見出し画像

深夜にパスタを茹でる

「0655」というNHKの朝番組を知っているだろうか。私は小学生の頃、この番組が大好きで、毎朝の早起きのモチベーションにしていた。
 この番組にはオープニングソングとエンディングソングがあり、エンディングソングは毎回変わる。私は『アルデンテ』という曲が1番好きで、今でも口ずさめるほどだ。この曲はパスタの茹で時間を歌にしたもので、欧米風の女性2人が民族的なダンスを踊っているのをバックに、優しい男性の声で歌が流れている。
 幼き日の私は、「0655」が観れるほど早起きだった。世間一般的には早くはないのかもしれない。しかし、私にとって6時55分という時間は、早起きの幸福感をギリギリ得られるデッドラインのような物だった。小学校を卒業し、中学生になる頃には、0655は私の起床時間として定着していた。

 自分が賢いと自覚したのは、それはそれは幼い時だった。幼い頃から、読書家で頭のいい父と母を持ち、たくさんの文字に囲まれた環境の中で、「君は聡明だ」と言われる日々。私は賢い子供だったと、父は今でも私に言う。両親の趣味であった居酒屋巡りに幼い頃から同行しても、大人のような言葉遣いと立ち振る舞いで皆を驚かせていたんだよ、と。そして、それは今でもお前の中にある。磨けばお前はなんでもできる。父は繰り返しそう言っていた。
 幼い頃から、私は周りと話が合わなかった、らしい。両親の話すエピソードにも、保育園の連絡ノートの内容にも、「お友達と話していて〜」と言ったような可愛らしい話は少なく、どれも「先生に昨日あったことを教えてくれました」「知らない雑学を教えてくれました」といったような、大人を相手にした会話ばかりであった。
 小学校に入っても、なかなか周りと話が合わなかった。周りがボールを投げ合って騒いでいたり、怪我をして泣いているのを、愚かだ、とさえ思った。図書館の絵本を読むのを格好悪いと思い、周りがかいけつゾロリを読んでいるのに交わりたくなくて、1ヶ月かけて宇治拾遺物語を現代語で読んだりしていた。(その事実を先生が周囲に話したところ、宇治拾遺物語は貸出1ヶ月待ちになったという。)
 とにかくリーダーをやるのが好きで、班長、代表、なれるものは全てなった。私が統括をしたい、というよりも、周りの人間のようなレベルの人間に統括されたくない、と言う思いが強かったのだと思う。私の考え方は、この頃から少しずつ凸を帯びてきた。


 頭のいい人間になりたかった。まず初めに興味を持ったのは伝記だった。父親は、仕事帰りによく本を買い与えてくれていた。小学生の時、父親は漫画で読める伝記を私に買い与えた。私はそのシリーズに夢中になり、今では本棚に入りきらないほどの伝記がある。科学から、文学から、政治から、とにかくいろんな人の伝記を読んでいた。ただなぜか、日本史だけは読む気が起きず、日本の歴史は今でも疎い。(父がその期間にあまり日本の歴史の本を買い与えなかったこともあるのかもしれない。)アインシュタイン、マリー・キュリー、ダイアナ妃、与謝野晶子、杉原千畝、宮沢賢治、マリー・アントワネット、レオナルド・ダ・ヴィンチ…読んだ人物の漫画は多岐にわたるが、私はある一部分だけ、繰り返して読む癖があった。

「その人物が息を引き取る瞬間」の描写である。

 いつしかその描写がない本は買わなくなって、いつの間にか伝記漫画自体を読まなくなってしまった。しかしながら、その人物が最後に何を言って、どんな人に囲まれて、どんな死に様だったのかを知ることは、自分にとってとても必要な情報だと、無意識に思っていたのかもしれない。私が、人間には必ず「死」が伴うと意識し始めたのは、この伝記漫画を読み始めたときであった。

