まじめなあの子

 学生時代、苦手なタイプの両筆頭は、騒がしい不良とまじめな優等生だった。
 どちらもろくに話が続かなかったし、何を考えているのかわからなくて、うまい相槌が打てなかった。自分が何を言っても馬鹿にされるんじゃないかという気がしていた。

 年とともに不良は不良でなくなり、そもそも接点もなくなっていった。けれども人を替えコミュニティを替え、まじめな優等生たちとの付き合いは続く。

 ろくに話が続かなくても、彼らがどれだけいい人か、私は知っている。みんなに向けるのと同じ優しさで、親切にしてもらったことが何度もある。なぜそれらが仲良くなるきっかけにならなかったんだろうと思う。彼らは優しかったけれど、彼らにとっては親切はただの親切でしかなくて、たまたま相手が私だっただけのようだった。私が思いつきもしない親切のやり方を、何のねらいもなくやってのける人間がいるのだと、私が驚いていることも知らないで、動揺のせいで素っ気なく言ってしまったお礼だけ聞いて去ってしまう、まじめな彼ら。私だって動揺さえしていなければもっと感じよく接することができるのに、それを発揮させてもくれない、あの子たち。

 好きだけど、いや、好きになりたいけど、なれないタイプ。
 結局めんどくさいし、鈍くてつまらないって思っちゃうし、いい人だから損してることもあってかわいそうだと思ったりもするけれど、向こうは絶対私のこと気に入ってはくれないし、だからやりづらくって嫌いになってしまう。

 そうやって、まじめないい人を、表面的にしか尊敬してない自分を思い知って、自信をなくす。
 そういう自己嫌悪に酔いながら、自分の要領の良さやユーモアに安心する。
 彼らのようになりたいなんて毛ほども思わねぇよって防衛機制が、年を重ねるごとに完成されていくのを感じる。

 まじめなあの子が気になる。
 でもきっと、あの子は私のことには目もくれない。
 だから私はまもなく、あの子の粗探しをして、あの子の不器用さを見下しはじめる。
いつものパターン。

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