『余命零日』二週間前
1.
「もういつ産まれても、おかしくないね?体調は大丈夫?」
喫茶店に出勤する前に、茜は碧の部屋を訪れていた。正確には私の部屋なのだが、今は留守なので碧の部屋という事にした。
「そうですね。不安しかないです。」
碧は答えに困ったのか、苦笑いで応じた。
「マスターは?優しいでしょう?」
茜は少し揶揄うように尋ねた。
「毎晩、マスターの生い立ちを話して貰っています。」
碧の答えに、茜は驚きの表情を見せた。
「マスターが?噓でしょ?」
素直な感想なのだろう。
「茜さんは、川村さんとは長いんですか?」
碧は自分の知らない川村を聞けるのでは?と少し踏み込んだ質問をした。茜は少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
「マスターはね、私の命の恩人なの。」
口元にだけ笑みを浮かべ、茜は続けた。
「私がシングルマザーなのは、知ってるよね?」
小学生の女の子が二人いると聞いている。
「丁度、上の子が産まれたのが10年前。その頃から、マスターにはお世話になっているの。当時はまだ夫がいて、この男がどうしようもない奴で、ほとんど家には帰らず、たまに帰ってきたと思ったらお金だけ持ってまた何処かへいってしまう……子供が産まれたら変わるかな?と思ったけど、結局変わらなかった。年子で下の子が産まれてからは全く家に寄り付かず、たぶん、女の所ね。乳飲み子二人も抱えて、もう水商売しかないかな?と思っていた時、あの店を見つけたの。何でかな?別に珈琲が好きな訳じゃなかったけど、自然に、引き寄せられる様に……。」
茜は懐かしそうに当時を語った。
「店に入ると、何も言わずテーブルに案内されて、注文してないのに、ホットコーヒーが出てきた。美味しかった…今まで飲んだ、どの珈琲よりも、美味しかった……。」
お腹の子が、反応した様に感じた。
「それから、うちで働かないか?とマスターから誘いを受けたの。そんなにたくさん給料は払えないけど、母子手当と合わせて、何とかやっていける筈だって。心強かった……不安で一杯の心が、スッと軽くなった。それから、もう10年かな……。」
茜の川村への信頼が、分かる気がする。
「あ!遅刻しちゃう!」
気付けば、喫茶店の開店時間が迫っていた。
「碧さん。マスターは、信頼していいと思うよ。」
それだけ言い残して、茜は仕事に向かった。
2.
余命宣告から二週間。余命自体も、あと二週間となった。
私の、余りにも衝撃的な告白に千夜一夜物語は暫く中断した。碧自身、これまでの話を消化しきれずにいたのだと思う。
この先、どんな話をすれば良いのか?余命残り少ない私に、一体何が出来るのか?恐らくそのような事を思い悩んでいるのだと思う。私は気分を変える為に、今度は碧の話を聞かせて貰えないかと提案してみた。
「私の事ですか?特別話す様な事もないですが……。」
予想通りの言葉が返ってきた。私は想定していた通り、もう一度前言を繰り返した。
「君の生い立ちを、聞いてみたいんだ…」
碧は少し躊躇したものの、前に話してくれた感じで、どこか自嘲的に語り始めた。
「私は公務員の家庭に産まれました。父も母も教師です。どちらも中学校の。知ってます?教師の子供って意外に放置されて育つって?」
彼女はいつも自分の話を半笑いで語る。恐らく癖になっているのだろう。
「教師って忙しいんですよ。学校だけでは処理しきれない仕事を家にまで持ち帰る。それでも足りずに早出・残業は当たり前。それが夫婦揃ってなんだから、子供の面倒なんてみる暇ないですよね?」
ここでは声に出して笑った。見るからに痛々しい。ずっとこんな風に生きてきたのだろうか?
