧げる神事であり、何よりも優先された。紀元前480年にアケメネス朝ペルシアの皇帝クセルクセス1世が50万ともいわれる大軍を率いて襲来したが、大祭参加中のポリスは派兵せず、スパルタのレオニダス率いるギリシア連合軍はわずか数千~1万程度にすぎなかったという(テルモピレーの戦い)。

大祭が行われたアルティスと呼ばれる神々の聖域にはゼウス神殿、ヘラ神殿を中心に70もの建築物や構築物が立ち並んでいたという。最重要の建物がゼウス神殿で、紀元前470~前457年頃にエリスの建築家リボンがそれまでの神殿を改築し、平面70×30m・高さ20m以上というドーリア式の巨大な神殿を建設した。ここに収められていたのが「オリンピアのゼウス像」で、古代ギリシアの旅人フィロンが記した「世界の七大景観」にも選出されている。彫刻家フェイディアスが制作した高さ13mの神像で、金と象牙でできていたという。

ゼウス神殿と並ぶ主神殿がゼウスの妻ヘラを祀ったヘラ神殿だ。紀元前590年創建とされるドーリア式神殿で、オリンピアでも最古級を誇る。当時も現在も、オリンピックの炎はヘラ神殿の東にあるヘラの祭壇において放物面鏡で太陽光線を集めて採火されている。これ以外にもアルティスにはペロポネソス半島の英雄ペロプスを祀る五角形の墓廟ペロピオン、泉の妖精ニンフを祀るニンファエウム、地母神を祀るメトロンなどの神殿がある。

オリュンピア大祭の施設としては、まず紀元前560年創建と伝わる屋外競技場スタディオンが挙げられる。全長212.54m・幅30〜34mで、短・中・長距離走や走り高跳び、五種競技、円盤投げ、やり投げなどの陸上競技が行われた。一方、ボクシングやレスリング、パンクラチオンといった競技を行った66×66mの巨大な屋内運動施設がパライストラだ。パライストラには屋内競技場であるギムナシオンが隣接していた。各競技の優勝者にはオリーブの冠が与えられ、アルティスに石像が設置され、出身のポリスでは英雄として迎えられた。

フィリペイオンは、マケドニアのフィリッポス2世がアテネとテーベの同盟軍と戦って勝利した紀元前338年のカイロネイアの戦いを記念して建設した。内部にはフィリッポス2世や息子アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)ら5体の石像が収められていた。マケドニアのギリシア支配を象徴するものといわれる。

前門プロピュライア、評議会事務所プリタニオン、議場ブーレウテリオン、選手の宿泊施設レオニオン、祭司の宿泊施設テレコレオン、ギリシア浴場、ローマン・バス(ローマ浴場)、皇帝ネロのヴィッラ(別荘)、各種ストア(列柱廊式の建物)、各ポリスの宝庫などの遺構が残されている。

ローマ時代に入ってもオリュンピア大祭は開催されていたが、キリスト教が広がると下火になった。380年にローマ皇帝テオドシウス1世がキリスト教を国教化し、392年にキリスト教以外の宗教を禁止すると、異教の祭りであるとしてオリュンピア大祭も中止が求められ、393年に開催された第293回大祭が最後となった。神殿をはじめとする建造物群は4世紀の地震で大きな被害を受けていたが、426年にテオドシウス2世が発した異教神殿破壊令によりアルティスは廃墟となった。

11 デロス島

文化遺産 / 1990
エーゲ海中央部、キクラデス諸島のミコノス島とリニア島の間に浮かぶデロス島は太陽の神アポロンと月の女神アルテミスの双子が生まれた場所とされ、「すべての島々の中でもっとも神聖な島」と崇められた。小さな島ながらアポロン神殿を中心に数多くの神殿が立ち並び、1,000年以上にわたって聖地としてありつづけた。また、紀元前2世紀には地中海最大の港湾都市となり、ギリシア・ローマはもちろん西アジアや北アフリカからも多くの商船が訪れた。

エーゲ海
デロス島

デロス島は東西1.3km・南北5km、最高峰がキュントス山の高さ112.6mという小さく平坦な島で、紀元前3000年紀から人間の居住の跡があり、紀元前1600~前1200年のミケーネ文明の時代にはすでに聖域として祀られていたようだ。

