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心象 11/30


自分でも忘れがちになるが、結局僕は「SNS作家」なのだと思った。

DIY作家でも、自称映画監督でもなんでもいいが、
結局ネットの海なしでは何もできないくだらない者だ。

- 2008年6/3に僕はTwitterに「お。」という初のツイートをし、同日生まれてはじめての痛風を発症した。
- 2010年3月、Twitterの外部アプリで、ご近所さん検索をし、トムさんと出会った。
- 同年6月、Twitterで出会った見知らぬ女性と同棲を始めた。今の嫁である。

結局今の徳島での生活は、この二つの出会いによって作られている。

実家が写真屋で映画学校を出ているとはいえ、それまでほぼ門外漢。初歩的なカメラ操作は機材屋で習って、あとは独学。そんな感じで10年前にここ(徳島県)に来た。12月に住んでいた東京の家を引き払って、夜行バスで。

今更ではあるが、僕には絶対的「アウトプット手段」というものがない。何万部売れるような本も、何万アクセスが来るようなブログも、誰もが知る雑誌で担当するコラム欄も、全国放送のレギュラー番組もない。

全国に流れ続けるようなCMを任されることも、さしたるコネクションもない。自分の名前が圧倒的に広がるようなこともないし、それに見合った収入の上昇も、どこぞの大学の教員の口なども舞い込んではこない。なぜかといえば誰も知らないようなところで、誰も知らないようなものを作っているからだ。それはある意味必然とも言える。このような山奥に好き好んでやってきて住み着いてしまったのだから。そして何か大きな者が傘下にまるめこもうとしてくると、本能的にそれをかいくぐる。なんでかわからぬが、そういう性質なのである。

クリエイターというものにとっては、ある意味いい環境なのかもしれない。前々から心の底でひそかに憧憬していた殷の奴隷の職工たちに似ている。つまり、「良いもの」を作らねば即座に殺されてしまう彼らに。

予算も製作期間も人員も少ないとはいえ、手を抜いたり、酷いものを作ったら、あっという間に仕事はなくなる。そしてただでさえ少ない椅子取りゲームの中で、より新しく、より安い同業他社が矢継ぎ早に登場してくる。その中で自分は一体何なのか、何ができるのかということを徹底的に考え、できる範囲の中で最大限のアウトプットをする事を、この10年間やってきた気がする。

「産土」の企画書が採択されていなければ、おそらく僕の映像作家としての人生は2013年あたりで終わっていただろうし、「神山アローン」ができなければ、ただのCM屋おじさんになっていただろうし、いずれ破綻していただろう。「あわうた」のヒロインも、アローンがなければ出演を事務所が許可しなかっただろうとも言っていたし…。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」と星の王子さまにキツネは言った。結局僕は幾多のフィルターや色眼鏡の持ち合わせがないので、心で見るしかなくなった。そしてそれが一番の「やりたい事」であった。

大きな話はいつもやってこずに、僕の頭上をこえていく。うまい汁を吸うのは結局僕意外の誰かだ。子供の頃、運動場の水飲み場へ誰彼殺到していくのを、恥ずかしくて誰もいなくまで待っていたのを思い出す。目がくらんだり、羨望したり、悔しがったりしても意味はないのだ。僕は透明人間と一緒なのだから。だから必死に何かを作らねばならない。

自分は結局、誰が読むかもわからない「いのちがけの手紙」を書いてボトルの中にしまいこみ、ネットの海へめがけて投げつけるしかないのだ。ごくまれに、それを読んでくれる人がいる。そういう人々に支えられて、自分はここまで何とか生きてきた。

2017年の醤油映像もそうだ。あれも代理店の孫請みたいなもので作ったのだが、市民の税金で作っているのだから恥ずかしいものは作れないと奮起して作った。だがそれを受けた人々に、その動画をどうするかという手段もアイデアも何もなく、大いに落胆した。ならば自分がやろうとVimeoのいろんなグループでシェアしたりしたところ、爆発的に広がっていった。Redditのtop5の話題に入ったり、ナショジオのコレクションに入れてもらう。それはかなりの盛り上がりで、元Appleのガイ・カワサキまでもがシェアしてくれたりもした。

考えてみれば、ここまでよく来たものだ。スウェーデンのElectroluxのウェブCMの日本パートをやったり、イングマール・ベルイマンの家に滞在して短編を撮らしてもらったり、インドネシアのカリグラファーが日本中のDPの中から僕を選んでくれたり、イスラエルのアプリ会社のwebドキュメンタリーを担当したり。昔のIntelのCMのようだなとも思う。山奥でやっていて、なぜこんな事になるのだという事はいくつか起きた。

- 2017年の5月、或るTwitter社の社員だという女性からメールが来た。醤油の映像を見たという。できたら仕事をやってもらいたいとう趣旨のメールが届いた。プロフィールを見たところ、美人過ぎて、これはまさしくチェーンメールであると思った。

だがやりとりしているうちに実在する人からの実際の仕事依頼だという事が分かった。それがPOJ STUDIOのTINA KOYAMAである。

- 2018年5月にご本人にお会いし、京都のあちこちをロケハンして回る(途中で痛風発症)
- 6月に開花堂、9月朝日焼撮影。

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そして丁度今日、その9月に撮影したものが公開された。

なんだかんだでこの映像ができるまで2年以上がかかった。ウェブのコマーシャルなのか、自分の「心」で見たかんじんなものを集めた「作品」なのか。その折衷といったら語弊があるか、それらが昇華したものを作って欲しいとのオーダーに前後不覚に陥り、一切どうやっていいか分からなくなった。何通り編集案を作っただろうか。そしてこの朝日焼の映像は、16代というものの重みを自分はどう表現するのか、それも何気に難しいお題であった。

2018年2月に『あわうた』を撮影してからのこの2年の間、僕はかなり出がらしのお茶のようになっていたように自分では思う。燃え尽き症候群のようになっていた。この時期にはクライアントの方々にも迷惑もかけたろうとも思う。映画の編集は一年経っても終わらず、子供はどんどんでかくなっていき、働けども働けどもなぜかどんどんと痩せ細沿っていく。税金もクソ高い。映画作りをどこかの心の支えというか目標にしてきたのであったが、作ってからが本当の地獄。いつまでも終わらない編集のループ。最適解が見つからない。そしてコロナになり、京都オフィスの話も頓挫するし、新しい仕事はどんどんと目減りする。毎日がきりきり舞いだ。支払い、支払い、支払い…。

だが物事には終わりがある。いつまでも終わらないものというものは存在しない。「あわうた」も新しい編集版ができて、いくつか賞ももらった。わからないが、これで「次」ができる。

人生は美しいことばかり起こるわけではないが、それでもまだ進んで行こうとは思える。
あとどれだけ自分が生きているかこればかりはまったくわからないが、自分のやりたい事が何かは、この自粛期間の無駄な空き時間の中での考察で理解できた。

僕は結局、自分の力で生きていきたいのだ。
それがわかった。

そして自分が何か前に進むと、自分のことのように喜んでくれる人々がいる。
その人たちのために、生きている限り何かを作りたい。
自分という人間は、それだけなのだ。

( クラウドファウンディング残り85日 / 32%達成 / コレクター134人 )


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