 次に興味を持ったのは「実験対決」という、韓国の子供向けサイエンス漫画であった。これに関しては小学校3年生から数年間ハマり続け、理解できないところを調べるために実験事典を使い(この本は小学生向けとは思えないくらい内容が高度で、下手をすれば大学生でも文系であれば理解に苦しむところが多々あるだろう)、理解できると嬉しさのあまりその知識を学校の先生にひけらかすという、嫌味な小学生へと成長していった。そのシリーズは、現在読んでこそいないものの、あの人物とあの人物のライバル関係はどうなったのだろう、あの恋模様はどうなったのだろう、くらいには時々思いだし、懐かしい気持ちになっている。この本のおかげで、私は誕生日に顕微鏡をねだり、東急ハンズの理化学用品コーナーに1時間以上滞在し、手にした液体全てをリトマス紙に付けるような、中途半端に科学の知識がある困った子供になってしまった。学校の二分の一成人式で、「ノーベル賞をとって次世代のマリー・キュリーと呼ばれてみせる」と高らかに宣誓したことは、今でも同級生の間で伝説になっている。そして今、ノーベル賞を取る気などさらさらない、と宣誓しておきたい。

 東京大学の理学部に進学することをほぼ決定事項のようにほざいていた私は住んでいる地域で一番東大に近い偏差値を誇る中高一貫校に進学した。

 中学時代はひたすらに勉強をしていた。おかげで成績は良好で、国立大学も視野に入れられると、担任団は期待の視線を私に向けていた。だから私は頑張ろうと思えたし、実際、授業や宿題で頼ってもらえるのは嬉しかった。
「勉強ができるの羨ましいよ、頼りにしてる。」
クラスメイトからのその言葉が生き甲斐になっていた。
 しかしながら、進学校であるはずの学校でなぜ私が成績良好だったのか、私はずっと分からずにいた。初めて成績表が返却されたとき、思わぬ高い順位に声が出た。皆がなぜそんなに成績が悪いのか、本気で分からなかった。でもそんなことを言ったら猛バッシングを喰らうだろう。そう思って心に留めておいた。私は当たり前に東大を目指すのだろうと、私も、周囲も、思っていた。

 中学3年生のある朝、学校に行こうと体を起こそうとした瞬間だった。なぜだか分からないが、体が動かなくなっていた。成績良好の私にとって、勉強が好きな私にとって楽しみであるはずの場所に、初めて「行きたくない」と思った。何が原因だったのだろうか、今でもよくわかっていない。ただ、「できない」「行きたくない」と言う気持ちは日に日に強くなり、気づけば一週間学校を休んでいた。あんなに完璧に進んでいたはずの人生が壊れていくのを感じ、恐怖に震えて布団にくるまることしかできなかった。

人生で「死にたい」と思ったのはこの時が初めてだった。

 幸い、と言っていいのかは分からないが、世間はこのタイミングでコロナ禍となり、学校には行かなくても良くなった。次に同級生と顔を合わせたのは高校一年生の夏であった。その時から、少しずつ周囲の態度は変わっていった。
 しばらく見ない間に成績がどんどん落ちている私を嘲笑する声や、SNSで暗い投稿をしてしまった私を揶揄するような声が目立ち始めたのである。いつしか集合写真には写らなくなり、お揃いのものは私を除いて作られ、体育祭のTシャツには「学校来いよ」と書かれる始末であった。ダンスの時間に私の時だけあからさまに湧き上がらない歓声や、私をおちょくるためにSNSの捨てアカウントが作られたことを、今更いじめと言ったって仕方がないのだが、あの頃の同年代と私は本当に反りが合わなかったのだと思う。当然の如く学校には行けなくなり、毎日「死にたい」と思うようになって、医師からは双極性気分障害という診断が下された。

 今死んだら伝説になって伝記になるかな、賢すぎる女子高生の死として本になるかしら、ならないか、などと思いながら布団に横たわるだけの日々だった。死ぬ時はどうやって死のうかと、毎日考えて、大ニュースになるような、幼い子が見たら心に残るような死に方を妄想して、軽く数千回は脳内で死んでいると思う。

 ここまでの私の話を、読者の皆さんは「可哀想だと言われたいのだな」と思って読んでいるのかもしれない。実際そうである。可哀想だと言われたいから文章にしている。
 あの頃、誰も可哀想だなんて言ってくれなかったのだから。