ギリシア神話によると、女神レトは最高神ゼウスとの間に子を宿す。これに怒ったゼウスの正妻である女神ヘラはあらゆる土地の神々に出産の場所を提供しないように命令する。レトはゼウスの誘いを断ってオルテュギアという岩(浮島)にされてしまった妹のアステリアを訪ね、ヘラに逆らって出産させてもらう代わりに、岩を世界の中心に固定して聖地として奉るという約束を交わす。レトは9日間にわたる陣痛の後、オルテュギアのキュントス山の聖なる湖のシュロの木につかまって最初にアルテミス、続いてアポロンの双子を出産する。アポロンは母の約束を果たしてオルテュギアをエーゲ海の中心に固定し、光輝く(デロス)島と名付けて聖域とした(数多くの異説あり)。紀元前9世紀頃にはデロス島にアポロンの聖域が設置され、アポロン神殿が建設されていた。

紀元前6世紀にアテネ、ナクソス、パロスといったポリスの間でデロス島の領有権が争われ、アテネの僭主であるペイシストラトスが勝利し、聖域を整備して周辺から墓や遺骨を取り去って浄化を進めた。アケメネス朝ペルシアとのペルシア戦争(紀元前499~前449年)で奇跡的な勝利を収めた後、ギリシアの諸ポリスはペルシア軍の再来に備えてアテネを盟主にデロス同盟を結成する。同盟の議会と金庫はデロス島に設置され、この資金を利用してアテネのアクロポリスの華麗な建造物群が建設された。紀元前426年にはデルフィの神託により島全域の浄化が進められ、島での出産や死が禁じられた。さらに紀元前422年には住人の居住が禁止され、アテネによって住民は強制的にアナトリア半島のアドラティオに連れ去られた。

アテネが治めた紀元前7~前4世紀が宗教的聖地としてのデロス島の最盛期で、アポロン神殿(アテネ人神殿、デロス人神殿、ポロス石神殿)やアルテミス神殿、レト神殿、ゼウス神殿、アフロディーテ神殿、ヘルメス神殿といった壮大な神殿が立ち並び、周囲をナクソス人が贈ったライオン像が並ぶ回廊が取り囲んでいたという。紀元前426~前316年まで4年に1度のデーリア祭(デロス祭)が開催され、屋外競技場スタディオンや屋内運動施設パライストラ、ローマ劇場テアトルムなどで競技や公演が行われた。こうした祭事や神事は単に宗教行事というだけでなく、アテネの支配権を根拠付けて強化する政治的なイベントでもあった。

アテネを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟が争ったペロポネソス戦争(紀元前431~前404年)でペロポネソス同盟が勝利すると、アテネの勢力は大きく衰えた。紀元前314年にアンティゴノス朝マケドニアの王アンティゴノス2世がデロス島を占領すると、島をアテネの支配から解放した。

紀元前167年、共和政ローマの元老院はデロス人をふたたび島から追放してデロス島を自由港に宣言。エーゲ海はもちろん小アジア、黒海、キプロス、フェニキア、エジプト、リビアなど地中海各地から商船が乗り入れて活発に貿易を行った。大商人や貴族・銀行家らは著名な建築家や芸術家を呼び寄せて大邸宅を建て、彫刻やモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)、フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で装飾した。ディオニュソスの家やトライデントの家、仮面の家、イルカの家、クレオパトラの家、湖の家、丘の家といった家々や、イタリア人のアゴラ、デロス人のアゴラ、テオプラストスのアゴラといったアゴラ(公共広場)はこの時代の富豪や地方出身者の組織が築いたものだ。また、各地の神々の神殿や聖域も整備され、エジプトのイシス神殿やセラピス神殿、アヌビス神殿、シリアの神々の聖域、アシュケロン(イスラエルの都市)の神々の家、ユダヤ教の礼拝堂シナゴーグなどが築かれた。デロス島はこうして地中海のあらゆる文化が集まる国際貿易港となり、小さな島の人口は3万に膨れ上がり、「世界最大の商業都市」と評された。

しかし、紀元前88年にローマと敵対していたポントス王ミトラダテス、紀元前69年にポントスの同盟国であるアテノドロスの海賊に侵略されて荒廃。これ以降、デロス島は急速に衰退し、ビザンツ帝国やスラヴ人、イスラム教徒、ヴェネツィア、聖ヨハネ騎士団、オスマン帝国に占領されるもののすぐに放棄され、廃墟からは神殿の柱や石材が持ち出され、無人の採石場と化した。

