3.11備忘録

震災体験についての記録。
もし閲覧する方がいたらご注意ください。

数日前
震度5程度の、少し大きな地震があった。大した被害もなく、『もしかしてこれが来るって言われてる震災?』と母と笑った。もし震災が来たらどうしよう、と話す私に、母は『我が家まで津波が来たらこの町は全滅しちゃうよ』と笑って言った。

2011.3.11 午前
この日の午前中は、学校の体育館の落成式だった。
それまでの体育館は古ぼけた木造で隙間風も多く、寒い冬の時期、みんなが新しい体育館の完成を心待ちにしていた。

初めて入る、紅白の幕が張られた体育館は明るい木目調で綺麗な広いギャラリーがあり、そわそわした気持ちで友達とおしゃべりをしていたのを覚えている。
落成式の最中、同級生が1人貧血か何かで倒れ、学校を早退した。そんな同級生を心配しつつ、真新しい床を鳴らして歩く音が明るい体育館に響いていた。

14:00 体育館
午後は卒業式の全校リハーサルが行われた。教室から椅子を持って行き、緑のシートが敷かれた体育館に並べる。私はちょうど列の端で、前に並ぶ3年生の姿を見ながらあくびを噛み、みんなで合唱曲を歌った。

14:46 体育館
地面が揺れた。地震に慣れている私たちは、すぐに自分の椅子の下に潜り込む。つい先日も震度4-5くらいの地震があったばかりだった。
学校で起こる非日常に同級生たちはわくわくしていて、椅子の下で近くの友人と『大きいね!』と半笑いでお喋りをしていた。

揺れは治まるどころか、ますます大きくなっていく。いくらなんでも長すぎる。さっきまで笑っていた同級生が、一際大きな揺れに悲鳴をあげた。私はどきどきと鳴る心臓の音を聞きながら、黙って椅子にしがみついていた。見えないけれど、上では体育館の大きな灯りがガシャガシャと音を立てていたのだと思う。あれが落ちてきたら私は死ぬんだろうか、と思った。

15:00頃? 校庭
ようやく揺れが治まり、恐る恐る椅子から顔を出す。綺麗な体育館は綺麗なままだった。先生の指示で、上履きのまま体育館から外に出た。

体育館から校庭に続く道は大きな亀裂が入っていた。何かとんでもないことが起きたんだ、という漠然とした不安があった。
3月の寒空の下だったはずだが、寒いと感じた記憶はない。ただ、家族を心配する同級生の背中を撫でて、大丈夫と声をかけていたことを覚えている。

⁇(まだ日があった時間) 校庭
続々と避難者たちが学校の校庭に集まってくる。私の学校は小高い山の上にあり、地域の1番メインの避難場所として認知されていた。

列になって身を寄せ合っていたが先生からの指示はなく、『いつまでこうしていればいいんだろう』『こっそり学校に持ち込んでいた携帯を取りに行きたい』同級生たちと、何故だか小声で話をしていた。

そんな時、学校の立つ山の端、林の奥の町が見渡せる場所にこっそりと行っていたらしい生徒から、声が上がった。『(海辺に立つ5-6階建ての建物)が見えなくなった!』

よく、津波の音は「何にも形容し難い音」と表現される。が、私はあまりはっきり覚えていない。ただ次第に迫ってくる土埃と、『市役所が見えなくなった』『見て見て』『こっちに来い』『坂の下まで来てる』同級生だか地域の人だか分からないが、そんなことを誰かが話していた。私は、半泣きで家族の心配を口にする同級生の背中を撫で、大丈夫、と声をかけていた。絶対に私は見には行かないぞ、と思った。

そうこうしている間に土埃は校庭にも到達した。なんだか分からないが、波が坂の上、学校まで来てしまったら私はここで死ぬんだろうか、思った。溺死だけは嫌だよな、と考えたが現実感はなく、ただ漠然とした恐怖心だけがあった。

⁇(日が落ちてきた頃) 体育館
波は坂の下で止まったらしい。誰かがそんな話をしていた気がする。結局私はずっと同級生の背中を撫でていた。

校庭は避難者で溢れかえり、生徒たちの列ももはやバラバラだった。誰かの指示で体育館に戻る。体育館の中も避難者でいっぱいで、私たち生徒は端で何人かのグループになり、暗幕だか毛布だかよく分からないものにみんなで包まって暖をとっていた。
その頃にはすでに生徒の人数はかなり減っていたので、気づかないうちに家族が迎えにきた生徒たちは帰宅していたのだと思う。