 学校を中退して通信制高校に転校した。毎日、明日が来ないでほしい、死にたい、と思いながら朝方まで起きる日々を繰り返していた。どうやったら明日が来ないのか、新しい日常が始まらないかをものすごく真剣に考えていた。
 朝方いつものように眠れなくてテレビをつけると、幼い頃観ていた「朝を知らせる番組」のオープニングが流れていた。テレビ右下の時刻を見る、「あの数字」。リビングに、掛け声が響いた。

「ゼッロロックゴーゴー!!!!!」

どん、と胸に大きく誰かがのしかかったような気がしてふらりと体が揺れる。画面では陽気な音楽と共にキャラクターが踊っている。母と一緒にこれを真似して踊っていたことを思い出した。

朝が来た 朝が来た 今日も朝が来た
昼が来る 昼が来る その次昼が来る
地球が半分回りゃ その次夜が来る
もう半分回ったら 次の日だ

 なんでもできるギフテッドだった過去はそんな明るいメロディーと共に脳内を駆けずり回り、今の自分がどれほどの底辺なのかを囁いた。軽快な音楽に沸々と怒りと苛立ちが込み上げ、私は勢いよくテレビを消すとリモコンをソファに投げつけ、乱暴に出したコップで睡眠薬を服用し布団に入った。
 悔しかった。なぜだか分からないけどとにかく悔しくて、涙が込み上げた。痛いのも苦しいのも嫌いな私は、リストカットもオーバードーズもできないまま、ひたすらに自分を貶し、自分を内側から傷つけていった。痛いことしたら苦しいし血が出るし傷になるよ、と、そんなことを思う余裕すら、存在してしまうことが悔しかった。一定基準値以上の倫理観を持ち合わせている私の脳を破壊したい。そんなことを思っていたら凄まじい眠気は突然やってきて、私の主電源を強制的に止めた。

 昼になって、昨日の苦い記憶と共に眼が覚める。ああ、今日も「朝が来て」しまった。私はその記憶には目を向けないようにしながら、予備校への準備を始める。どうしても大学に行きたかった私は、予備校に通い始めていた。
 しかしそれも上手くはいかず、浪人してかなり偏差値の低い学校に入った。そして、その大学すらも体調と噛み合わず、半年で辞めようとしている。なぜここに関する記述が薄いのか。思い出したくないからだ。私は全然東大生ではないし、ノーベル賞は取れないし、ギフテッドではない。この頃の記録は書き留めたくもない。もう私には何もできない、と思っていた。

 それでも私は生きているので、人間の欲求には抗えない。深夜にお腹が空いた。パスタがあったので自分で適当にソースを作って茹でることにした。久々にパスタを茹でるな、どうやって茹でるんだっけ、などと考えながらパッケージの裏面を読む。そんな時、私はパスタの茹で方を知っているんじゃないか、と頭に一つの単語が浮かんだ。

「アルデンテ」

不思議とその先の歌詞もスラスラと出てくる。もう10年も前の曲なのに。口ずさみながら、私はパスタを茹で始めた。

アルデンテ アルデンテ
パスタの魂 アルデンテ
アルデンテ アルデンテ
パスタの魂 アルデンテ

軽快に口ずさんでいると、なぜだか少しずつ心が晴れていくのがわかる。

ちょーっと芯が残っている方が
ちょーど美味しい アルデンテ
鍋は大きく 塩は多めに
吹きこぼれには 要注意

 口ずさみながら作っているとそんな注意も出てきた。危ない危ない。吹きこぼれるところでした。
 作ったパスタを一口啜ってみる。柔らかい中にも芯があって、もっちりと歯で切れた。
 芯があって、しかしながらどんなソースとも合うアルデンテは、私のなるべき像なのかもしれない、と深夜2時にパスタを食べながら思う。もう少し、柔軟に生きていれば何か変わったのかもしれないな。そう思いながらもう一口パスタを食べた。

 明日は無理だけど、明後日くらいの0655は見てもいいかもしれない、そう思って食器を片付けた。
 パスタの魂、私の生き方、アルデンテ。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?