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この小説は、確か中高の渡米期間を終えて日本に戻ってきてひとり暮らしを始めたときに書いたものですね…懐かしい。新生活を始めるときはいつだって寂しくて不安で勇気が必要だ。

そっと触れた。

それは手のひらで押せば手形がつく素材でできていたけれど、私はあえて手をのせるだけに留めた。続けて、頬をそのうえにつける。みるみるうちに沈み込む世界と、みるみるうちに歪んでいく景色。新品のカバーを濡らしてしまわないようにと、私は慌てて目の端をぬぐった。動けば動くほど、知らない香りが鼻をツンと掠める。歪な光景を瞳に映すことに怯えて、顔を覆う。

「まあ、最初のうちは慣れないもんさ」

煙草に火をカチカチと点しながら、のんびりとした口調で五つ年上の上司は言った。

「そういうものなんでしょうか」
「そりゃあ、今までと環境が違うんだから、無理もないだろ。あんたは転入生みたいなもんなんだから」

転入生、という言葉を私は口の中で転がした。そういえば、私の通っていた小学校には「転入生係」なるものがあったが、そう都会でもないので、転入生が来ることなど滅多になかったから、通称楽ちん係として人気があったのを覚えている。

ところで、この世界に転入生係はあるのかと尋ねれば、バカかお前はと失笑されるのがオチなので、私は口をつぐんだ。代わりに、何か仕事はないかと尋ねてみたが、今日は帰っていいと言われてしまった。なんとなくあの狭い部屋に帰りたくなくて、無意味に鞄の中身を探るふりをする。

知らない道を、携帯片手に歩いた。ふと顔をあげると、自転車に乗ったおばさんと目が合う。左頬に、視線がはりつく感覚を覚えた。

イタンシャ

コンクリートの冷たさに、内臓が震える。見上げた空は真っ暗で、取り出した鍵はキーチェーンのついていない、裸の鍵で、ラベルが貼りついていた。

イタンシャ

ガチャリと開けたドアの先には、ダンボールが無造作に積まれていた。
声が掠れて、言葉が出ない。どうしても、言えない。言うことができない。だって、ここは私の世界じゃない。

「異端者」

はっとして顔をあげる。ちがう。異端者だと思っているのは世界じゃない。私だ。私が私を、異端者だと思っているのだ。トレンチコートを無造作に椅子にかけ、スリッパを放り出して私はロフトへとあがる。赤しまのカバーをかけられたまくらに顔をうずめて、両手をその下に差し入れた。ひんやりとしたガーゼの感触。体温と混ざり合って、溶けていく。鼻を啜りながら、何度も何度もまくらに頬をこすりつけた。

ここは、知らない部屋なんかじゃない。
ここは、私の、私の新しい世界。

くぐもった声で呟いた。

ただいま

ただいま

只今より、私はこの世界の住民になります。

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