どんな時だったか、ふと周りを見た時に、午前中の落成式で張られていた紅白の幕がそのままなことに気がついた。めでたい幕の下で、たくさんの避難者が緑のシートの上に布を敷き、座り込んでいる。言葉では言い表せないが、思わず笑ってしまったことを覚えている。

⁇(日が落ちた頃) 教室
同じ布で暖をとっていた同級生たちも、誰かが迎えにきては帰って行く。人数は順調に減っていき、残るは10数人程度になった。
体育館はますます混み合って来たので、2階にある自分たちの教室に戻る。男女で2クラスに分かれ、それぞれに先生が付いた。毛布は避難者に配ったらしく、私たちは暗幕に包まり、蝋燭の火を囲んだ。
後ろに下げた机から自分の荷物を出すと、ちょうどこの日持って来ていた本があった。タイトルは『ハッピーエンドにさよならを』…いやいや、流石に縁起悪すぎだろ⁉︎と思ったが、同級生たちには黙って鞄の中に仕舞った。

教室の窓からは見たことがないほど綺麗な星空があった。本当に綺麗だった。
遠くにはオレンジの光が見えた。隣市が燃えているようだった。津波なのに燃えてるのか。災害の時は火事になる、っていうのは本当だったんだ、と思った。あの真っ暗で美しい星空と火事の炎は、今でもはっきりと覚えている。

教室にいる間も地震は止まず、もはや震度いくつだか分からない揺れが10-15分おきに来る。その度に飛び起きて教室の扉を開けるのが私たちの仕事だった。全く寝てはいないが、どんな話をしたのかも覚えていない。ただ、みんなで蝋燭の火を囲んでいる時間は、あの体育館にいる時よりもよっぽど静かで心穏やかで、あの避難者たちに比べて私たちは恵まれているな、と思った。

トイレは1,2回は流せたが、あっという間に水が無くなった。蝋燭を持って、とんでもない異臭のするトイレで用を足し、教室でただ何かを待っていた。

3/12? 2:00ごろ⁇  教室
ガラ、と教室の扉が開くと、そこには父と母がいた。安堵の気持ち、というよりは、やっと来た、という思いだった。両親は仕事に出ていたし、きっと仕事場は流されていることは分かっていたのだと思う。が、私は口では不安を言いつつ、両親が迎えにこない可能性は全く考えていなかった。

『よかった』
『〇〇(私の名前)は無事だと思ってた』
そういう両親の顔はほっとしつつも固かった。

『お姉ちゃんがまだ見つかってないの』

姉は、今日は1人で家にいたはずだった。姉は地震があっても慣れっこで、いつも私に『大丈夫だよ』と言っていた。避難、したんだろうか。そんな話を聞いて、姉がもしかしたら津波に流され死んでいるのかもしれない、と漠然と理解はしたが、やはり実感はなかった。

3/12 2:00ごろ⁇  体育館
両親に連れられ、一度体育館まで降りた。そこは何もかもがごちゃ混ぜで、どこかで誰かが再会を喜ぶ声がして、どこかで誰かが行方不明者を探し歩き、泣いていた。

布をもらい床に敷いて座り、ちゃんと両親と向き合った時、母が私を見て泣きながら笑って言った。
『私たち、本当に一文なしになっちゃったね』
あの時の母の顔と言葉は、たぶん一生忘れることはないのだと思う。

そのまま少し過ごした後、『お姉ちゃん探してくる』と言って両親は別の避難所へ歩いて行った。後から聞いた話によれば、土地勘を頼りに山を登り、避難所を渡り歩いたらしい。

私は教室に戻り、ただただ朝が来るのを待っていた。

3/12 5:30ごろ⁇  教室
人生で1番長い夜が明けた。近くのコンビニの方が、避難者全員分はないからせめて生徒たちだけでも、と余ったお弁当を届けてくれた。割り箸も何もなく、手掴みで4つのお弁当をみんなで分け合って食べた。なんて原始的なんだろうと思った。味は全く思い出せないけれど、感謝の気持ちだけは強くあった。

3/12 午前中 教室
両親が戻ってきた。今度は笑顔で、隣には姉がいた。足は膝下まで濡れていた。
『瓦礫の上を歩いているところを見つけた』
と母は言った。心から、よかった、と思った。

