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第4回阿波しらさぎ文学賞一次選考迄通過作『火夫』

「なんあれ?」
 助手席の妻が低い声でそう呟き顎をしゃくった。
「え?」「そこよそこー」エイヤッと覚悟して首を右へ捻り、なんとか視線を向ける。羊羹屋横の原っぱに汚らしい猫の額程度の木造小屋があり、ボロ壁の隙間からにゅっと突き出た炎がトタン屋根を火先でペロペロ舐めていた。小屋の前にいる五十台後半と思われる見知らぬ男が農業コンテナの上からヒョイっと飛び降りると、素早く木片を小脇に抱えた。男は棒のような身体に眼鏡をかけた瓜実顔をちょこんとのせ、ダンスでもしているかのような軽やかな身のこなしで木片を小屋の奥へと投げ込む。私はそのまま呆然と車を走らせていたが、トンネル前の路側帯にハザードを焚いて停まり「あれ何?」と妻に訊いた。「わからんよ」と妻は眉間に皺を寄せ、夫婦で顔を見合わせた。首の裏がズキっと痛み、私は軽く呻いた。

 次の朝、濃霧が辺りを真っ白に塗りつぶしていた。車で子供を学校へ送り届け、山の中腹にある家へと戻る途中妻がまた指差す。「ワイが霧の元じょ」とでも言わんばかりに、その小屋からまたも灰色の煙が伸びていた。昨日の男がいる。男は小屋からチラッと見えた焼却炉の中へサブマリン投手のように木片を下手から投じ、周辺に火の粉を舞わせた。
「あーー火事でも起こされたら堪らんね」と妻は言い「あんな人おったっけ?」と眉をしかめる。私はカブリを振った。老婆が着るような色褪せた黄色いカーディガンを羽織って男はちょこまかと動き回っている。「あれ仕事なのー?」と妻は続ける。「仕事じゃなかったら何だよ?」「わからんけどー」小屋前にはPPバンドで結束された木の塊がいくつか整然と並んでいた。男はそこから木を抜き取っては焼却炉の中に挿れ、挿れては又取りにいくという動作をひたすら繰り返している。それは大きなマッチ棒が、透明な手で延々と擦られているようにも見えた。
「まっさか移住してきた陶芸家やったりして」と妻が目を見開く。
私は痛みのない左側に小首を傾げた。電気窯ならまだ入ると思う。んが、あれだけ木を燃やすなら薪の窯のはずだ。んんが、それは猫の額にムリヤリ象を詰込むようなもので、妻語で言うところの「ケチャップになる」のがオチだろう。
 来る日も来る日も眺めているうち、この人誰?感は一層強まり、その一徹者的態度を羨ましいとさえ思うようになってきた。
 例えば炭焼職人。隠れピザ屋。会員制薪風呂屋…否《イヤ》〜。
 例えば燻製屋。闇火葬業者。火刑刑吏。釜茹専門の鬼…否否《イヤイヤ》〜。彼は、彼にしか見えぬ蒸気機関車《ヤッバイやつ》に乗り込み、眩い火室の奥へ向かってシャベルで掬った石炭を投じ続ける、孤高の「火夫」なのだ…。
 寄合でそれとなく近所の老人たちに尋ねてみると、皆「そんな人知らんでよー」と首を振る。ゲヘゲヘと野卑に笑う範男さんが、私の紙コップに波波と日本酒を注いだ。

