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底稲元住民・緑川さんインタビュー


●1.イントロダクション

 2012年8月13日。朝早くに徳島を出てバスで名古屋に入った。レンタカーを借りて、恵那、中津川と抜け一時間半くらいかけて長野県の飯田に入ると、もうとっぷりと日は暮れていた。今回はなぜかキャラバンに出る前からやたらと気が重かった。直前に読んでいた、沢木耕太郎の『イルカと墜落』という本に影響されていのだろうか、何をするにも「42」という数字がやたらに目についた。月の頭に痛風の発作が出て、出発の直前まで足がパンパンに腫れ上がってしまい靴を履くことすらままならなかった事もある。生後八ヶ月に過ぎない長男との別離にも、いつになく後ろ髪を強く引かれた。
 ビジネスホテルのロビーで、制作の荒川さんと合流。これから駅前の店で明日以降の撮影を案内してくれる事になっていた飯田市の役場の方と合流する事になっていた。指定された地点へと向かう道はやたら坂が多く勾配がきつい。丁度盂蘭盆の中日であるためか、行き過ぎる家々の門前にはどこも提灯が掲げられていた。
 店の前でその役場の方と合流し、高そうな料理屋に入る。我々は(荒川さん以外)貧乏隊員なため、値段に顔を見合わせながら勇気をだし、地元の名産だという馬刺し等を腹に入れた。そのまま一泊。

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 8月14日。翌朝、役場の方の車の後を追い(顔つなぎの役の済んだ荒川さんはここでお役御免)、飯田市内から約1時間程東南にある遠山郷(とおやまごう)へと向かった。遠山郷は天竜川の支流、遠山川に沿うようにして広がっている深い谷間に位置し、行政区分としては長野県飯田市南信濃と上村の一帯を指している。「信州の奥座敷」と呼ばれたり、日本秘境100選に選ばれたりするように、とても山深いところだ。
 中心部から更に少し北に向かい、つづら坂をくねくねと登っていったところに「下栗の里」と云う道の駅のような施設(標高約1000m)がある。ここで昼前の11時から、飯田市の副市長(当時)のインタビューをする事になっていた。

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 今(2020年)となってはなぜ副市長にインタビューしようと思ったのか忘れてしまったが、それだけ何を撮るか、誰に話を聞くかが掴めていなかったのだろう。地元のオバちゃんたちが切盛りしている「はんば亭」という蕎麦屋でやたらうまい蕎麦を副市長と食べ、そこから更に上に上がったところにある、なんでも凄い眺望が得られると云う、「天空の里ビューポイント」という所に案内してもらった。なるほど景色は凄かったが、昼時というのは撮影には一番つまらない時間であったため、どうせ明日またこの近辺で祭りを撮る事になっていたので、翌朝改めてここに来る事に決めた。(ちなみにそれで撮影した映像が、『産土』のオープニングでタイトル文字のバックで流れているものだ)ここの祭りのエピソードは、また次の投稿に譲りたい。

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ヒルに血を吸われながら撮影した景観

 手持ち無沙汰で宿に決めていた遠山温泉に戻り、この日はもうやる事がなにもないなあと暇を潰していると、温泉の支配人の方が「あんたらが興味を持っておられる底稲(そこいね)集落の住人を紹介できる」と突然紹介をもらい、すぐにその人に電話をして取材の了承をもらう。ほどなくして温泉のロビーにぬっと現れたのが、この緑川さんであった。盆休みだったので、久しぶりに家にいたとの事であった。

 底稲とは、遠山郷の北部と、泰阜村(やすおかむら)との境にある黒石岳の中腹・標高約1,000メートルに位置する場所にあった集落である。戦後の食糧不足解消のため、国が山林などを払い下げ、農地を開拓する政策を進めていた時期、開拓事業の適用を受け、昭和21年に18戸56人が入植した。

sokoine - バージョン 2

昭和30年(1951)当時の底稲集落の人々 

 交通の便が非常に悪く飲料水にも事欠くなど、生活基盤的な立地条件が劣悪だったため、昭和30年ごろから転出者が増えていった。昭和51年、行政による集落整備事業により、最後まで残った一家が山を下り、底稲は遂に廃村となった。その最後の一家の一人こそが、この緑川実男さんだったのである。そもそも取材を予定していなかったものなので、事前知識もなく、例によって出たとこ勝負で取材を敢行。一時間半程度で終わる。撮影初日にしては、面白い話がきけたなと思っていると、「まだ時間があるので上(底稲)に行ってみる?」と緑川さんは提案してくれた。
 「慣れない人が行くと危ないから、俺の車に乗りなよ」と促されるまま、僕が助手席、川口とルーファスが後ろにのって、一脚の上にカメラを載せて録画したままにした。