12 ダフニ修道院群、オシオス・ルカス修道院群及びヒオス島のネア・モニ修道院群

文化遺産 / 1990/
修道院3院と関連の建造物群を構成資産とする世界遺産で、ダフニ修道院はアテネの中心部から直線距離で10kmほど離れたアッティカ、オシオス・ルカス修道院はアテネから約100kmのフォシデ、ネア・モニ修道院群は200km強のヒオス島に位置する。

ダフニ

ダフニ修道院は女神アテナの都であるアテネと女神デメテルの都であるエレウシスを結ぶエレウシス街道の途上に位置し、ローマ時代には太陽神アポロンの聖域として崇められており、アポロン・ダフネオス神殿が立っていた。この神殿は396年に破壊されたが、5世紀には聖域に長方形のバシリカ式教会堂を中心とする修道院が建設され、6世紀にビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世によって整備された。

オシオスルカス修道院

オシオス・ルカス修道院はヘリコン山の西斜面に立つ修道院で、10世紀半ばにデメテル神殿跡で修行を行っていた聖ルカスにちなんで命名された。

13 サモス島のピュタゴリオンとヘラ神殿

文化遺産 / 1992/
サモス島はエーゲ海の東、アナトリア半島の沖わずか1~2kmの場所に浮かぶ島。島の南東に築かれた古代港湾都市ピタゴリオンはギリシア本土や小アジアの諸ポリスと貿易を行い、大いに繁栄した。その象徴が古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが「ギリシア最大の神殿」と讃えたヘラ神殿(ヘライオン)だ。

サモス島
ピタゴリオン

サモス島では紀元前5000~前4000年紀から人間の居住の跡があり、紀元前2000~前1000年紀にミケーネ人やイオニア人によって開拓が進められた。特にマスカットから作られる甘口のサモス・ワインの産地として名を馳せた。島の南東部に築かれた港湾都市ピタゴリオンは紀元前7~前6世紀にはエーゲ海でも随一の貿易港に発展し、エーゲ海や小アジアはもちろん、黒海や西アジア、北アフリカとも交易を行った。地中海から大西洋に通じるジブラルタル海峡に到達した最初のギリシア民族といわれている。地中海東部ではアケメネス朝が勢力を強めたが、エジプトと同盟を結んでこれに対抗した。

紀元前6世紀前半には僭主ポリュクラテスが島を支配し、独裁政治を断行した。100隻に及ぶ艦隊を率いてレスボス島、リニア島、ミレトスなどエーゲ海や小アジアの島や都市を次々と征服して勢力を拡大した。ピタゴリオンには華麗な宮殿や公共施設が築かれ、彫刻やモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)といった芸術文化が発達した。紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスは著書『歴史』の中でサモス人による3つの偉大な建築を記している。エウパリノスのトンネル、港の堤防、ヘラ神殿がそれだが、いずれもこの時代に建造されたものだ。

ヘラ神殿はピタゴリオンの南西5kmほどに位置する神殿で、最高神ゼウスの妻であり、女神の女王であるヘラを祀る聖域に築かれた。ピタゴリオンとは聖なる道で結ばれ、道の両脇には神々の像が立ち並んでいた。ヘラ神殿はこれまで2~3度ほど再建されている。第1神殿(ヘカトンペドス神殿)は紀元前8世紀の建設で、33×7mほどのレンガ造の神殿だった。紀元前670年頃に洪水で破壊され、まもなく修復されている。第2神殿(ロイコス神殿)は建築家ロイコスとテオドロスの設計で紀元前570~前560年ほどに建設された石造神殿だった。紀元前550年頃にアケメネス朝の襲撃を受けて破壊された。第3神殿(ポリュクラテス神殿)はポリュクラテスの命令で紀元前530~520年代に建設が開始された。108.63×55.16mというとてつもない規模で、ヘラクレイトスをして「ギリシア最大の神殿」と言わしめた。250年以上を経たローマ時代に入っても完成せず、天井や梁部分が見つからないことから未完成に終わったと考えられている。その後、神殿の神像や石材はローマ(世界遺産)などに持ち去られ、現在は柱が1本残るのみとなっている。ローマ時代にこの場所に小さな神殿が建設されたが、5世紀に取り壊された。