 「んもぅーなんで布団と布団の間なん!」おねしょをしたらしい長男の春男を妻が叱る声に目を開け、起き上がろうとすると強烈な痛みに襲われた。後ろ首がガチガチでかなり熱い。学校の送迎はやむをえず妻に任せ、ズーム会議のリスケを乞う謝罪メールを打ち、泣きべそをかきつつ布団に倒れ込むと濃厚な尿臭がした。あれは小学一年の頃だった。悪童《ワルガキ》たちが首4の字固めを私にかけた。休み時間終了を告げるチャイム音と共に首から「ゴキっ」という不快な音が鳴るのを私は聞き、担ぎ込まれた病院で「あーー重度の鞭打ちです」と医師に宣告された。以来、私の人生は首の痛みと苦しみとに彩られてきたのだが、十年前妻と結婚し、縁あって徳島に移住した直後、「何せとにかくヤッバい」という松山の整骨院を義妹《いもうと》に紹介された。騙されたつもりで通い出すと首は激的に改善し、人知れず流した涙の数々も、悪童らへの憤りもいつしかさっぱりと忘れていた…の・だ・が、コロナ禍で全く出歩けなかったせいかどうもいけない。後ろ首右の生え際周辺が時折うすら寒くズーンと重怠くなり、鈍鈍《ドンドン》痛みが増えてきていた。

 妻に揺さぶられるともう昼前で、どうやら丸一日眠っていたようだ。布団の上に正座し首を捻ってみる。左は問題ないが右はやはり痛む。これから春男を歯医者に連れてかないといけない。妻が街乗りを異常に怖がり「運転したら絶対事故って死ぬ」と信じているためだ。庭で布団を取りこんでいた妻と車に向かう。トイレ裏の砂利を指差し妻は顎をしゃくった。
「朝ジィジ大変やったんよ」「え?」「ここの下のねー、水道管が裂けたって興奮しよって」言われてみれば少し湿っているようにも見える。「裂けたの?」「どやろねー。水圧は一緒」「雨、乾いてないだけじゃないの?」「ありえるねぇ」「でオヤジどしたん?」「もう範男さんに言うたってー」ちっ!思わず舌打ちした。範男さんはやたら手先が器用で「年やけんワシもう辞めとるんよ」と言うくせに、頼めば何でもパーフェクトに直してくれるのだが、といって金のかかる事である。「おまえ何も言わんかったん?」「無理やって。『凍った日に裂けたんに決まってるでしょ』って、すっごい剣幕やったんやけん」妻はそう言い車に乗り込むと、必要以上にドアを強く閉めた。
 車は九十九折《ジグサグ》の山道を下って右折し四三八号線に合流する。曲がる時、痛みで「う」と声が漏れた。例の小屋に煙も男の姿もないのが意外であった。保育所前に着くと妻は先に車から飛び降り、春男を迎えに隣接する小学校の方に足早に向かった。保育所に歩み寄ろうとして私は段差に蹴躓く。ちっ!色とりどりの運動帽を被った子供たちが賑やかに跳ね回るのを柵越しに眺める。逆上がりの練習をしているピンク帽の年長組の中に娘の萌を見つけ名前を呼んだ。萌は私に気づくと少しはにかみ、一目散に荷物を取りに行ってちょこんと二重扉の上に顔を出す。後ろから駆け足でやってきた担任が「明日はお雛祭り会なのでね、お弁当はいらないです」と言い、萌に小さく手を振った。
 後部座席から突然手が出てきてそれが首筋をペシペシ叩きだし、鋭い痛みが走った。堪らず振り返りながら「おい!」と叫ぶと、忽ち萌の顔がグシャグシャに歪み、私を全否定するように大声で泣く。妻と春男が車に乗り込んできた。「シャー帰ってきてないよなぁ?」妙な寝癖のついた春男が萌の泣き声を打消すように、先週来姿の見えない猫の事を訊いてきた。シャーはうちの黒猫三兄妹の末弟で、一番大人しく又男気のある鍵尻尾の猫だった。春男はシャーの逐電に対しなぜか自責の念に駆られているらしく、それを想うとどうしてもまたぞろできたベロの口内炎を触ってしまうようで、モゾモゾとマスクの中に指を挿れ始めた。ルームミラーの中の妻が、手で萌をなだめながら尖った目を向けてくる。私は鼻の両穴から息を出した。いつものように道は空いている。街の歯科医院前に着くと、萌が愚図る。
「おとうチ嫌だ!」と暴れる萌を抱っこし、グーで何度も殴られながら、土手向こうの川へと連れて行く。水際のヘドロから突き出ていた長靴の履き口目がけ、競って小石を投げた。日がズンズンと暮れていくのを気にもせず、萌はゲラゲラ笑いながら、土手をひたすら走って行ったり来たりしている。

