【短編小説】ミステリアス・ガール

 高校受験を控えた中三の冬。クラスで一番の優等生の女子生徒の何気ない嘘に気づいてしまう男子の話。

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 放課後の進路相談を終えた広田が三年二組の教室に戻ると、ふたりの女子が黒板に何か書きつけながら話していた。
 ひとりは広田の次に進路相談を控えた藤村で、もうひとりは湯浅だった。
「お、広田。面談終わった?」
 話しかけてきたのは湯浅のほうで、まさか湯浅がいると思わなかった広田は、ちょっと面食らう。今日の進路相談は、広田の次の藤村で終わりのはずで、湯浅が教室に残っている理由はないはずだからだ。
「おう。藤村、次だろ」
「あ、うん。じゃあ」
 目が合うか合わないかくらいの、短くてあいまいな会話。すぐに背を向けた藤村のセーラー服の襟の上で、束ねた重たい黒髪が跳ねる。小さなノートとシャーペン一本だけを持って、藤村は小走りで教室を出て行った。
「ていうか、なんでいるの、湯浅」
「いちゃ悪い?」
「悪いってことないけど」
 逆に、聞いちゃ悪いかよ。広田は思う。すっかり冷えた放課後の教室に用もないのに残っているやつがいたら、不思議に思って何が悪い。
 中学三年、一月の進路相談は、公立高校の受験先を決める大事な面談だ。来週の保護者を含めた三者面談で、出願先の最終確認となる。そして今月下旬にはついに、私立高校の一般入試が始まる。クラスメイトはみんなさっさと帰って塾に行っているはずだ。広田もこれからそうする予定だ。
「余裕だなあ、湯浅は。帰らなくていいわけ?」
 湯浅香名は、学年でも上位五番に入る優等生で、一年の頃からずっとそうだ。特に今年、広田のクラスにはほかにずば抜けたのがいないから、湯浅が毎回トップ。受験する高校は、進路相談や保護者面談を待つまでもなく、県下随一の進学校と決まっていた。
「ちゃんと私立入試の勉強してたんじゃん。見てよこの黒板。すごくない?」
「なんじゃこりゃ」
 見れば、黒板一面には青と黄色のチョークで数字と文字がごちゃごちゃに書かれ、ずいぶんなカオス状態。よく見れば数字はすべて青いチョークで、すべて歴史の年号のようだった。黄色のチョークで『墾田永年私財法』、『大政奉還』、『天保の改革』などなど教科書でマーカーを引いた用語が並ぶ。ところどころ青いチョークも数字ではなく歴史上の出来事を書いてある。
「すげぇな。青いのが湯浅?」
「よくわかるね」
「藤村の方が字きれいなの知ってるし」
「失礼な」
 おおかた、青い年号は湯浅の出題で、黄色いチョークで書かれたのが藤村の解答だろう。青で解答してあるのは、藤村がわからなかったものを湯浅が書き加えたといったところか。
 セーラー服に散ったチョークの粉を払い落とす湯浅を横目に、広田はあることに気がついた。
「おまえ、教科書もなしにこんだけ問題出せんの?」
 湯浅の手には、歴史の教科書も参考書もない。
「うんまあ。歴史は得意なほうなんだよね」
「とかいって、お前どの教科も同じような点数のくせに」
「あれ? 何で知ってんの」
「みんな知ってるっつの」
 湯浅がほかの頭のいいやつらと少し違うのは、どこかとぼけているところだ。その天然ぶりがまさしく頭のいいやつのそれに見えたり、計算高い演技に見えたりして、広田はたまに周囲がしらけていることに気づいていた。学年に数人いる、あからさまに頭がいいことを鼻にかけた根暗なガリ勉や、全然しゃべらない上に勉強も運動もぱっとしない地味な女子に比べたら、もちろんはるかに付き合いやすいのだが、どうにもひょうひょうとした湯浅はどこかズレている気もして、広田はあまり長い会話をしたことがない。無駄に小学校の頃から知っていて、中学でも一年生の頃から三年もクラスが同じなのに特別仲がいいわけでもない広田が、湯浅が周囲のことを本当はどう思っているんだろうと疑ったのは一度や二度ではなかった。
 頭がいい、成績がいいと褒める相手に対する「何で知ってるの?」という反応自体、広田に言わせれば違和感のかたまりだった。とぼけているだけで謙遜になってない。だったら「歴史は得意なほう」なんて言わなきゃいいのにと思ってしまう。茶化して自慢するか、「そんなことないよ」と口先で否定するのがせいぜい普通の反応だろう。
