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月の色のはなしをしよう 2

いつだったか、キムソクジンさんのことを月の色のように思っている、という話をした。
それはつまり、わたしへのジンさんの思いは「かぎりなく愛に近いなにか」で、でも愛ではない強い感情だということ。

最近、ナ•テジュさんの「僕が君を」という詩を読んで、もう一度月の色の話をしたいと思った。
 

僕が君を
どんなに好きか
君は知らなくてもいい
 
君を好きな気持ちは
僕一人のものだから
僕の恋しさは
僕一人だけのものだけでも
満ち溢れるものだから…
 
僕はもう
君がいなくても君を
好きでいられる

この感情は、わたしがジンさんに抱く感情に限りなく近い。というか、ジンさんへの気持ち、完全これ。これです。わたしこれなんです。

これなんです…………。

ジンさんのことを、ジンさんだから、という理由だけで好きだ。
ジンさんのことを好きな理由なんか、一生使ったって言い尽くせない。飲まず食わずして語り続けたとしても言えない。遺書に言い残したことをまとめて死ぬかもしれない。お坊さんに読経の代わりにジンさんの素晴らしさについて語るようことづけてしまうかもしれない。

彼はハンサムでひょうきんで明るく、影を隠し持つ魅力的な存在だけど、そのどこかがすっかり欠け落ちてしまったって多分すごく好きで、彼の好きな要素、好きな理由がなくなったところでわたしが彼を「好きではなくなる」理由にはならない。

わたしはジンさんを、ジンさんだという理由で愛してしまう。
たとえば明日彼が突然、本当に、わたしが全く納得できない理由でわたしたちの前から消えてしまってもまだ好きだ。大好きだ。

もともとわたしの生活にいなかった人だから、今わたしの目の前に現れて笑顔を見せてくれること自体、奇跡みたいなものだと思う。
ジンさんがアイドルをやってくれていることに感謝し続けたい。キムソクジン春の感謝祭はすでにやったので次は夏の感謝祭だわ!と思うし、ぷいぷい豊穣祈願の祭もそろそろ準備しておきたい。


そういうわたしはきもい。


少し前、「あなたはジンさんに何も求めないよね。達観してるっていうか」と友達に言われ、ハッとした。

確かにわたしがジンさんに、防弾少年団について話すときは常に「幸せでいてほしい」しか中身がなくて
(その結論に終着するまでに三時間くらい話し続けたりする)(大迷惑)
健康でいることと幸せでいること以上のものは求めていない

強いて言えば「七人一生一緒にいてくれや」の気持ちになるが、それも強くは求めていない。
生きていてくれさえすればいい。
エッきもちわるい……
アイドルに対して「生きていてくれさえすればいい」とはなんぞや。

わたしがジンさんを好きではなくなる理由はきっと、「ジンさんが理由にならなくなったから」だと思う。

意味わかりませんか?じゃあ説明するからね

わたしはジンさんをいくつもの理由にしている。
例えば朝起きてカーテンを開けること、惣菜をお皿にうつすこと。好きな服を選ぶこと、人に優しくすること、自分を鼓舞したり、許したり、ご飯をたくさん食べたりすること。好きな人に好きだと口にすること。

自分を好きでいること。

ジンさんはわたしの理由になってくれる。
というか、わたしが勝手に彼を理由にしている。

ジンさんがわたしの理由になってくれるから、わたしはジンさんが好きだ。


でも、わたしの理由であることが好きな理由なら、わたしは本当にジンさんに対して「何も求めていない」んだろうなと思う。

人になにかを求めないことは、本当に正しい愛し方なのだろうか。

求めることで人は人と交わるのではなかったか。
この世界に生きている人間として、アイドルとしてわたしの前に立ち現れたキムソクジンさんに対し「何も求めない けど愛してる」なんて、彼の存在に対しての冒涜になりはしないか。
そう気づいた時わたしは自分の感情のいびつさに気づいて立ちすくんだ。一般にリアコ(リアルな恋の感情)の人や彼らのパフォーマンス、音楽性に惹かれている人の方が、ずっとずっとまっすぐな愛し方をしているのではないか と。

わたしの月の色は、わかりやすく言えば、アンパンマンとか、ヒーローとか、天国のおばあちゃんみたいに、そばにいなくてもそばにいてもらおうとするあの感じ。
あの感じ方を、わたしは今この世界で生きている人間に向けている。

そしてそれはもう、わたしの前にキムソクジンさんはいないということだ。

僕はもう
君がいなくても君を
好きでいられる

美しい愛の詩は、本当に美しいと言い切っていいのだろうか。

わたしの感情は、わたしの愛し方は、本当に今を生きる彼にとって誠実なのだろうか。













ということをぐるぐると考えていたここ最近、その気持ちを打ち砕くような出来事が起こった。

これです。

これです。



あの、これ。これです。

このジンさん。

エッめちゃくちゃ好き………………!

カワイイ、愛らしい、真っ直ぐな力強い眉毛と初めて空をみた子供のようなきらきらした瞳、この世の穢れを知らない無垢な表情、愛おしい、愛くるしい………カワイイ…

そこにはわたしのまっさらな好きがあった。

あ、これだ、とわたしは泣きながら膝を打ったのだった。
これですわ、これ。誠実なのだろうか、じゃないのよ。理由とかじゃないのよ。ちがうのよ。
好きに理由をつけられるのならば人類はとっくに文学作品を作るのをやめてます。
わからないから、完璧に定義できないから好きなんでしょう。それが愛ってものでしょう。

愛は勉強みたいにするものじゃないね(気付くのが遅いね)

わたしは彼を利用して自分を愛している というのは常々感じていることであって。

僕を幸せにするために、相手を利用するって事だ。


彼がそう言ったと知った時から、どんな時も自分を主体にして物事を考えている。あなたのために、と考えるのはやめた。わたしが優しくしたいからするのだ。わたしが愛したいから愛すのだ。

だからジンさんのことを、ジンさんのために愛したりしないし、できない。
わたしが愛したいから愛すのだ。

わたしのためにジンさんを愛している。

それが誠実かどうか、健常かどうかは、もういいです。好きなので。守りたいので。

何を言っているのかわたしもわかりません。

わたしのキムソクジンさんへの感情は月の色をしている。誰も見たことがないし、その色がきれいかはわたしにもわからないけど。

(ちなみのジンさんは文章の切れ目とか関係なくわたしが見たいと思った時に貼ってます。)

わたしのジンさんへの「だいすき」「愛してる」は祈りだ。それはジンさんへの祈りでもあり、わたしへの祈りだ。
こうやって誰かのことを考えていられる時間がこれからもありますように、と祈っている。
ジンさんが今日もすこやかでありますように。 

ジンさんのために、ではなく、わたしのために。

ジンさんはジンさんのために生きるし、わたしはわたしのためにジンさんを思う。

ジンさんだいすきよ。

なんでもない日に愛おしさにこんなに長い文章を書いてしまうわたしのこと、ジンさんは知らなくていいんです。

ジンさんがこの世界に生きていることを嬉しく思う。これから、ジンさんが望む限り、あなたの変化を見ていられることを嬉しく思う。
あなたのメンバーへのまなざしとか、笑ってできるしわとか、声とか、爪とか、たんこぶとか、そういう小さなところから愛おしさが溢れていく。

ジンさんのこと、ぜんぶ好き。ぜんぶってぜんぶです。見えるところ、見えないところ、見せないところ。ぜんぶです。

なんの話をしてたっけ。

ああもういいや、ジンさんだいすき。

だいすき。

ジンさん、だいすき。

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