姉は避難せず家にいたところ、近所の人に声をかけられ着の身着のまま出てきたらしい。元々避難所として指定されていたところに行こうとした途中、市役所から「津波が来てる」と声をかけられより高い市役所に登ったそうだ。
結果、元々避難所に指定されていたところは完全に津波に飲まれ、生存者はいない。地震後いの一番にあそこに避難していた人は、恐らく全員亡くなっている。少し遅れて避難した方が生き残った、というのはなんとも皮肉な話だと思う。

姉はそのまま市役所を駆け上がったが、津波は役所の屋上まで到達した。市役所に避難した人たちは、屋上の更に上(学校によくあるタンクなんかが設置されているところ)まで登ってようやく助かったらしい。津波は何度も押し寄せて、その度に今度はここまで登ってくるのではと恐怖し、誰がいるとも知らないところで用を足し…。地獄のような時間だった、と姉は言った。ソナーポケットの『100回の後悔』がずっと頭の中に流れていた、と聞いてから、姉との間ではそれがすっかり震災ソングになっている。

いつも飄々としている姉はあの日以降、少しでも地震があればすぐに避難、逃げなきゃ、と言うようになった。

3/12 昼〜 体育館
姉と合流してからのことは、正直あまり覚えていない。炊き出しのおにぎりを家族で分け合い、その日のうちか数日間か体育館で過ごした後、親戚が車を貸してくれ、そのまま山の方にある祖母の家に向かった。

向かう途中、当然いつも通っている川沿いの道は使えず、知らない山道を進んでいたところ、ちょうど分かれ道のところで人が立ち、誘導してくれていた。道は真っ暗で、本当に頭が下がる思いだった。

周囲はもちろん電気がついている家など一つもなく、不安の中なんとか辿り着いた祖母の家は、ちゃんとそこに建っていた。とても古い造りのため、「もしかしたら地震で倒壊しているのでは」とたぶんみんなが思って、でも口には出さなかった。着いた時、誰より両親が安堵していることが子どもながらに分かった。

祖母宅での避難生活
そこからしばらく、祖母の家で避難生活を送った。古い家で、市水道は止まっていたが川の水を引いており、煮沸して飲み水にした。ガスは勿体無いから、少しの料理にだけ使い、自分たちで木屑を集めて火を起こした。
風呂は五右衛門風呂で、毎朝日の出と共に起きては薪を割り、火を起こして風呂に入り、飯ごう炊飯でご飯を食べた。農家だったため米には困ることがなく、直火で作るご飯は、おこげができてとても美味しかった。
日中は歩いて近くのコミセンに行き、支援物資をもらって帰宅した。最初のころは何時間も歩いて商店に行ったとこもあったが、腐りかけの納豆と豆腐しかなかった。車を使って内陸の市まで行った時は、辛うじて店の電気の一部がついていることに感動したが、残っている商品は電池だけだった。ある分を買い、ガソリンがもったいない、と以降は行かなかった。電気がついていることにとても安心を感じたのと同時に、悔しいと思った。

そうして夜は石炭で暖をとり、火が落ちたら蝋燭の灯りで少し話した後、寝る。そんな非常に健康的な生活を送っていた。
支援物資のカンパンやぶどうパンやスパムの缶詰を毎日飽きるほど食べた。
そんな生活なものだから、バカみたいな話だが、"震災太り"をした。たぶんあの頃が1番むちむちしていたと思う。

避難生活の思い出
あの生活の中で1番覚えているのは、3/12だか13だかに出された新聞記事だ。今思えばどうやって出版したんだろう、と思うが、何より貴重な情報源だった。
その記事には、津波に流される車の写真がドアップで映っていた。ナンバーは波に飲まれて見えないが、一目で「父の車だ」と分かった。父の職場も完全に津波に飲まれており、当然車は置いて避難した。「こいつの最後の勇姿だね」とみんなで笑った。

それから、3/11にたまたま内陸に行っていて難を逃れた兄が数週間後?に祖母宅に戻ってきた。寝る時、兄が「電池がもったいないから一曲だけ」と聞かせてくれたのは、当時おそらく震災支援で無料配信してくれていたGReeeeNの「Green boys」という曲だった。あの曲に救われた日々があった。

数日後の町
数日後、内陸に住む親戚が訪ねてきた。食べ物やら衣服やらをたくさん持ってきてくれ、最終的には着てきた服ももらって帰らせた記憶がある。
滞在中、親戚の運転で久しぶりに町へ戻った。我が家は当然流されていることは分かっていたが、町は瓦礫で埋まり、家の跡地にすら行けなかった。実感が無く、住所へ行けば私の家だけでも建っているんじゃないか、とずっと思っていた。

