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漂流(第三章③)

第三章

3.
「朝倉さん…」
一見して直ぐに彼女だと分かった。しかし口をついて出た言葉は、そのたった一言。言いたい事、聞きたい事はたくさんあった。でも、それらは頭の中をグルグル回り、そのまま鼻の奥から喉を伝い食道を通って、胃袋に落ちていった。
「ご無沙汰しています。」
聡子とは対照的に、美代子は落ち着いた面持ちで深々と頭を下げた。自分より多少若い筈だが、彼女も三十代の後半に差し掛かる。そういう意味では聡子よりも数段落ち着いた雰囲気を醸し出していた。元々持ち合わせていた憂いと、あれから送った彼女の人生がそれを更に深めたのかもしれない。
「あれから、どうしてたの?」
それらの思いを振り払い、聡子は何とかそれだけ聞く事が出来た。それと同時に入り口で立ったままの彼女を、パーテーション内の応接へ招き入れた。お茶をいれようとしたところで、聡子を制し美代子は本題に入った。
「何の連絡もしないで、本当に申し訳ありません。」
聡子を真正面にしっかりと見据えて、ゆっくりと一語一語正確に伝えようとしているのが分かる。これから何か重大な事を話そうとしているのだろう。
「あの時お話した様に、私達は故郷のこの街に戻って一からやり直そうと思っていました。」
私達…という時に、少しだけ聡子を気遣った様に見えたのは考え過ぎか。
「でも最後のご挨拶にお伺いした時、一度先生の事務所を離れた後、光男さんもう一度そちらに戻ったんです。お土産を渡すの忘れたって。」
お土産?戻った?何の事だろう?光男は朝倉さんと一度挨拶に来ただけで、お土産も特に貰った記憶はない。
「やっぱり…」
聡子の様子を見て、美代子は何かを悟った様に呟いた。
「先生。いや聡子さん。弁護士先生ではなく、光男さんの友人としてお尋ねします。貴女は光男さんに重大な何かを隠していましたね?」
美代子の真直ぐな視線に射貫かれ、聡子はピンと背筋を伸ばした。いや伸ばされたと言った方が良いだろう。この人は全て知っている。そして恐らくは光男も……。
「光男も全て知っているのですね?」
確信はあったが、万が一の勘違いを期待して美代子に尋ねた。しかし当然の様にそれは覆される事はない。
「全てを知ったのは最近だと思います。十年以上掛かりました。私には肝心な事は話してくれませんでした。でも何となくは分かります…」
聡子は観念した。切欠は恐らく、自分と秋山の話を立ち聞きしたのだろう。判決勝訴で気が緩んでいた事は否めない。悔やんでも悔やみきれない。
「光男はどうすると言っていますか?」
急にそれまでの目力が消え、少し俯いたあと美代子が呟いた。
「わかりません…」
それだけ言った後、暫く彼女は言葉を失った。


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