ポリュクラテスの治世の末期にアケメネス朝との対立が激化し、ポリュクラテスは紀元前522年に同朝のサトラップ(地方行政官)に暗殺された。その後、サモス島はアケメネス朝に征服され、急速に衰退した。まもなく独立を取り戻し、ペルシア戦争(紀元前499~前449年)やペロポネソス戦争(紀元前431~前404年)を戦ったが、紀元前4世紀にふたたびアケメネス朝の支配を受けた。紀元前5~前3世紀には学問で栄え、数学者ピタゴラス、哲学者エピクロス、天文学者アリスタルコスらを輩出した。また、芸術でも高い評価を得て、サモスの彫刻はギリシア中で取引された。

この後はマケドニアのアレクサンドロス帝国、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アッタロス朝ペルガモン、ローマ帝国と宗主国を替え、ローマ都市として整備された。この頃にはエウパリノスのトンネルの水道管も詰まって使えなくなっており、水道橋が建設された。さらにビザンツ帝国、オスマン帝国の支配を受け、5世紀にはキリスト教のバシリカ式教会堂や修道院も建設された。

14 エゲの古代遺跡(現在名ヴェルギナ)

文化遺産 / 1996/
テッサロニキの西約55km、ピエリア山脈の麓に位置する古代都市エゲ(アイガイ)はマケドニア王国(前808~前168年)前期の首都であり、ギリシアでも最大級の宮殿跡が残されている。死者の町ネクロポリスでは300基以上の墓が発見されており、マケドニア王国の繁栄の土台を築いたフィリッポス2世のものと見られる墓も含まれている。

エゲ

エゲの地は紀元前3000年紀から人の居住の跡があり、山麓には数百の墳丘墓が集中している。紀元前8世紀頃からマケドニア人が住み着き、都市として発達したようだ。伝説によると紀元前8~前7世紀、半神半人の英雄ヘラクレスの血を引くマケドニア人カラヌスがマケドニア王国アルゲアス朝を建国し、エゲを首都として整備したという。マケドニア王国はギリシアの諸ポリスと異なり、都市国家ではなく複数の都市を持つ領域国家で、一夫多妻制を認めるなどペルシア的な文化を持っており、当初ギリシア人たちはマケドニア人をバルバロイ(異国語を話す野蛮民族)として扱っていたようだ。しかし、紀元前6世紀後半に裁判でギリシア人として認められ、紀元前504年頃に国王アレクサンドロス1世はマケドニア人としてはじめてオリュンピア大祭に参加した。ペルシア戦争(紀元前499~前449年)では形的にアケメネス朝ペルシアについたが、両者の講和を計ったり情報を流すなどギリシアのポリス連合を支援した。

アレクサンドロス1世の死後、マケドニアは内乱が続いて混乱するが、ギリシアのポリスがアテネのデロス同盟とスパルタのペロポネソス同盟に分かれて争ったペロポネソス戦争(紀元前431~前404年)には参加せず、国力の回復と版図の拡大を図った。この頃、アルケラオス1世が首都をエゲから北のペラに遷し、ギリシア文化の取り込みを行った。エゲは首都としての座を失ってもマケドニア人の故郷であり聖地として重要視され、宮殿やネクロポリスは変わらず使用された。

紀元前382年に生まれたフィリッポス2世の幼少期、マケドニアは混乱が続いており、フィリッポス2世はアテネやスパルタと覇権を争った強国テーベ(テーバイ)に人質に送られた。ここで将軍エパミノンダスに見出され、ギリシア最先端の軍制や文化を学んだという。フィリッポス2世は紀元前359年に王位に就くと国政・軍制改革を推し進めた。ギリシアのポリスにならって都市の機能を強化しつつ、各都市の貴族や地方の豪族を引き締めて中央集権体制を強化した。また、ギリシアの重装歩兵を発展させて「マケドニアン・ファランクス」と呼ばれる戦術を導入した。兵士はサリッサと呼ばれる5mを超えるような長槍を持ち、これをいっせいに敵に向けて針の山のような陣(ファランクス)を作って歩を進めていくもので、ファランクスの周囲に馬に乗った重装騎兵ヘタイロイを配して機動力も確保した。また、フィリッポス2世は優秀な人材をギリシア全域から呼び寄せて登用した。一例が息子アレクサンドロスにつけた家庭教師、大哲学者アリストテレスだ。