「ご飯や掃除、洗濯。家の事は大抵やりました。だから親に放置されても別に困らなかった。それなのに……時々干渉してくるんですよ。世間体に関わる時だけには。受験とか、就職とか、友達付き合いとか。自分達に矛先が向かう可能性のある事には口を出してくる。夫婦揃ってね。」
貼り付いた笑顔とは対照的に低く恨みのこもった声色だった。 しかしそれはこの部分だけで、また口調はいつもの自嘲的な感じに戻って話は続いた。
「でもまあ、それでも良かったんですよ。それ以外は特に不満もないし、生活に困る事はなかった。それなりの学校に進学して、それなりの友達と付き合い、私はそれなりに生きて来たんです……。」
そこまで語ると碧は、どこか懐かしそうに虚空を見上げた。そして珍しく、
「今夜は、ここまでにしましょうか。」
そう言って、さっさと寝室に消えていった。
生い立ちについては、あまり多くを語りたくないのだな。彼女が語ったのはほんの数分で、そのほとんどが抽象的なものだった。そのヒントは、恐らくあの自嘲的な表情に隠されているのだろうが、それは追々明らかになるだろう。最もそれ程の時間は、私には残されていないが……。
3.
夜中に強烈な痛みで目が覚めた。最近痛みの頻度が増している。昼夜を問わず襲ってくる痛みに、眠りも自然と浅くなる。痛み止めの薬をミネラルウォーターで流し込み、再び寝床で痛みが引くのを待つ。いつの間にか微睡んで、気づくと朝を迎える。そんな事の繰り返しだった。確実に病は私を蝕んでいた。
「おはようございます。今日はちょっと出掛けます。」
朝になって顔を合わすと直ぐに、碧はそう私に告げた。
「出掛けるって、検診か?」
それ以外に思い当たらず、私はそう尋ねた。
「そんな感じです。」
その時は、その違和感に気づかなかった。
その日は私も、病院に痛み止めを追加してもらう為、午前中から家を出た。久し振りの病院は、この日も大変混んでいた。薬を貰って帰るつもりでいたのに、“主治医がお話ししたいといっています” 、と看護師に引き止められ、更に待たされる事になった。
「病院まで来て、会わずに帰るのはないでしょう?」
主治医の航は皮肉たっぷりに笑った。
「調子はどうですか?…いい筈はないですね。」
一人で質問と返答を済ませ、再び笑った。
「航。折角会えたから頼みたい事がある。」
突然の申し出にも関わらず、航は驚いた様子もない。寧ろ待ってましたとばかりに食い付いてきた。
「何?何でも言ってよ。」
「俺が死んだら、一人訪ねて貰いたい人がいるんだ…」
4.
その日の夜、碧は千夜一夜物語を開催しなかった。
日中出掛けて疲れたのだろうか?
「今夜は先に寝ますね。」
それだけ言い残して、寝室に消えていった。
私もその日は酷く疲れを感じていて、碧を気にする余裕がなかった事もあり、珍しくすんなり眠りに就く事が出来た。
何時頃だったろう?まだ部屋の中は暗かった。リビングで物音がする。
碧も起きたのだろうか?喉でも乾いたのだろう。それ程気にもせず、再び眠りに就こうとした。その時、カチャ。私の部屋のドアが開いた。
音も無く、碧が入ってくる。こんな夜中にどうしたのだろう?改めて入り口のドアに目を向ける。
が、そこに立っていたのは……。思わず息を飲んだ。どうして?幻覚を見ているのだろうか?痛み止めの薬の影響か?僅かの間に様々な思いが交差しては絡み合う。そして少しづつ解れ始めた時、はっきりと認識できた。
「愛美……。どうして……?」
止めどなく涙が溢れた。碧ではなく、目の前に現れたのは記憶の中に今でも鮮明に残っている、まだ4歳だった愛美だ。
「ごめん…ご、ごめんね……ごめん…」
嗚咽で言葉にならない。愛美、愛美。ごめん。ごめんね。何度も叫んだ。
すると愛美はこちらに駆け寄ってきた。
「パパ、どうして泣いているの?」
そう言って、私の頭を撫で擦る。
「泣かないで。」
目の前に愛美がいる。何度も何度も願い、叶わなかった思い。もう一度だけ、もう一度だけ会いたい。二度と会えないと覚悟した思い。
「パパの、パパのせいで、愛美、ごめん…」
溢れる思いを抑えきれない。何を、何と伝えよう。何からどうやって。
しかし愛美は、何事もなかった様に笑って話掛けてくる。
「パパ、愛美ね、とっても幸せだったよ。パパとママと一緒にいられて、凄く楽しかった。ずっと一緒にいられたら良かったけど……。」
そう言って愛美は俯く。
「愛美がパパとママの言い付け守れなかったから、だからごめんね。」
しょんぼり俯く。
「違う。違うよ。愛美は悪くない。パパが、パパが悪いんだ。愛美と約束したのに…パパが、約束守れなかったから……」
愛美を抱きしめた。力一杯抱きしめた。もう何処へも行かないでと、抱きしめた。愛美の感触が、私の心を溶かしていく。もうこのまま死んでもいいと思った。記憶はそこで途切れてしまった……。
5.