 広田がこんなにも湯浅の物言いに引っかかるのは、湯浅がとぼけて小さな嘘を混ぜることにずいぶん前から気づいているからだった。
 一度気づいてしまってからというもの、遭遇するたびに目についてしょうがない。今日だって。
「湯浅、私立はひとつしか受けないって言ってなかったっけ? もう出願、済んだよな」
「うん。まあね。それが?」
「おまえが受ける私立って、三教科だろ。だったら、社会はないじゃん」
 にもかかわらず、広田が「帰らなくていいのか」と聞いたとき、湯浅は歴史の年号ひしめく黒板を指し、こう答えた。
 ――ちゃんと私立入試の勉強してたんじゃん。
「だから、それが何よ? あ、楽でいいなって話? ふたつ受けるのが基本だもんね、うちの学校。三教科で受けられる私立はひとつしかないし、ふたつ受けると絶対五教科になる。でもね、わたしも担任には一応言われたんだよ、もうひとつ滑り止め受けたらって」
 ほら、また。
 湯浅と話しているときにふと湧きあがる違和感を、広田は最近になってようやく言葉にできるようになってきた。
 湯浅は本当に、俺と話しているんだろうか。俺が言ったこと、俺に言ったことを、ちゃんと覚えているんだろうか。てきとうばかり、嘘をついている意識もなくでまかせにしゃべっているのではないかと思うことがままある。
 今だって、先回りしているようで、広田の話をずらしている。広田はまさに、ついさっき湯浅が言ったことの矛盾を指摘しようとしているのに、それを知ってか知らずか、結果的に湯浅ははぐらかしている。ちなみに、滑り止めの私立をふたつ受験するよう勧めるのがうちの中学の方針で、湯浅が私立の出願先をひとつしか提出しなかったことが先生たちの会議で取り上げられたという話は、先月、広田が湯浅本人からすでに聞いた話だ。それを湯浅は、今初めて言うみたいな調子で。
「湯浅、気づいてないのかもしれないけど、なんでそういうつまんない嘘つくの?」
 これまで言わずに済ませてきたことを、なぜ今、俺は言ってしまうのだろうか。
 湯浅が、きょとんとしている。湯浅が時折周りにさせている反応そのもの。ズレたことを言う相手に、ついていけないときの表情。
「藤村の勉強に付き合ってあげてたんだろ。それをそう言えばいいのに」
「べつに、そういうわけでも」
「なんで? 俺知ってるからな、先月、おまえが藤村に会いに行ってたこと」
「こそこそ会うみたいな言い方やめてくれる。言う必要ないから言わなかっただけだし、隠してないよ」
 湯浅を責めるつもりはないので、広田はできる限りやんわりと遮った。
「わかってるから」
 先月、藤村は冬休み前の二週間ほど、教室に来なかった。本当は、藤村は登校して昼休み前の図書室で過ごしていたことを、広田は湯浅の嘘から気づいてしまった。
 休み時間に遅れて教室に戻って来た湯浅が、先生に注意されたことがあった。湯浅みたいな優等生、ちょっとのことじゃ怒られないのだが、さすが事情を知らない他学年の保健体育の先生ともなれば違った。何をしていたかと聞かれ、湯浅は冷静に「ほかのクラスの友達に公民の教科書を返しに行っていました」と答えた。でもそのとき隣の席だった広田は、湯浅が授業中、教科書にマーカーを引いていたのを見ていて、変だと気づいた。他人の教科書にマーカー引いたりしないだろう、湯浅は。しかも湯浅は普段、教科書を机の中に置きっぱなしだ。何気ない会話の中で、知っていた。だからそもそも、湯浅が誰かに教科書を借りること自体変だと思ったのだ。隣の広田に、見せてくれと言えない間柄でもない。
 それから数日のうちに、広田の違和感は正しかったと証明された。藤村は図書室に通学していて、湯浅は休み時間、藤村に会いに図書室に行っていた。広田は偶然、階段の踊り場から図書室にいる藤村を見た。そして、図書室が開放されていないはずの短い休み時間に、湯浅が図書室に入っていくところを。
 藤村が来なくなったきっかけは間違いなく、先月はじめの合唱祭。藤村は伴奏に失敗し、広田たち二組は優勝を逃した。