フィリッポス2世は聖地デルフィを巡る第3次神聖戦争(紀元前356~前346年)に参加して勝利。紀元前338年にはマケドニアの台頭を恐れたアテネとテーベが同盟を結んで戦いを挑むが、フィリッポス2世は紀元前338年のカイロネイアの戦いでこれを退けた。翌年、コリントス同盟(ヘラス同盟)を結成してスパルタ以外のポリスを取り込むと、アケメネス朝に対する戦争を決議した。これは同盟を強めると同時に矛先を外に向け、兵士を集めてポリスを弱体化させつつ人質とする戦略だった。

フィリッポス2世は紀元前336年に暗殺され、その跡を弱冠20歳のアレクサンドロス3世が継いだ。アレクサンドロス3世は紀元前334年に4万の兵を率いてアケメネス朝に攻め込み、数倍~数十倍の敵兵を相手に連勝を重ね、最終的にエジプト、中央アジア、インドの手前にまで攻め込んで大帝国を築いた(アレクサンドロス帝国)。紀元前323年にアレクサンドロス3世が「もっとも王にふさわしい者が国を治めよ」との言葉を遺して病死するとディアドコイ(後継者)戦争が勃発。アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアというヘレニズム3大国が覇を競うが、アンティゴノス朝マケドニアは共和政ローマのマケドニア戦争によって討伐され、紀元前168年に滅亡した。このとき首都ペラとエゲは略奪を受け、宮殿はもちろん城壁まで徹底的に破壊された。ペラはその後も都市として存続したが、エゲは一度は再興されたものの地震で倒壊し、その後は小さな集落となって人々の記憶から忘れ去られた。

フランス人考古学者レオン・ユーゼによる発掘が1861年にはじまり、宮殿跡が発見された。1937年にはテッサロニキ・アリストテレス大学の考古学チームが発掘を行い、さらなる宮殿の遺構やマケドニア王国時代の墓を掘り当てた。ギリシア人考古学者マノリス・アンドロニコスは1977年に大墳丘と呼ばれる丘を発掘し、4基の墓を確認。そのひとつがフィリッポス2世のものと見られた。

エゲの都市遺跡は城壁に囲まれたアクロポリス(丘)を中心に展開し、一帯を見下ろす頂に宮殿が立っていた。この宮殿はフィリッポス2世の頃の建設で、建築家ピケオスの設計と見られており、2~3階建てでモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)やレリーフ、彫刻で彩られ、ペリスタイル(列柱廊で囲まれた中庭)にはドーリア式(ドリス式)の柱が立ち並んでいた。宮殿としては当時最大級を誇り、マケドニア建築を代表するもので、その影響はアレクサンドロス帝国を通してアジアにまで及んだ。隣接する劇場は宮殿の付属施設だ。周辺には複数の聖域が整備されており、エウクレイア神殿やキュベレ神殿の跡が発見されている。

15 ミケーネとティリンスの古代遺跡群

文化遺産 / 1999/
紀元前1600年頃に起こってギリシア世界を席巻し、紀元前1150年頃に突如消え去ったミケーネ文明の2大都市、ミケーネとティリンス。いずれもさまざまな神々が躍動するホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』に描かれた伝説の都であり、エーゲ海の島々と沿岸部の多くを支配して古代ギリシアの礎を築いた。

ミケーネ文明は後期青銅器時代の紀元前1600年頃、クレタ文明(紀元前2000~前1400年。ミノア文明)の影響を受けて誕生した。ペロポネソス半島東部に位置するミケーネとティリンスは紀元前4000~前3000年ほどから人間の居住の跡がある歴史ある土地で、ミケーネ文明によって飛躍的に発展した。ミケーネ文明の特徴は高度な石造文化で、後世の人々は巨大な石が積み重なる堅牢な城壁や建造物を見て人の手によるものとは信じられず、ひとつ目の巨人族サイクロプスが築いたものと考えた。ミケーネの都市はアクロポリスと呼ばれる見晴らしのよい丘の上に「サイクロプスの石積み(サイクロプス様式)」と呼ばれる城壁を建設し、内部に石造の宮殿や神殿・城塞・塔・住宅・墳丘墓などを築いて城郭都市を形成した。建築技術はきわめて高く、シンメトリーを重視し、少しずつ石を張り出させてアーチを描くコーベル・アーチ(持送りアーチ)を駆使してそれまでにない巨大な石造ドームを築き上げた。宮殿や神殿に見られるように王(ワナックス)や官僚・司祭を中心とした階層構造が整備され、奴隷制を採用していた。