「おはようございます。」
翌朝、碧はいつも通りだった。昨夜の事を思い出そうとした。しかし記憶は曖昧で今一つはっきりしない。ただ、愛美を抱きしめた感触だけは間違いなかった。しかし……。人に話せる事ではない。唯一、碧にだけは話せそうだが、どうしても躊躇してしまう。
「どうしたんですか?なんかおかしいですよ?」
怪訝そうな碧を見て、やっぱり話すのは止めておこうと思った。
「今日も少し外出します。」
碧が唐突に宣言した。
「どこに?もういつ産まれてもおかしくないんだぞ。」
流石に疑問に思い、窘めた。
「適度な運動は大事ですから。大丈夫、そう遠くには行きませんから。」
「俺も一緒に行こうか?」
心配になり、そう投げ掛けたが、
「いえ、一人がいいです。」
きっぱりと断られた。
碧にフラれた私は、いつものように商店街の探索に出掛けた。すっかりこの街が気に入ってしまった。この風景、この空気。全く飽きない。心地よい風に吹かれながら、私は昨夜の奇妙な体験を思い出していた。
あれは幻覚だったのか?いや違う。愛美を抱きしめたあの感触は間違いなく現実だ。愛美の表情、愛美の言葉。あれが幻覚だったとは思えない。
しかし誰が信じてくれよう。二十年以上前に亡くなった娘が当時と変わらぬ姿で目の前に現れた。そして暫し会話を交わした。
いや、止めよう。常識は兎も角、私にとっては貴重な体験だった。無きものにしたくはない。わたしだけの心に留めておこう。
昨夜の愛美の感触を思い出しながら、私は幸福を感じていた。
その晩、碧が千夜一夜物語の再開を促した。
この二日程で、少し碧の印象が変わった。何というか、落ち着きが増し自信に満ち溢れ、自嘲的な感じも無くなった。使命感に満ちている感じにも見える。その夜も主導権は碧だった。
「優子さん、奥さんとはその後どうなったんですか?」
暫く止まっていた物語の再開だ。
「愛美の件があってから、当然家の中は冷え切っていった。どちらがどちらを責める事もなく、だからと言って、労う事もなかった。それぞれが愛美を失った悲しみをどう消化したら良いか?必死で藻掻いていた、といった感じだ。それでも少しずつ優子は俺に歩み寄ってくれた。今ならそれが分かるが、当時の俺はそんな余裕もなかった。完全に心を閉ざしてしまった。以前の様に……。」
溜息を一つ吐いて、私は話を続けた。
「俺は仕事に没頭し、彼女は、正直何をしていたのかも分からない。そんな日々が続き、ある日優子から離婚を切り出された。」
***
「これ以上、一緒にいても意味ないよね?」
優子がテーブルに置いた離婚届を差し出しながら言った。
「……。」
「結局、貴方は誰も心の中には入れない。私との間も、愛美が居たから成立した。皮肉なものね。最愛の娘を失って、こんな事に気づくなんて……。」
結局、私は最後まで何も言えなかった。いや、言うつもりもなかった。大変申し訳ない事だが、愛美の死に比べれば取るに足らない事だと、当時の私は思っていた。
***
「それから優子には会っていない。航からは何度か近況を教えられたが、だからどうしたという事もなかった。私にとって優子という存在は何だったのか?考える余裕もなく、月日は過ぎていった。それでも年に一度は、愛美の命日がある。そこで二人は顔を合わせた。十年くらいはそれが続いたが、それも煩わしくなり、俺は敢えて命日を避けて愛美に会いに行く様になった。」
碧はいつもの様に何も言わない。ただその表情は憐れむ様にも見えた。
「奥さんの悲しみは考えなかったのですね?」
これまで一度も批判めいた事を言わなかった碧が、初めて責める様な口調になった。感情的になるのも珍しい。私は何も言えずに、その夜の会話はそこで終わった。
6.
