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【短編BL】僕のヒーロー

 彼はいつだって、僕のヒーローだった。
 今では教室の一番後ろ、窓側の席で外を見つめている、少し暗くて話しかけにくい人かもしれない。ほとんど話すこともなくなって、目だって合わせてくれなくなってしまった。でも、今でも彼は僕のヒーローだ。いつだって一緒にいて、いつだって僕を助けてくれた、たったひとりの、僕のヒーロー。

 始まりは鮮明に覚えている。小学二年生のときだ。あの日も僕はいつも通りクラスメイトに馬鹿にされていた。デブだの、ブスだの、言われ始めて数週間経ったある日だった。
 食べるのが好きだった僕は、毎日のようにたくさんご飯を食べていた。けど、本当の理由はそんなものじゃなかったのかもしれない──ストレス。どっちが先かと言われれば難しいところだけど、馬鹿にされるようになってからさらに食べる量が増えたのは確かだった。どれだけ辛くても苦しくても、そんな言葉を跳ね返すための肉をつけ続けた。
「おいデブ、早くしろよ」
 いつもだったら登下校中やトイレにいるときなど、僕がひとりでいるところを狙って攻撃をしてきていたのが、その日は違った。薄らとクラスに「太田おおたは、いじめてもいいんだ」という認識が広まり始めたのに気付いたのか、主犯は教室内で僕を突き飛ばしながらそう言った。これを機にクラス全体で僕をおもちゃにしようと思ったのだろう。意地悪く笑っているそいつの顔が見えた。教室内の心配そうな視線の中に、クスクスという笑いが広がっていく。
 どうせ僕はそんな立場だろうと、嫌がらせが始まって数日で気付いていたし、ここで反論したっていじめっ子たちに勝てっこないことも知っていた。だから倒れたそのままの格好で震えていた。涙だけは流さないと、口内を噛んで耐えていた。
「──やめろよ」
 だからこんな言葉が教室を静かにするだなんて思ってもみなかったのだ。
「太田が、いやがってる」
 パッと顔を上げて見ると、そこには僕をかばうように両手を広げた英雄ひでおくんがいた。そのときまでは、一言も話したことのない、ただ同じ教室で授業を受けているだけのクラスメイトだと思っていた英雄くん。その姿は、いつもテレビの向こう側に見るヒーローそのものだった。
「な、なんだよひでお」
 怯んだいじめっ子を、英雄くんは何もせず、まっすぐに見つめ続けた。悪を貫くような、正義の光を宿した綺麗な瞳だった──。

 英雄くんのおかげで、あれから僕のいじめはほとんどなくなった。それでも──だから、かもしれないけど──主犯はまだ僕のことを嫌っているらしく、たまに目が合っては睨みながら悪口を言ってくる。でも、僕はもうそんなことでは揺らがない。怖くない。だっていつも隣には僕のヒーローがいるんだから。
「太田さ、最近明るいし元気だしさ……俺、嬉しいよ」
 満面の笑みを浮かべている英雄くんを見て、胸がドキンと跳ねた。英雄くんが笑っていると、僕も嬉しい。
「どしたの、急に」
「もしさ、もしもだよ? もし、あのときの俺に勇気がなくて見て見ぬふりしてたらって、たまに考えるんだよ」
 帰り道がもう、少し暗い。この時期は日がすぐに落ちてしまうから、何となく、英雄くんと一緒にいられる時間も短くなっているような気がして、ちょっと寂しい。
 でもこの空気が好きだ。澄んだ空気に英雄くんの声が、言葉が、綺麗に列を作って並んでいる。僕の周りを回っている。
「でも、英雄くんは、僕を助けてくれたよ」
 眉を下げて笑う英雄くんは、何を考えているのだろう。僕が触れたらそのまま雪みたいに融けてしまいそうで、それだけが怖くて英雄くんに触れられなかった。いなくならないように抱き留めてしまいたかったけど、僕の体温で消えてしまったら嫌で。
「そうだな。だから太田と俺は親友になったんだもんな」

 そう言っていたのに、英雄くんが僕と一緒にいる時間はどんどん短くなっていった。
 僕が英雄くん以外に友だちを作ったのがいけなかったのかな。僕が他の子たちと遊びに行ったのが良くなかったのかな。僕が女子と仲良くしているのが悪いのかな。考えれば考えるほど、底なしの沼にはまっていくみたいだ。教室で目が合っても、一緒に帰ろうと誘おうとしても、校外で見かけても、僕と英雄くんが会話を交わすことはなくなってしまった。
 ──どうしてこうなったんだろう。
 児童玄関で空を見上げる。小雨が降っている。リュックから折りたたみ傘を取り出したところで、さっと風が駆け抜けたのを感じた。その影を目で追えば、英雄くんがリュックを頭の上に乗せて走っていったのが見えた。英雄くんは校門を出てすぐ左に曲がった。
 ざわざわと後ろから人が来る音が聞こえる。ここにいたら邪魔になる、わかっているのに僕は動けなかった。
 少し前までだったら「太田、傘持ってんだ。俺、持ってないから、入れてよ」なんて勝手に入ってきていたはずなのに。僕に笑いかけてくれていたはずなのに。
 雨のせいで空気が冷えている。肺からすうっと体温が消えていく。僕はそのまましゃがみこんで、立ち上がれなくなった。誰かが僕を心配して声をかけている。肩を叩いてくれている。背中をさすってくれている。でも全部、何も感じない。僕の好きなあの気配が、どこにもない。
 ──あぁ、そうか。わかった。
 傘なんて置いて僕は雨の中、走り始めた。頬を伝っているのが涙なのか雨なのか、わからなかった。
 ──僕は英雄くんが、好きなんだ。