 春男が泣き腫らした顔を浮かべ、妻と医院の自動ドアから出てきた頃には辺りはもう真っ暗だった。晩飯時も近いので、私はバイパス近くの回転寿司に行くと決めた。「帰ってご飯作るよ」と妻は言ったが、私は強がった。店内は意外な程混雑していた。発券機前でノーマスクで談笑している老人たちを恐れ、子供らはマスク越しに口を手で塞ぎ、待合席に逃げこむ。春男はサーモンばかりの十一皿、萌は過去最高の四皿、妻は十三皿、私は七皿に饂飩を食べた。帰路、街で十四度あった気温もクネクネ道を抜け村に入ると五度まで下がり、急に肌寒くなる。いつしか霧が出てきた。村の中心部はうら寂しくひとっこ一人いない。ウインカーを出して左折し家へと続く白濁した坂道を登る。全員がシャーを目の端で探したが、春男と妻が竹藪の奥へと逃げる狸を目撃したのみだった。

 ンゴォグンゴォ…フゥー……皆の鼾を聞きながら神棚下のパソコンに向かっていると古時計の鐘が三つ鳴った。底冷えのする土間に降り、煩くまとわりついてくる二匹の猫に餌をやって椅子にもたれ首に湿布を貼る。妻が寝室からムクッと出てきた。「まだ寝んのー?」と彼女は呆れ顔で言い、机の上の文旦を思い出したように手に取ると、ヘタを包丁でスパッと切落した。ガラスのボールが半透明の黄色い果肉であっと言う間に満たされ、文旦三つ分の外皮と瓤嚢《じょうのう》膜とが広げられたレジ袋の中にどさっと積み上げられる。痰でも絡んだのか隣のハナレからオヤジが咳払いする音がする。私は電子烟草のスイッチを入れ「おっさん燃やしてなかったなー」と白煙を吐きつつ言った。妻はそれに答える代わりに口に果肉を一つ入れて「おいし!」と言い、クルッと背を向けて洗い物に没頭し始めた。妻の背中が裂け、それが口になってゲヘゲヘ笑いながら「寝ろ」と言ってくるような気がし、私は逃げるように寝室に入る。腹を出して寝ている春男に毛布をかけ、冷え冷えとした布団の中に潜った。

 目覚めると遅い午後だった。子供らの姿は当然ない。遠くから微かに妻が誰かと話す声がしたが、暫くして何も聞こえなくなった。用を足すため肌着のまま寝室を出ると台所にいた妻が私を呼びとめる。「水道管直ったよ!掘ったらやっぱり裂けとったんやと」と嬉しそうに目を見開く。「あーー」「範男さん新しい管をつけてくれてねー、繋ぎ目をねー、こうテープでグルグル巻いてくれたんよ。もー大丈夫やってー」ガクガク震えながら風呂に入りシャワー栓を捻ると、たしかに勢いのまるで違う冷水がジュワワワウァワウワァと吹いてきて思わずのけ反った。

 待合わせのA神社に着くと鳥居横にいた派手なパーカーを着た杉山が片手を上げた。妻に執拗に説得され例の整骨院に予約を入れ、パパ友の彼を酒で釣って松山への往復運転を頼んだのである。杉山は運転席にどかっと座り込んでエンジンキーを回し「首いけますー?」と訊いてくる。私は中途半端な笑顔を作って返した。車は吉野川に架かるトラス橋を抜け、土成インターから片側一車線のみの高速に入る。
「あーマヂで県外久々!」と彼は興奮気味に言うと「コロナの影響あるんスかー?」と素っ頓狂な声で訊いてきた。「めちゃめちゃある」「ほースか」まるで人類全てが私と杉山だけを残し消滅してしまったのかと思うほど、前後左右どこにも車がない。六連続の短いトンネルを抜ける。
 【不要不急の外出は自粛】とオレンジのドット文字で描かれた電光掲示板が近づいてくる。その先に広がる雄大な山々には薄ピンクの点々が早くも目立ち始めていた。私はガムを銀紙に吐出し「木を燃やすおっさん知ってる?」と不意打ちのように訊いた。
「んー?木を燃やす?」「そそ」「んんーー?現実?映画!?」杉山は不思議そうな顔を浮かべる。「次のパーキングでトイレ行こ」と私はシャボンを割るように言った。

