人生は思考するものにとっては喜劇であり、感情に流されるものにとっては悲劇である

これも2500年程前の医学の父ヒポクラテスの言葉です。

その頃から三位一体(心、身、食)のバランスの大切さがわかっていたのですね。

私がそれを痛感したのが、1人目の息子を出産して病気をした頃でした。

44時間という難産に始まり、毎晩の夜泣きに慣れない育児でヘトヘトになってしまった1年後、原因不明の目眩で倒れてしまいました。

朝目覚めると天井がグルグル回り、落ち着いたと思ったら船酔いのような吐き気が襲い、トイレに這って行くと息子が後からハイハイで嬉しそうについて、遊んでるんじゃないんだって、と言ったのを覚えてます。

その後病院で診察してもらうが、その当時は病名がハッキリしなくて、耳鼻科→婦人科など回され、自立神経失調症というカッコいい名前が付けられました。

でもその後も急に症状が出たり日常生活にも支障をきたすことになり、母から某大学病院の目眩科という大先生を紹介してもらい受診することになりました。

ところが、私が原因を知りたい、根本から治したいと思ってお話を聞きに行ったのに、症状が出たら抑え方を教えるという大先生のやり方に大きなズレがあって、思ったことをハッキリ言ってしまい、後から母にこっぴどく叱られました。

そして何にすがったらいいのかわからなくなった私は、ふらっと入った本屋で様々な健康に関する本を見つけ読みあさるのでした。

こんな何十年も付き合ってきた自分自身の身体がこんなになってたんだ!って知ることができたり、段々と病気の原因もわかってきたような気付きを得ることが出来たのです。

特に心と体が密接に関わっていることが今回の病気の原因であることは明確で、身体が悲鳴をあげてくれたことで心の痛みが理解できたんだ、って解釈出来るようになりました。

子育てする前はずっと企業の看板背負って、大企業のお偉いさん相手に仕事をしていたせいか、責任や重圧を抱えていた意識のまま育児突入しちゃって、ちゃんと育児をしなきゃいけないっていう責任感と、まだ人にもなってないような人間をも扱えない自分を追い詰めていたのかもしれません。

その時やっと、病院という所は、医者という人は病気を治してくれるのではなく知識や技術を貸してくれる協力者であって、あくまでも治すのは自分自身だと気付いたのです。

私はその頃から思考の意識が大きく変わりました。

とは言っても、変わったのは意識だけでなかなか行動まで変えられないのが現実。
沢山の実体験のお勉強(失敗とも言う)を通して少しずつ思考が変わっていった、というより変えていく努力をしました。

私はどちらかというと『思考』人間ですが、『感情』が上回って思考をコントロールできなくなることもあります。

例えば、信頼して好きな人から何か勧められても、それが自分に必要か不要か、損得も考えて決めるので、この人だから♡という無条件で物事を決定することはあまりありません。

かといって、思考より感情が昂ることもあって、ついつい衝動買いや行動をしてしまい反省することも。

なのである時期、そんな思考と感情について色々な形でお金と時間を費やして自己投資した数年間がありました。

多くのアスリートや経営者も、実力だけではなくこういう精神面を重要視してコーチングを受けていることも知り、今振り返ってみたらその時学んだ事は色々な場面で役立っています。

そんな中でも特に注目したのは、何事もマイナス面から見たり、それを怒りの感情にしやすい人は、やはり病気(特に癌)になりやすく、悪い出来事も起こりやすいという実証でした。

病気にならないようにとか
人に騙されないようにとか
天候や事故も心配してもどうしようもないことも
たしかに心配する人ほどその通りになってるのです。

一見『〜しないように』と否定を望んでるようですが、その前に『そうなったこと』を想像してしまってるんです。
それが現実になってしまうということを、その時イギリスで学んだ科学者から聞きました。

でも培われた思考はなかなか治るものではなく、自分の思考の癖に気付くことすら難しいのが現実。

私もまだ自分を苦しめる思考へ感情に持っていかれることがあります。

それはまるで蟻の巣に入って行くように、出口のない暗い通路を彷徨うのですが、一旦そこから出て違う視野で見ると心が整うことも覚えました。

健康でいたいから。
幸せでいたいから。
それは大昔から変わってないのです。

『人生は思考するものにとっては喜劇であり
感情に流されるものにとっては悲劇である』

これからの時代、感性はもっと豊かになっていくからこそ、感情が荒れてしまった時、一旦その場や人から離れて自然の中に身を置いたりして心の整理をしていきたいですね。


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