 合唱祭で二組が選んだ課題曲は『怪獣のバラード』。ただのジンクスだけど、この曲はなぜかこの学校で三年生の優勝クラスが毎年歌う必勝曲だった。広田のクラスは勝ちを狙ってこの曲を選び、クラスの声のでかいやつを中心に練習をしてきたのだった。
 『怪獣のバラード』が優勝できるのはおそらく、曲のテンポがよくて、声が出しやすいからだ。合唱祭の審査員はほかの学年の実行委員と先生たちだ。結局、いちばん声の出ていたクラスが優勝する。小学校の頃にも音楽の授業で歌ったことのある鉄板曲の『怪獣のバラード』は、とにかく歌いやすい。しかしその反面、伴奏は難しい部類になる。
 ピアノを習った経験があって伴奏者になる可能性があったクラスメイトは、藤村のほかにもいた。名前が挙がったのは楢崎だ。クラスの派手なタイプの女子で、合唱でも声が出る。楢崎は伴奏をするよりも歌いたいと言って、藤村に伴奏を持ちかけた。藤村は、楢崎と同じピアノ教室に通っていたことがあったからだ。
 藤村はきちんと練習しただろうし、練習で何度もちゃんと弾けていた。本番で緊張しただけのことだろう、本番、二番のサビで藤村の伴奏は止まった。合唱自体が止まってしまわなかったのは不幸中の幸いだ。ほんの少しの乱れは確かにあった。でもそれが敗因かどうかなんてわからない。とにかく結果として、二組は『怪獣のバラード』のジンクスにもかかわらず、優勝できなかった。そして、一部の女子を中心としたクラスの雰囲気は、それを藤村のせいにした。だから藤村は十二月ほとんど教室に来られなかったと考えるのは自然だろう。
 合唱祭の三年生の部で優勝したのは、一組の『君とみた海』だった。ほかの学年も含め全クラスで、いちばん大人びた曲だったと広田は思う。三年のあとの二クラスの課題曲は、『栄光の架橋』にアンジェラ・アキだ。練習を聞いてるだけで楽しそうだったのが、妙に広田の心に引っかかっている。何年も後になってもしこの合唱祭の記憶をたぐることがあったら、思い出すのはほかのクラスの練習風景かもしれないと思うほど。
 広田はうすうす、一、二年生の頃から思っていた。三年生の課題曲は格好いいと。小学校の音楽の授業では歌わないような、一昔前のフォークソングやポップアーティストの曲を選べるのが、すごくいいと思った。でも、毎年『怪獣のバラード』が優勝するところを見て、それが学校行事らしい限界だなと冷めてもいた。『怪獣のバラード』をやったクラスがいちばん元気がよく見えるから優勝していくのは納得できるけれど、広田はほかの課題曲を選んだクラスのほうがよほどうらやましかった。結果なんてこだわったって、しょせん校内の結果でしかなくて、べつになんの大会でもコンクールでもないのに。二組に広田と同じことを思うクラスメイトがいたかどうかはわからない、とにかく一部のかけ声をきっかけに、勝ちにこだわる方向で課題曲選びからクラスがまとまっていった。
 合唱祭本番で、二組の『怪獣のバラード』は大トリだったが、体育館での雰囲気は、合唱曲としてでなくてもメジャーな最初の二曲で感動してしまっていたし、そこに一組の『君とみた海』で完全に持っていかれていた。この曲の伴奏がまたすごかった。結果から言えば伴奏者賞もこのクラスが獲った。あの伴奏を聞いた後に弾くことを想像したら、広田は藤村に同情できる。
 なぜなら広田は、幼稚園の頃から小学校を卒業するまで、ピアノを習っていたからだ。湯浅の母親がやっていたピアノ教室で。
「ピアノは? 弾いてんの、家では」
 合唱祭の伴奏者決めのとき、広田は『怪獣のバラード』は弾けないと断った。『君とみた海』ほどではないにしても『怪獣のバラード』だってほかに比べれば難易度が高い。もう三年近く弾いてないから、ほかに弾けるやつがいるならそいつにしてほしいと。習っていたと言ったところで、どこで習っていたかを聞き出そうとする生徒なんかいない。広田はそれ以上何も言わなかった。そして湯浅の方は、それこそ一切何も言わなかった。クラスの誰も、おそらく湯浅の母親がピアノを教えていたことを知らないだろう。
「勉強の息抜きでたまに、って感じ」
「へぇ、そう」
 なんだ、と少し拍子抜けした気分だった。