母の職場は少し瓦礫を踏み越えれば様子を見に行ける場所にあった。「せめて車が見つかれば中の物だけでも回収できるんじゃないか」と話になり、親戚と両親、兄は瓦礫を踏み越えて母の職場へと歩いて行った。が、私は津波の到達ラインから一歩も踏み出せなかった。一歩でも進めば津波に飲まれて死んでしまうんじゃないか、と自分でもどうにもならない恐怖があった。みんなにもそっちに行かないで、死んじゃうよ、と言ったが親戚たちは『大丈夫』とズンズン進んで行った。あの時の恐怖もまた、一生忘れることはないと思う。結局私は泣きながら、みんなが帰ってくるのを近くの人に慰められながら待っていた。
あの踏みつけた瓦礫の下に、一体どれだけの遺体が転がっていたのだろう、と今でも思う。

その後、学校へ戻った。体育館は相変わらず避難者でごった返していたが、直後よりは整理されて、家族ごとの区画ができていた。
印象的だったのは、いつも綺麗にしている裕福なお家の友人が、ベタベタの髪で声をかけてきたことだ。服もあまり洗濯できていないだろうし、ベタベタしていたけれど、彼女はとても素敵な笑顔をしていた。人はこんなに強くなれるものなんだ、とその時感じた。

帰り際、同級生が『商店街は見に行かない方がいいよ』『まだ水が引いてなくて遺体がたくさん浮いてるから』と話していたのを覚えている。

1ヶ月後?  祖母宅
いつものように母と支援物資を取りに行き、帰宅すると、家にはテレビがついていた。CMが流れ、『ぽぽぽぽーん』とキャラクターが踊る。感動して、みんなで拍手して喜んだ。震災のことばかりを考えた生活の中、何気ない愉快な挨拶を届けてくれるあのキャラクターたち、ACジャパンには感謝してもしきれない。きっと被災していない地域にしてみれば嫌になる程聞いて文句もあっただろうが、少なくとも私たちにとっては忘れられない震災の前向きな思い出だ。『ぽぽぽぽーん』を聞くと震災を思い出す、と嫌厭する人もいるし、私もドキッとはするけれど、あれは初めての明るい知らせだった。あのCMは今でも大好きで心に残っている。

TVでは、見たこともない映像が流れ、初めてこの地震が「大震災」と全国で取り上げられていることを知った。それだけの事態なのだ、ということをそこで初めて実感したように思う。

1ヶ月も電気の無い生活、今考えれば信じられないが、思い返せばあっという間だった。あの時が人生で1番、「生きる、生活している」ことを感じる暮らしだったように思う。

2011.6  仮設住宅
震災から3ヶ月後、仮設住宅の抽選に当選し、ようやっと祖母宅を出ることになった。
家族5人暮らし、4畳程度の部屋が3部屋とキッチン、風呂場だけがあり、扉は無くアコーディオンで仕切るだけ。プライバシーもクソもない、今思えば劣悪な住環境だったが、当時の私たちに選択肢はなかった。
そこから約7年間、仮設住宅で暮らした。

ちなみに祖母宅を後日診てもらったところ、「全壊」認定を受けた。地震で柱が歪み、いつ倒壊してもおかしくない状況だったという。毎日15分おきくらいに余震が起きていた当時、あの家が倒壊していたら私は死んでいたんだろうか、と思う。

仮設生活もまたいろんなことがあったが、割愛。

学校生活
数ヶ月後、学校が再開した。とはいえ学校はこの地域最大の避難所で、体育館には大勢の避難者が生活し、保健室は臨時診療所になり、音楽室は子どもたちの遊び場で、多目的室では妊婦と乳幼児たちが生活していた。一階の玄関ホールには、行方不明者の捜索を願う手書きのメモが所狭しと貼られていた。
『一歩教室を出れば公共の場』と先生からは何度も言われ、事実その通りだった。授業を受けながら廊下では避難者たちが生活し、生徒もまた多くが体育館で避難生活をしており、「忘れ物をしたから体育館に帰る」なんてことも日常茶飯事だった。今思えば異常な学校生活だったが、人間は何でも適応できるもので、当時はそれが当然だと思っていた。

再開から数日後、亡くなった同級生のお別れ会が行われた。1人はとても元気な子で、たまたまその日熱を上げて学校を休んでいた。遠く離れた場所で後日遺体が見つかった、と人づてに聞いた。遺族の泣き叫ぶ声が響く中、粛々と死を悼んだ。