ミケーネ文明はギリシア都市国家ポリスと違って多くの都市を従える領域国家で、版図はバルカン半島南部とペロポネソス半島全域、エーゲ海南部全域に及び、エーゲ海南端のクレタ島や東端のロードス島、現在トルコのあるアナトリア半島の一部までを治めていた。古代ギリシア世界全域に及ぶもので、ギリシア文明の礎を築いた。

ミケーネ

ミケーネはペロポネソス半島のアルゴリド湾からコリントス、アテネに続くルートの要衝にあり、紀元前1600年頃にユーゴア山腹のアクロポリスに城郭都市が築かれた。ホメロスが「黄金に富む都」と記したミケーネ文明の中心都市で、最盛期の紀元前14世紀には城下町の人口は30,000人に達した。伝説では、ミケーネを創設したのは最高神ゼウスとアルゴス王の娘ダナエの息子ペルセウスであるという。ペルセウスは見た者を石に変える蛇髪の怪物メドゥーサや巨人アトラスを倒し、エチオピアの王女アンドロメダを救出して結婚する。しかし、祖父アクリシオスを意図せず殺害してしまい、自責の念からアルゴスを継承することを断念してティリンス王メガペンテスと土地を交換してティリンスへ赴き、やがてミケーネを創建したという。

ミケーネは厚さ6〜8mにもなる石灰岩製の城壁で囲まれている。丘の頂に立つ王宮跡は170×50〜80mという巨大ななもので、ふたつのポルティコ(列柱廊玄関)からなる前門プロピュライアを入ると中庭を経て本殿であるメガロンに至る。この王宮はトロイア戦争でギリシア軍を率いたミケーネ王アガメムノンの居城で、戦争に勝利した後、愛人としてトロイア王妃カッサンドラを引き連れて帰還するものの、怒り狂った妻とその情婦に殺害され、さらに妻らも殺されるというアイスキュロスの悲劇『アガメムノン』の舞台として知られる。アクロポリスの南東は宗教センターで、数々の神殿や祭壇跡・墳丘墓が立ち並んでいる。象徴的な遺跡が円形墳墓Aだ。紀元前16世紀のものと見られる直径27.5mの墳丘墓で、6つの竪穴の下に6基の墓を備えており、19体の遺骨とともに副葬品としてアガメムノンの仮面を含む5つの黄金の仮面や金の指輪・牡牛像・宝剣・レリーフ等が出土した。
墳丘墓には他に紀元前1500年建設のアイギストスの墓やライオン像が見られるライオンの墓などがある。際立って特徴的なのが紀元前1250年頃に建造されたアトレウスの宝庫(アガメムノンの墓)と呼ばれる墳丘墓で、当時世界最大とされる。ただ、残念ながら発掘時にすでに盗掘されていた。

これら以外の建物としては戦士クラテールの家やツォンタスの家、司祭の家、フレスコの家、石油商人の家といった高官の邸宅をはじめ、砦・貯水池・北門などが挙げられる。こうした建造物のほとんどは紀元前1350~前1200年に築かれている。

ティリンス

ティリンスはミケーネの南15kmほどに位置するミケーネ文明初とされる城郭都市で、アルゴリド平野から26mほどの高さのアクロポリスに位置している。ミケーネ文明の建築や政治・宗教システムの基礎を築き、最盛期は人口15,000人に達し、ミケーネにも多大な影響を与えた。ホメロスが「強力な城壁で囲まれた都」と書いたように全長750mの城壁はミケーネよりもさらに巨大で、最大で厚さ8m・高さ13mに及ぶ。ミケーネと同様に城門を入ると塔や宮殿があり、宮殿はプロピュライアやメガロンで構成されていた。メガロンは11.8×9.8mで、メインの部屋には玉座が置かれ、木製の柱で支えられていた。また、外のアーケードは美しいフレスコ画で覆われていた。伝説によると英雄ペルセウスが最初に都を置いた場所であり、またゼウスとティリンス王妃アルクメネから半神半人の英雄ヘラクレスが生まれた場所とされている。