 合唱祭の練習が始まった時期から今まで、なんなら中学に入ってから今まで、何気なく尋ねる機会はいくらでもあったはずのささやかな問いが、あまりにあっけなくさばかれてしまった。ピアノ、という言葉自体、どこかで禁句のように思ってきたくらいなのに。湯浅はそんなものだろうと、わかってはいたけれど。
 広田の頭には、湯浅の家にあったグランドピアノが浮かんでいる。湯浅のところのピアノ教室が生徒を取らなくなったのは小学校六年のときで、その後中学でサッカー部に入った広田が別のピアノ教室に通うことはなかった。もともと親がやらせたがった習い事で、小学校の間まっとうすることで許されたという感じもあった。
 ピアノ教室が閉じられた詳しい理由を、広田は知らない。事情があるなら踏み込むべきではないような気もした。クラスメイト以上の仲でもない、ひょうひょうとした湯浅本人からは、当然ながら何もうかがい知れることはなかった。
 広田が、中学校で湯浅と同じクラスになって最初に気づいた嘘、それは、中学一年の音楽の授業中、ピアノを弾けないふりをしたことだった。湯浅が『ヘイ・ジュード』のメロディを右手でたどたどしく弾いたあのとき、もしも広田がなれなれしく、本当は弾けるくせにと湯浅をからかっていたら、どうなっていただろう。湯浅は中学のどこかのタイミングでピアノを弾いただろうか。広田ともう少し打ち解けたクラスメイトになっていただろうか、それとも口も利かないくらい疎遠になっていただろうか。
 時間だけが経って、湯浅自体はいつも淡々として何も変わらないが、ピアノ関係に限らず湯浅のささいな嘘やごまかしに気づくたび、広田の中で湯浅はどんどん捉えられない存在になっていった。指摘する勇気も、話を合わせるノリも身に付けられないで、今日までずっと。
 湯浅の嘘を黙って飲み込み続けた広田には、伴奏者決めのとき、湯浅の名前を挙げることはできなかった。
 一年のときも二年のときも、伴奏者をやりたいという立候補があってあっさり決まってきたのに、三年生になってまさか、変に勝ちにこだわって、伴奏者の押しつけ合いみたいなことになってしまうとは思わなかった。伴奏を断った広田は、藤村に同情する気持ちもあったが、どうしようもなかった。優勝を目指して突き進むクラスの雰囲気をうまくいなして楽しい学校行事に落とし込んでくれるような仲間を、このクラスは持たなかったということだ。自分たちのクラスでは、たとえ『君とみた海』を選んでいたとしても、やはりどこかで空気を悪くしただろう。あの曲を歌った本番での一組は、本当に大人びて見え、格好よかった。
 クラスの雰囲気に気づかないふりをして、顔色ひとつ変えず軽い口調でとぼけながら藤村と一緒に行動する、クラス一の秀才の湯浅。広田を、ほかのクラスメイトたちを、いったいどんな目で見ているのだろうか。
 ピアノを弾けることを黙って、藤村が伴奏者を押しつけられるのを見過ごしたから、罪滅ぼしをしてるのか。
 湯浅が藤村と一緒にいるのを見て広田は何度もそう思ったが、あまりにもひどい聞き方だとわかるから、聞かないでいる。ほかにどういう言葉で言えるのか、広田には思いつかない。湯浅の小さな嘘を責めるつもりはない、かといって、湯浅に味方したいというのも何か違う気がする。
 あと二か月で、広田は言葉を見つけられることなく卒業式を迎えるだろう。三年間同じクラスにいても、湯浅にとって、広田はほかのクラスメイトたちと何も変わらない。本当は合唱祭で優勝したかったわけでも、『怪獣のバラード』がやりたかったわけでもないけれど、広田は結局、受験前の大事な時期につまらないことで藤村を傷つけ、追い込んだうちのひとりだ。湯浅に、すぐばれるその場限りの嘘で会話を端折られる、その程度の。
 藤村が進路相談を終えて戻ってくる前に帰ったほうがいいだろうか。それとも。
 ろくに目も合わせず、広田と入れ替わりに逃げるように教室を出て行った藤村の、おびえた後ろ姿が、広田を引き留める。
 ふいに兆した迷いにうろたえ、広田はただただ湯浅の学力に感心するふりをして、しばらく年号と用語が飛び交う黒板を見つめていた。


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