当時、1番ショックだった出来事は、震災から2年後のある日、友達と勉強していた時だった。
当時たまたま支援に来ていた大学生に勉強を教えてもらっている時、家族の話になった。何人兄弟なの?と聞かれ、友達は『ひとりっ子です』と答えた。
私は、その子に姉がいるのを知っていた。が、震災で姉を亡くしたことをその時に知った。その友達とは毎日一緒にいる仲で、今の今までその事実を知らなかったことにとてもショックを受けた。友達だからこそ聞けなかったことがたくさんあった。情けない、と思った。

2014年 秋
とあるきっかけで、被災した学生支援をしている団体の活動に参加したことがある。
そのプログラムの一つとして、「体験共有」があった。時間無制限で、グループで自由にそれぞれの体験を話してください、という内容だった。

そこで初めて震災体験を語って、初めて涙が出た。
それまで、震災体験を辛い、と感じたことはあまり無かった。だって周りを見れば誰もが被災者で、「家族がみんな生きてたから」家が流されたことなんて些細なことだと本気で思っていた。当然震災体験を語る機会もなかった。
でもそこで思い返して初めて、自分があの体験を辛いと感じていたことを知った。「周りに比べれば自分の体験なんて大したことない」というのが、実はそうではないらしいと気づいたのはそこが初めてだった。その日はみんなで泣き通して寝た。

震災から3年半、この時やっと、自分の震災体験を受け止めることができたのだと思う。

大学生活
県外の遠方の大学に進学した。出身地を話せば、みんな知っていることに驚いた。遠い北の地で起きた震災など、当事者以外の若者たちはそこまで意識しないだろうと思ったが、東日本大震災は外から見てもそれだけ大きな災害だったらしい、と知った。

教養の講義の中で、栃木県出身の講師が震災体験を話してくれた回があった。
「当時は被災3県に支援が集中し、それは当然必要なものだった」「けれど、被災地の真ん中で無くとも地震で家で生活できなくなり、ライフラインが途絶え苦しんでいた人たちはたくさんいたんだ」
要約すればそんな話だった。

私はそれを聞いて、当時を思い出すと同時に恥ずかしかった。自分のことで手一杯で、福島の原発ですら「家財が残っているだけいいじゃないか」と思う時があった。
今思えば、帰る家がそこにあるのに戻れない苦しみはどれだけかと思う。綺麗さっぱり流されてしまった分、私たちには選択肢が無かったが、そうではない人たちも同じように違う苦しみを抱えていたんだとその時に知った。

当時隣に座っていた男子学生くんは、隣の学生が急に号泣してびっくりしたと思う。すまんかった。

2022年
「すずめの戸締り」を見た。
一切の前情報なくワクワクして見に行って、途中で後悔した。今は観てよかった、と思う。

映画自体はとても良かったのは大前提。
だが、描写があまりにもリアルだった。瓦礫まみれの建物の上に乗った船を、私は実物を見たことがある。北上する過程で通った道は、他の人にはただの草原にしか見えなくとも「ここは私の地元だ」と確信するシーンがあった。そして最終目的地もあそこだ、と分かった。
地元で映画を見たので、あの映画館にはきっと、本当にあそこが出身の人もいただろう。一旦どんな気持ちでこの映画を見てるんだ、誰か声を上げるんじゃないか、泣き出すんじゃないかとドキドキしたが、エンディングまで席を立つ人は居なかった。

あの映画で1番印象に残っているのは、病院でのすずめの台詞だ。うろ覚えだが、
「私が今生きているのは、ただ運が良かっただけ」
「それ以上でも以下でもない」
その通りだ、と思った。

後日、友人とご飯に行った時に話をした。
その子は幼馴染で、「観ているのが辛かった、映画は良かったけどもう2度と観れない」言った。
だけど芹澤朋也っていい男で。それはそう。そんな話をした。観に行けないけど芹澤朋也物語だけはください


これは備忘録で、ふとした時に追加していきたい。

これだけ忘れないでいたいのは、
・もし震災が1時間遅かったら、きっと家と共に流されて死んでいた
・もし震災が1日前だったら、きっと古い体育館で生き埋めになっていた
・もし余震がもっと強ければ、きっと祖母宅で生き埋めになっていた

たくさんのもしもをすり抜けて、今私は生きている。
それだけは、どんなに歳を取っても忘れないでいたい。

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