 英雄くんと話さなくなって、もうどれくらい経つのだろう。声を聞くこともほとんどなくなってしまった。英雄くんが僕の人生に残したものは、大きな傷のようになってしまった。いつの日か治るのかもしれないけれど、今はまだ、痛い。
 いつからか遠く離れてしまった英雄くんは、もう僕を助けたあの日のことなんて覚えていないのだろうか。僕と一緒に過ごしたあの時間を、失くしてしまったのだろうか。僕は今でも大切にしているのに。
 机の中からボロボロになった箱を取り出す。幼い頃から気に入った写真を入れている、大切な宝箱だ。運動会や宿泊学習、修学旅行や学芸会の写真に混じって、僕と英雄くんのツーショットが出てくる。これは小学三年生のときのものだ。母が遊園地に連れて行ってくれたのを覚えている。そこで見たヒーローショーの内容だって、全部覚えているんだ。英雄くんと一緒にある記憶は、全部宝物だから。
 ぽと、と、ひとしずく落ちる。写真にできた水たまりはすぐに、スーッと重力に従って床に消えた。
 あんなに幸せだった。当時だって、今だって、僕は英雄くんが好きだ。大好きなんだ。どうしてこんなに遠くに、離れてしまったのだろう。
 教室の隅っこ、一番後ろの窓際。英雄くんはいつも外を見ている。外に何があるのか、僕にはわからない。たぶん僕とは全く別の景色を見ているんだ。だから、僕は英雄くんの視界に入ることができない。
 ふと、英雄くんがこっちを向いた。目が合う。英雄くんはハッと目を見開いて、すぐに顔を逸らした。僕の微笑んだままの顔は、どこへ向けたら良いのだろう。
 そんな日常に耐えられなくて、僕は行動することに決めた。英雄くんが僕のことを嫌いになったのなら仕方ない。僕は思い出に浸りながら、傷が癒えるのをゆっくり待つことにする。でも、そうじゃないなら。何か僕と一緒にいられない理由があるなら──いや、そんなものは、ないだろうな。
「ねえ、英雄くん」
 放課後、人気の少なくなった廊下で、僕は英雄くんの袖を掴んだ。
「どうして僕らは、こうなったのかな」
 頬がゆっくり濡れていくのがわかる。泣きはらした目はヒリヒリと痛む。顔を見ることができない。どんな感情を浮かべているんだろう。迷惑かな、嫌かな。でも、それでもいい。僕はもう覚悟を決めたんだ。
「……ごめん、俺が悪かった」
 英雄くんは震える僕の手を握ってくれた。それから引っ張るようにして、別の教室に移動した。旧校舎の、もう使われていない音楽室。
 廊下を幾度か確認した後にパタンとドアを閉めて、英雄くんは短くため息を吐いた。それから窓を開けて、新鮮な空気を肺に吸い込んだ。
「──好きだからだよ」

 酷く静かな空間に、英雄くんの声が並んだ。僕は何も理解できなくて、そのまま上靴のつま先を見つめていた。何て言ったんだろう。
「俺はさ、太田が好きなんだ」
 顔を上げると、窓の前に設置されているポールに触れながら悲しそうに微笑む英雄くんがいた。
「あのとき助けたのは助けるべきだと思ったからで、でもそれで太田が俺に懐いて。最初は友だちができたぞ、やった、くらいにしか思ってなかったんだ」
 風が英雄くんの少し長すぎる髪をなびかせた。儚い横顔が僕の胸を締め付ける。
「太田、ずっと俺から離れないし、俺のことヒーローだとか勘違いしてるし。でもさ、途中からわかんなくなったんだよ、俺は本当にこれでいいのか、このままただの親友止まりでいいのか、って」
 外からは少年団が活動を始めた音が聞こえてくる。僕らの時間だけが止まってしまったみたいだった。
「俺は太田のことを独り占めしたくなった。それが好きっていう感情だって気付くまでは、そんなにかからなかった。あ、これがみんなが言ってる恋ってやつなんだ、ってすぐわかった。そうか、俺は太田が好きなんだって」
 英雄くんは視線を落とした。
「だからいつだって太田と一緒にいたし、ずっと遊んでた。……けど怖くもなった。太田にこの気持ち知られたらどうなるんだろうって。普通じゃないってことには気付いてたし、だったら太田には嫌われるんじゃないかなって。ヒーローだと思ってたやつがこんなやつだったなんて、太田は嫌だろうなって」
 その先には、何かあるのだろうか。
「それに、嫉妬してる自分が嫌にもなった。太田はさ、いじめてくるのはいつも男子だからって女子といることが多かっただろ。それで仲良くしてるの見て、太田は俺のなのに、って思うんだよ。女子といようが男子といようが、俺はそいつらに嫉妬してたんだ。嫌になっちゃうよな」
 ガシガシと無造作に頭をかいて、それから僕の方を向いた。英雄くんは震えていた。今にも泣いてしまいそうに、顔を歪めていた。
「だから、だからさ──」
 何を言うよりも先に、身体が動いていた。気付いたら僕の腕の中に英雄くんがいた。胸に英雄くんの鼓動を感じた。
「僕も英雄くんが好きだよ。今までもこれからもずっと、ずうっと好きなんだよ」
 背中に腕が回されるのを感じる。温かい。何年も失くしたままだった体温が、ゆっくりと戻ってくる。
「そっか……こんなに、簡単だったのか」
 涙に濡れた英雄くんの声が、肩から僕の身体に広がっていく。
 もう二度と離れたくなんてない。ずっと隣に、ずっとそばにいてくれるように、力いっぱい抱き締めた。

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