 予想外に早く着いたので、線路近くの喫茶店に入った。便所横にある大きなテレビ画面には、どこかの港前で横一列に並んでいる学生たちの姿が映し出されており、「黙祷」と告げる男の低い声を合図に全員が目をつぶって頭を垂れた。「十年?」と目を丸くする杉山の声を尻目に私は座席に向かう。アイスコーヒーを飲み干し、「この後どうすんのー?」と杉山に訊く。彼は上目で「元カノに会うんスわー」と言い、伝票を素早く掴んだ。顎のマスクを鼻まで上げ住宅街を歩く。ものの数分で目当の整骨院に着いた。建物の中は薄暗く誰もいない。よく見ると全ての備品も消えている。狸にでも化かされたのかと立ち尽くしていると、頭上から「おーい!」という聞き慣れた声がする。視界を埋め尽くす程の巨大な鉄筋コンクリートマンションの下方右隅の窓枠の中で、フェイスシールドをつけた老院長が笑みを浮かべ手を振っていた。彼は指で「二一九」という数字を作り入って来いという仕草をする。階段を登り、重たい扉を開け部屋に入る。靴を脱ぎ除菌スプレーを吹いて手揉みしてから室内を見渡すと、そこは急拵えの治療室になっていた。老院長に促されるまま私は診察台の上に苦心してうつ伏せで寝そべる。老人は「吃驚したやろー?」とほくそ笑み「古い建物は全部壊してね、もっかい建て直すのよぉ」と言った。彼は、左手の人差し指と親指とで輪っかを私に作らせ、スッと自分の人差し指をその間に挿れ、もう片方の手で私の背骨を上下になぞって輪っかの反応を確かめていく。「一、二、三、四番。五、六、七と。あ、全部ずれとるね」と彼はなぜか笑い、深い息を吐いて手をかざし始めた。身体のあちこちが妙に熱くなり汗ばんだ。老人はカルテに何か記入し「ちょっと失礼」と言うと私の両肩を前後にグワグワ揺さぶり、急に力を入れて上半身をクイッと右に回した。その時、背中のどこからか小さな音が鳴った。老人は仕上げに私の脹脛から背中全体を激しく摩り「はい、これでもういけると思うよ!」と言って柔らかく微笑んだ。起き上がって診察台の上に腰かける。恐る恐る右に回してみると、首は痛みもなくスッと曲がった。「ところで薪ストーブ持っていかんかいな?」「んん?」「外用のやつでねー。まだ全然使えるんやけど、孫がお祝いに新しいの買うちゃるわっていいよるけん、あんたが要るならあげようわい」

 A神社にはとっぷりと日が暮れた時分に着いた。ニヤつく杉山と別れ運転席へと回り私は車を走らせる。玄関を開け家に入る。雛人形の前で目を擦る萌の口から、朝にはあった前歯が一つなくなっていた。 
 翌日の午後、妻は税務署へ出かけていった。裏山へと続く小道を気張って歩くと遠くに白い海が見える。道端に、打捨てられた輪切り状のスダチの木片がいくつかあり、何往復かして全部家に持ち帰った。庭のベンチに座り、膝に乗ってきた猫の額を撫でる。靄が眼下の谷を黙って漂い、おっぱい山と子供らが呼ぶ山の方へと流されていった。立上がると猫が逃げる。車のトランクから薪ストーブを取出し庭に運ぶ。ドアハンドルを回し扉を開け、意外に重い木片を数個奥にドス、ドスッと投じ、春男が擤んだ大量のティッシュを紙袋ごと差し挿れる。そしてポケットからライターをひっぱり出すと私はティッシュの先に火をつけた。チッ!

(了)

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