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 もの凄い山道をずんずんと上がっていく。少しでも運転を間違えれば、「Easy to Dance 」ならぬ「Easy to Die 」であろう。途中大きな落石がいくつも転がっているのを、慣れたハンドル捌きで次々にかわしていく。
 「映像やってる人ってグラフィックボードは何使ってるの?」と緑川さんが話しかけてきた。どうやら彼はパソコンマニアらしく、PCを自作するのが趣味なようであった。
 「俺も近いうちにCore2のi7にしたいのよね」とも彼は言った。場所と話題との落差に面食らった。暫くして「ここで到着です」と彼は言い、僕らは車を降りた。

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 文字通り、森に飲み込まれてしまったと云うこの場所で、木々の間に目を凝らすと、うっすらと家らしきものが幾つか見えてくる。ポツンと佇む廃墟と化した神社と、売られてしまったと云う神木の切り株。サルやシカ、クマが荒らしたと思われる瓶や缶、小さな生活用具等がそこら中に散らばっている。
 ここでの詳細は映像を見てもらうとして、以下ではロビーで伺ったインタビューをの全容を掲載することにする。
 緑川さんは現在は平地の集落に住み、土木業を営まれているのだと云うが、まだ年に数回は底稲の家に通われているのだと云う。底稲集落での当時の暮らしや、山を下りたことへの感慨などを伺った。
(以下、敬称略) 

●2. 開拓の末路

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——底稲で暮らす事になった来歴はどのようなものだったんですか?

緑川:うちはじいさんが福島の出身で、トンネルの仕事をしたり、桧皮葺(ひわだぶき)の職人をしていました。若い方は桧皮葺をご存知ないかと思うけど、ヒノキの皮で屋根を葺くんですよ。その関係でじいさんがこっちに流れてきて、ここへ住み着くと同時に、昭和21年頃に底稲の開拓に入ったということらしいんですけどね。

——ご先祖代々が、旧底稲集落にいらしたということではないのですね。

緑川:そうですね。じいさんは俺が中学1年生くらいに亡くなったのかな。だからいろいろ話を聞くことはなかったですね。もともと山へ入ったころは、開墾してたんで作物もなくて、猟師をしてうちの家族を養ってくれたと、親父から聞かされました。

あの山(底稲)に家は10軒しかないんだけど、当時は学校に通っとる子供が、15〜16人くらいいたんですよ。でも、道ができると外へ出ていっちゃう田舎の習性があって。うちが一番最後まで頑張ってましたけどね。

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昭和49年(1974)の写真、この時既に緑川家のみ底稲に暮らしていた。

——人口増加のために山の上の土地を開拓したと何かで読んだのですが、開拓する事のきっかけは、林業に従事するためだったのですか?

緑川:うちらはここに開拓組合ができる前に住み着いていたんですよね。それで開拓制度ができて国に土地を借りて、毎年お金を払って、後に自分のものになるっていうシステムで始まったんです。そのシステムで「開拓組合」って組織ができて、それから降りてきた人もおるし、残った人が10世帯っちゅうことですね。

 その山も十二分に割り振ってくれて、お金を一年にいくらって払いながら、結局自分のものになった。自分のものになった後、出ていく人はみな売ってしまったということなんですね。
 
——皮肉な話ですね。
 
緑川:そうですね。道ができて土地が自分のものになって、それを手放してそのお金で他所へ行くという。その当時で、一人あたり500万円くらいになったのかな。

——ひと山で、ですか?

緑川:いや、ひと山といっても、うちの土地が全部合わせて三町八反とかっていう世界なもんで、山は二町分(約2万平方メートル=約6000坪)ぐらいかな。そんなに広い山じゃないですよね。その山に広葉樹とか、針葉樹とか植林しとる山は、もうちょっと高く買ってくれたみたいなんですけどね。

 その当時はカヤを刈ってきて畑に敷いたりとか、ほとんどがそういう目的で使っていただけですから、植林っていうのはあんまりしてなかった。うちはじいさんが山に植林をしてたんで、結構いい木が残ってるんですよ。

——主にどういった木を植林されていたんでしょうか?

緑川:ヒノキがほとんどだね。ここの村木はスギなんだけど、じいさんの代にヒノキを植えたのかな。その辺りに県の補助で、カラマツとかそういうのも植えてましたけど、うちはほとんどヒノキかな。

 木を出せればね、ある程度伐り上げて、植林をして、山をきれいにしようと思うんだけど、出してくところもないもんで、なかなか思うようにいかないですよ。 

●3. 賑やかだった当時の暮らし

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——学校はどのように通われていたんですか?