ミケーネ文明は紀元前1200~前1100年ほどに突如勃興した混成海洋民族・海の民の襲撃を受けて滅亡し、ミケーネやティリンスのアクロポリスも破壊された(紀元前1200年のカタストロフ)。紀元前8~前7世紀ほどにポリスとして再興され、宮殿やヘラ神殿などが築かれたが、紀元前468年にいずれもアルゴスによって徹底的に破壊された。住民は追放あるいは連れ去られ、都市も放棄された。
ミケーネとティリンスの発見は19世紀のこと。古代ギリシアの研究を一気に加速させた。

16 パトモス島の“神学者”聖ヨハネ修道院と黙示録の洞窟の歴史地区(コーラ)(ギリシア神話との関連なし)

文化遺産 / 1999/
エーゲ海東部に浮かぶドデカネス諸島のパトモス島はイエスの十二使徒のひとりである聖ヨハネが神から啓示を受けて洞窟で『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」と「ヨハネによる福音書」を著したことで知られる。11世紀後半に洞窟の近くにホシオス・クリストドゥロスによって正教会の修道院が創設され、周辺にはコーラと呼ばれる修道院城下町が形成された。

17 コルフ旧市街 (ギリシア神話との関連なし)

文化遺産 / 2007/
コルフ島はギリシアとアルバニア国境付近、イオニア諸島の中ほどに位置し、アドリア海の入口に浮かんでいる。アドリア海最奥部に位置する海洋国家ヴェネツィア共和国は島の中央東岸付近の港湾都市コルフ(ギリシア名ケルキラ)に堅固な要塞を築き、15世紀からおよそ4世紀にわたってオスマン帝国に対する最前線の防衛拠点として整備した。

コルフ島

コルフは紀元前8世紀頃にギリシア世界に組み込まれ、紀元前734年にコリント人が植民都市ケルキラを建設した。町は南イタリアのギリシア勢力圏マグナ・グラエキアとの貿易で発達し、ローマ時代にはローマやナポリとの貿易で繁栄した。ローマ帝国が分裂するとビザンツ帝国(東ローマ帝国)領となり、やがてゴート人やノルマン人の圧力や侵略を受けて要塞が築かれた。旧市街の旧要塞のある岬には6世紀半ばにゴート人がはじめて砦を築いたといわれている。

7世紀に成立したヴェネツィアは9~10世紀に海賊やイスラム教勢力を一掃してアドリア海の制海権を掌握し、イオニア海やエーゲ海に進出する。ビザンツ帝国の海上防衛を担当すると西アジアとの東方貿易(レヴァント貿易)で優位に立ち、香辛料や金を輸入して繁栄し、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァと並ぶイタリア4大海洋都市国家に成り上がった。ヴェネツィアは第4回十字軍(1202~04年)でビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを襲撃して一旦はこれを滅ぼし、コルフ島を含むエーゲ海とイオニア海の多くの島々や沿岸都市を手に入れた。この後、コルフ島はエピロス専制侯国やナポリ王国の支配を受け、混乱の中で城や要塞が強化された。ヴェネツィアはナポリの国内紛争に乗じて1386年にふたたびコルフを占領し、以後1797年まで支配を続けた。

18 フィリピの古代遺跡

文化遺産 / 2016
フィリッピ(ピリッポイ)は紀元前356年にマケドニア王フィリッポス2世が金銀鉱山の近くに築いた都市で、ローマ時代にはヨーロッパとアジアを結ぶエグナティア街道の要衝として「小ローマ」と呼ばれるほどに繁栄した。キリスト教の使徒であり『新約聖書』の著者のひとりでもあるパウロがヨーロッパではじめてキリスト教共同体を組織した町ともいわれ、初期キリスト教の教会堂の遺構やモザイク画などのビザンツ芸術の傑作が確認できる。

フィリッピの地には紀元前1000年頃から人間の居住の跡があり、紀元前360年にタソス人の入植地が築かれ、水源が豊富だったことからクレニデス(泉)と名付けられた。まもなくトラキア人の圧力を受けたためマケドニアに支援を求め、フィリッポス2世は紀元前356年に町を併合して植民都市フィリッピとして整備した。フィリッピは水だけでなく金銀鉱山に恵まれ、農業や林業にも適しており、ギリシア植民都市ビザンティオンからヨーロッパへ向かうルート上にあって港も近いということで一気に発展した。特に新たな金鉱山が発見されたことでマケドニアは豊かになり、この地に金貨を製造する造幣局が建設された。