「川村さん、お客様です。」
朝食の後、少し散歩に出ると言って出掛けた碧は、来客と共に戻ってきた。
その来客を見て、私は唖然とした。元妻の優子だったからだ。
「どうして?」
私はそのままの感情を言葉にした。碧と優子がどうして一緒に居るのか?そして、何故私の前に現れたのか?何一つ理解出来る事はなかった。
「久しぶりね。もう会う事はないと思っていたけど。」
十数年振りに会った優子は、まだ美しかった。還暦を間近に控えているとは思えない程若さを保っている。私と別れた後、事業を始めたと聞いていた。恐らくそれが上手くいっているのだろう。
「二人がどうして一緒に?」
今の最大の謎をそのままぶつけた。
「私が会いに行ったんです。」
答えたのは碧だった。謎は更に深まった。なぜ碧は優子の居場所を知る事が出来たのか?それが皆目見当がつかない。
「航さんに会いに行きました。」
碧は私の疑問を全て理解するかの様に、先回りして答えた。
「航に?……そうか。処方薬の袋を見たんだな?」
痛み止めの薬を入れた紙袋には、病院の名前が記されている。それを見て会いに行ったのか?
「航先生に聞けば、優子さんの居場所が分かると思って。最初は守秘義務がどうのって教えてくれなかったんですけど、私が話す分には問題ないのでは?って返したら、結構あっさり……。」
そう言って笑う碧に、優子もつられた。全く航の奴、この前話した時は何も言わなかったじゃないか!
「全く、医者失格だよ。」
そう言いながら、私も笑っていた。
「じゃあ私は、お散歩の続きを……。」
そういうと碧はさっさと出ていった。
残された元夫婦は、暫く沈黙していた。この十数年を埋めようとする様に、お互いがお互いを想像した。敢えて聞かなくてもそれが可能なのは、もしかするとずっと二人は繋がっていたからなのか?
「あまり効果はなかったようね……。」
沈黙を破ったのは優子だった。昔と変わらぬ優しい声だった。言葉の意図を測りかねている私に、優子は更に続けた。
「愛美の事は二人にとって余りにも悲しい出来事だった。特に貴方は、人生を変えるほどの問題。いえ、人生を変えてくれた存在を失ってしまったのだから、その後をどう生きれば良いか想像すら出来ない……。」
「君の事も大切だった…」
答えようとした私を遮るように、
「私を憎む事で、その事で、貴方が生きる希望を持ってくれたら…そう考えたんだけど、やっぱり無理よね……。」
優子の気持ちは痛いほど分かる。だからこそ一緒には居られないと思った。愛美が居なくなってしまった事実を一緒に乗り切るには、互いに愛し過ぎてしまった。それが私なりの解釈だった。私の心を想像出来たのだろう。それ以上、優子は何も言わなかった。
「もうあまり時間がないんでしょ?」
更に長い沈黙の後、優子が呟いた。
「許してあげてよ…雅之君の事を……。」
最後は嗚咽と共に消えた。
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