緑川:バスも通らんとこだもんで、ずっと歩きだよね。

——子供が毎日歩きで……

緑川:日の短い時期だと帰り道が暗くなっちゃうんですね。だから懐中電気を持って通っていて。カバンの中に懐中電気を持ってる人つうのはあまりないことだって、学校でも有名になって。

——片道どれくらいかかったんですか?

緑川:小学生だったら2時間コースでしょうね。中学生になると、行きは下り道だもんで、40分くらいで駆け足で飛んでいって、帰りは競歩大会みたいな感じで、40〜50分くらいでうちに帰ってましたけどね。

 「関所」があるし、どうしても会話したりなんだりで時間がかかっちゃうもんでね。冬はすぐ暗くなるんで、なるべくまっすぐ帰るようにしてましたけどね。みんな「よく通ったなあ」と言うんだけど、家に帰らなご飯食べさせてくれんで。 それで通ってましたけどね。

——今でも家を残されていて、戻る事もあると聞きましたが。

緑川:ええ。今でも年に5〜6回は行ってますね。トタンにペンキを塗ったり、木の手入れをしたり。近所だった人はみな手放して、連絡も取れないような状況ですけどね。

——お祭りなどはされていたんでしょうか?

緑川:そういうのはほとんどなかったですね。以前にね信州大学で陶器が出るっつってね、なんていうの発掘みたいなした事が一回ありまして、まあ歴歴史のかなりあるお宮が一軒あるんですが、それは個人の持ち物で、部落の神社じゃかったので、お祭りってのは特になかったですね。

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集会所もないんで、責任者の家に集まって常会をやるということはしていました。今だと各自治会に一つ建物があるじゃないですか、そういうものは全然なくて、10軒の家とプラスお宮が一軒、そういう感じですね。

昔の写真を見ると結構良いところなんですけどね。こういう盆地みたいなね、まあいわゆる山肌にその扇子を広げたようなねイメージの山なんですよ。底稲だけはそんなに急じゃなくて、作物もいろいろ作ってましたね。

みなさんは「陸稲(おかぼ)」って知らないですよね? 陸稲ってのは、山の稲つって、水のいらない稲なんですよね。美味しくないんだけど、そういうの作ったりね。それから麦とか。そういうもの作ってましたよね、皆。何軒かは牛を飼いだしましてね。親父は結構そういうこと好きで、うちも飼いました。ほかにもリンゴ、ナシ、モモをやっていました。

当時はそんなに良い品種の果物がなくて、紅玉(こうぎょく)や国光(こっこう)など、真っ赤でちょっと磨くとつるつるに光る、酸味の強いリンゴなどをやっていました。桃は白桃、梨が20世紀のはしりですね。新聞紙で袋つくったり、よくやってましたけど。 

●4. 下山

——山から下りて移住されたのは、何年前ぐらいなんですか?

緑川:ぼくの娘が中学生くらいには山にほとんどいなかったんで、30年くらい前までですかね。

——山から下に移動されたのは、行政側から話があったんですか?

緑川:そうですね。年間にかかる道の管理費用の維持が大変で、昭和49年ごろに県の補助で団地が建てられて、集団移住のような感じでみんなが移り住んだんです。道路を作れるような地形じゃないとこに住んでた人や、地滑り地帯に住んでた人など、あちこちから集団移住してね。

 それで底稲に残った最後の一軒だったうちも、(51年に)移住したっていう形ですね。ぼくは中学を卒業して、町の学校へ行ったりなんだりで、底稲から出ていたんです。6年くらいして帰ってきたときには、山からみんなが降りていたという。

——そうなんですか。

緑川:徐々に一軒一軒抜けたってことだね。開拓をやめて、新しい家に住むために名古屋の方へ出てった人と、自分の親の家に戻った人と、二つパターンがあってね。

 その当時、開拓に行って、山で亡くなった人もおるっちゅうことで、結構年配のお年寄りもおったんですけどね。

——お父さまのお仕事は、主に林業をされていたんですか?

緑川:親父は夏の間は農業をやって、冬は名古屋の方に土木の仕事に行ってましたね。冬の間は旅に出てるっていう生活ですよね。

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——今、故郷に対してどのようなお気持ちでいらっしゃるんですか?

