天津の夜

考えてみたら、もう40年近く昔のことになる。1970年代、中国に行くには、文化的な活動をしている団体しか、渡航許可が下りなかった。個人旅行がまだ、許されていないとき。ビザを申請するとき、関東軍として、侵略したことはありますか、という項目があったくらい。

わたしたちは書道家の文化交流ということで、北京、青島、済南、曲阜、天津と、二週間に渡り、中国を旅した。各地では、書会という交流会があり、こちらの代表と、向こうの代表が、それぞれ書を書いて披露する。

また、保育園、薬工場訪問なども組み込まれていて、中身の濃い旅だった。北京では、故宮博物館を一日かけて見学し、北海公園から、バスに揺られて八達嶺の万里長城を実際に歩いた。三寒四温というが、11月半ばからの旅程は、ほぼ天候に恵まれ、着いたときが暖かく、過ごしやすかった。ただ、北京の乾燥ぶりはすざましく、喉を守るために、お風呂は、お湯を溜めて蓋を開けておくようにと言われていた。わたしはワイシャツを洗濯し、びしょびしょのまま干しておくと、翌朝には、アイロンを掛けたかのようにビシッと乾いているのだ。

青島は、ドイツの租借地のため、ビールが発達したのだと教わる。夜、ホテルから見渡す夜景は、光がとぼしく、この国はまだ、電力事情がよくないのだと思った。

曲阜は、孔子の子孫が経営しているホテルに泊まる。この辺りの記憶は確かではない。バスに戻るとき、焼き芋屋さんと遭遇して、日本円にして200円くらいの小銭を出したら、大きなさつまいもを20個くらい渡され、ようやくのことで持ち帰り、バスに戻った。みんなに配ったが、温かくて喜ばれた。

そして、天津に着く。この日に誕生日のメンバがいることがわかっていたので、通訳のガイドさん同行で、ホテルにお誕生日ケーキをお願いする。出てきたのは、マーラーカオ(中華風蒸しパン)を硬くしたようなものだった。たぶん牛乳なしで、バターの代わりにラードで作ったのだと思われる。二週間の間、中華料理ばかりだったので、みんな大喜びだった。

そして、そこにいたバンドリーダーと、偶然、話をする。天津は、イギリスの租借地だったから、まあ、他の国の租借地もあったが、この人は、きれいなクリーンズ・イングリッシュを話すのだ。ロンドン留学から戻ったばかりのわたしには、その発音が快く、また、他に英語のわかる人もいなかったので、突っ込んだ話をしてみる。この人はたぶん50歳前後、戦争中は、まだ、少年だったはずだ。それがきちんと英語を覚えていて、話せる。文化革命のときは、ひっそりと暮らしていたと言っていた。それでも、英語を忘れずにいたから、後から役立つ日もあるのだろうと、思っていたのか。天津には、こういう人が、まだたくさんいるのだろう。

まさか、天津で英語の話ができるなんて、思いもしなかったし、向こうも、若い女性なので、少し安心して話してくれたのかもしれない。
あの人はいまでも元気でいるのだろうか。

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