紀元前148年、共和政ローマとのマケドニア戦争に敗れてマケドニア王国は滅亡し、フィリッピは共和政ローマの属州となる。この頃、ビザンティオンとディラキウムを結ぶエグナティア街道が整備され、フィリッピはアジアとヨーロッパを結ぶ要衝として発達した。紀元前44年にカエサルが暗殺されると、紀元前42年に実行犯であるブルートゥスとカシウスがアントニウスとオクタウィアヌスと争ったフィリッピの戦いが起こる。アントニウスとオクタウィアヌスが勝利するとフィリッピには多くの兵士がそのまま入植した。紀元前27年、オクタウィアヌスはアウグストゥスの尊称を得て実質的に皇帝に即位(帝政ローマ/ローマ帝国のはじまり)。アウグストゥスは各地の植民都市を再構成してローマ都市として整備したが、フィリッピもコロニア・ユリア・アウグスタ・フィリペンシスとして再興され、多くの市民を受け入れて拡大した。この頃、新たに開拓された金銀山によって帝国に多くの利益をもたらした。

50年頃、パウロがフィリッピを訪れて宣教を行い、ヨーロッパ初といわれるキリスト教会組織を立ち上げる。その後、パウロはローマに赴いて皇帝ネロによる弾圧を受けて逮捕・監禁されるが、獄中で『新約聖書』に掲載されている「フィリピの信徒への手紙」を記している。この手紙は帝都ローマでキリスト教が急速に普及していること、獄中においても宣教を盛んに行っていること、弾圧下にあっても神の教えを守って宣教にいそしんでいることなどが記されている。ローマ帝国は長きにわたってキリスト教を弾圧したが、皇帝コンスタンティヌス1世が313年のミラノ勅令で公認し、テオドシウス1世が380年に国教化し、392年にはキリスト教以外の宗教が禁止された。395年に東西ローマ帝国が分裂するとフィリッピはビザンツ帝国(東ローマ帝国)の版図に入り、パウロによる宣教の地として巡礼地となった。

4世紀以降、フィリッピは民族大移動に悩まされ、6世紀にはスラヴ人の侵略を受けて破壊され、620年には大地震によって壊滅的な被害を受けて衰退した。9世紀にブルガリア帝国がこの地を支配するが、まもなくビザンツ帝国が奪還。10世紀にマケドニア朝のビザンツ皇帝ニケフォロス2世フォカスが城壁を修復して要塞を建設し、都市改造を行って前線基地として整備した。第4回十字軍(1202~04年)によってビザンツ帝国はいったん滅亡し、この混乱の中でフィリッピはさまざまな国の支配を受け、14世紀にはイスラム王朝であるオスマン帝国の版図に入る。こうした複雑な歴史の中で町は徐々に衰退し、16世紀には建築資材を供給する採石場になっていたという。

フィリッピはかつて丘の上のアクロポリスから南斜面にかけて4つの城門を持つ全長3.5kmほどの城壁に囲まれた城郭都市で、南斜面をエグナティア街道が貫いており、この道に沿って都市が発展していた。ギリシア時代のアゴラやローマ時代のフォルムといった町の中心となる公共広場は街道の南に設置され、噴水・神殿・議会・裁判所・図書館・ストア(列柱廊のある細長い建物)などが広場を囲っていた。さらに周辺には商業市場・公衆浴場・パライストラ(屋内運動施設・体育学校)・ヘロオンなどの公共施設が建設された。ヘロオンはしばしばギリシア・ローマの中心に築かれた英雄を祀る神殿あるいは墓廟で、オクタゴン(八角形)と呼ばれるマウソレウム(廟)跡が残っている。ギリシア・ローマ時代、街道の北には神殿が立ち並んでおり、シルヴァヌスの聖域、アルテミスの聖域、古代エジプト神の聖域といったの神殿跡を見ることができる。神殿群の東のテアトロン(ギリシア劇場)はフィリッポス2世が築いたもので、ローマ時代に改修された。また、アクロポリスの頂に残る塔はビザンツ時代のものだ。


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