緑川:ま、残念なのは土地がみんなまばらで、他所の人がみんな買い上げちゃってるんで、当時、ここがいい場所だったもんで、みんなでなんかやろうじゃないかっていう案があったんですけど、たまたま不動産であちこち名古屋とか他所の人がここを買っちゃって、手をつけれない状態になっちゃったんです。それなければキャンプ場とか、なんか生かせるものはないかっていうね話しもあって。僕の場合はまあ親父が一所懸命苦労して家を残してくれたもんですから、粗末にできないので、たまにうちの子供たちが来たときに、泊まったりしています。

 10年くらい前までは、電気・水道・電話を入れていたんです。今はもうあまり使わないんで電話をやめて、電気と水だけはあったものですから、不自由せんで寝泊まりしていたんですけどね。

 でも実は、電気は去年(2011年)の大雪で倒木が激しくて、復旧するのに1,500万円くらいかかるってことで、まあ俺も早58だもんで、10年も山やれば、とても山はできんもんで、発電機を一台貸してもらうことになってね。今はそういうわけで、電気は発電機で、水は出るから風呂も入れる。

——生活に必要な水が確保できないため、転出者が増えたと伺いました。

緑川:水は地下水を使っていたもんですから、ちょっと窪みみたいなところに穴を掘って。あの当時は10戸あったんだけど、ぎりぎりの水量で暮らしていた状況でしたね。

 途中から水道を作ってくれて、今ではタンクに水が十二分にあるもんで、住むには問題ないんだけどね。

 野菜を作って生活するだけならできるとか、そういう、ただ住める環境じゃないもんでね。荒れ放題になっていて、木ばっかりで、自分の家も見えないぐらいになっちゃったもんで。

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 (底稲に)行ってみればわかるんですけど、農地もかなり広くあったんです。今でもそうだけど、若い人はみんなが集まる場所に寄りたがるじゃないですか。そういうのがなければ、おそらく住み続けていたと思うんです。

——住んでいた場所を出られることは、悲しいことだと思うのですが。

緑川:そうねえ、時代の流れでしょうがないと思うんですけど「住めば都」なんですね。冬が来ても、こっちは南の方なんでそんなに寒いっていうこともないし、夏は布団をかぶらなければ寝られないような、避暑地っぽいところなんですよ。

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 9年間あそこで育ってるんで、いろいろな思い出はありますけどね。元に戻るっつっても無理な話しなんで、親父の残したものは、できる範囲で粗末にせんように残していこうと思っています。(了)

==================================インタビュー構成協力:木田鑑子(5年前に残しておいてくれた記事が大変役立ちました。この場を借りて、ありがとう)
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●5. 民俗学者・野本寛一氏の解説(2013年2月、神山町で行われたシンポジウム)

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 この動画は、その時のもの。今回の記事を書くにあたって急いで編集した。イベント時に数人のスタッフの方に無理を言って録画しておいてもらったものなので、クオリティの方はご容赦願いたい。民俗学者・野本寛一さんは民俗学のレジェンドである。そして『産土』を作るために一番の参考としたのが、彼の著書『地霊の復権』であった。
 偶然これを神山のNPOの事務所でたまたま見つけ、自分が読むべき本だとその時直感した。手紙を書いて奈良まで先生に教えを請いに行き、色々と教えて頂いた事もある。短い映像ではあるがこの中で、映像中のお宮が、開拓前から人々が「山の神」として崇めていたと云う重要な指摘をされているので、ぜひご覧頂ければと思う。

 実は底稲に着くまでまったく記憶から抜け出ていたのだが、底稲はその『地霊の復権』の中で紹介されていたのと、偶然同じ場所であった。そして著書の中に挿入されていた写真と、まったく同じ構図から、そのお宮を撮影したのである。偶々にしては、中々良く出来すぎているものである。
 
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【 キャラバン隊員】●ルーファス・ウォード、川口泰吾、長岡マイル

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【おまけ】底稲の地図

==================================【編集後記】今回改めて再編集するにあたり、映画版の中では「うん?」と思っていたまま直せなかったもの、気づけなかったものをいくつか修正した。たとえば映画の中では底稲の人々の古い集合写真を「昭和49年当時」と記載していたが、色々調べてみた結果昭和30年当時のものだと分かり修正した。12月まで撮影し、2月に上映したのだから、色々とミスがあってしかるべきである。また8年前に編集した時には「あ、これ使えね」と即座に捨てていた映像が、今になって使えるものとして意味をもって来たのは大きな発見であった。とはいえ、このままのテンションを維持したまま、最後まで突っ走れるのでろうか。ガクブル。(参)
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