自己形成小説を書かなくなった話

 断続的にではあるけれど、もう何年かずっと小説を書いている。そのジャンルや方向性みたいなものが変わってきたなあと最近思う。ここ数年、学生ものの青春小説を書かなくなった。気づけば結構前からだったけど。

 書き始めた当初は本当に、学園小説というのか、学生を主人公にした閉鎖的で細かな物語を書いていた。田舎の進学校の優等生が、背伸びしたり苦しんだりする話。見たこともない遠い世界にいる自分を想像できたりできなかったりして、ろくに実感もない将来に憧れてじりじり焦って、自分はどこにも行けないんじゃないかと息の詰まる思いをして、最後にはそれが少し楽になる、みたいな。思えばそれは、ひとつの中編を書いて落ち着いていたのかもしれない。これが自分の書きたいテーマだ、とその話を書いた時は思った。見つけた、やっとまともに形にして見えた、と。でも不思議と、あれ以来、まともにそのテーマを扱ったそこそこの字数の小説は、書いていない。

 その後の小説から、自分のテーマは「他者理解」に移った。どんなに近い他人との間にでもある溝や隔たりに気づいて苦しむ話、それらを乗り越えようとして他人と衝突する話……最近書いているものも、その延長上にある。

 「他者理解」とはいえ、前提は昔の青春小説の系譜をばっちりひいていて、人間関係はどちらかというと閉鎖的だった。似たようなバックグラウンドがある、同質性の高い人物たち。頭でっかちの苦しみを書いているところは同じだった。語り手はいつも言葉が達者で、自分の内面を自分で見つめることができたし、それゆえに苦しんでいた。夏目漱石や太宰治の影響は明らかだ。特に、夏目漱石の『彼岸過迄』や『行人』の影響は濃く出ていたと思う。漱石と大きく違うのは、語り手は相手役と言葉が通じた、ということ。学園小説の延長だから、相手も頭でっかちなところのあるタイプを配していた。これが自分なりのテーマだった。「どんなに似た性質を持っていて、居心地のいい相手でも、結局は他人だ」。「他者理解」といいつつ、結局は「自分は何者になれるだろう」という、学生時代と同じ焦燥を書いていたのである。

 そのことに気がついたのが、最近なわけで。語り手は他人との微妙な差異に気づいて苦しんではいるが、前提として「言葉が通じているじゃないか」と思ったのである。急に、頭でっかち似た者同士の傷の舐め合いにしか見えなくなってきた。言葉が達者だったり、少なくとも相手役とは内面的な話ができたり。その上での苦しみを書いていたのだが、そもそもそれができないことの方が多いじゃないかと気がついたのである。しょせん他人、そんなこと、苦しむ以前に当たり前だろうと。もっと遠い人や世界とつながっているんだということを、書きたくなった。

 最近のテーマは「隔たり」。共通の話題もない、自分には縁遠い世界、縁遠い人たち。それらが決してファンタジーではなく、地続きの現実にあるのだということ。子どもの頃の自分がいまいちはまれなかったジャンルって、こういうことを描いていたのではないか。もともと、書くジャンル自体を広げたい思いはあって、SFとかファンタジーとか、いつか書けるといいなと漠然と考えてきた。それが最近ようやく、それらのジャンルで自分が書くべきテーマが見えてきたような気がする。想像もできない未知の世界との遭遇。それを自分なりにどう描くか。それがたぶん、「自分が何者になれるか」という焦りを超えて、「他者にどう向き合うか」を考えることになる。

 自分がこれまで書いてきたものは、狭い世界の自己形成小説だったのだと気がついて、初めて「他者理解」の小説を書こうとしている、のかもしれない。同じ国の言語しゃべってたって、言葉なんか通じないんだよ、という話。他人との差異を前提に、ふとつながった、通じたと思える瞬間のきらめきを、書いてみたくなった。

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