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大家という稼業(お金の教育)

 「親子面談に行ったらみんなの将来の夢が教室に貼られてて、うちの子は寝ててもお金がもらえる人って書いてあったんだけど。ねえ、誰の影響だと思う?」と、いきなり妻に叱られた。
 その晩、子どもと一緒に風呂に浸かりながら、おまえ、寝ててもお金がもらえる人生がどれだけつらいかわかるか?と説教した。
 考えてごらん。2,3歩歩んで尻もちをついてるだけで嬉しそうに笑ってる赤ん坊。意味もなくボールを追い回して弾けるように駆け回る子犬。みんな自分の能力を力いっぱい使い、成長することに根源的な喜びを感じ、外の世界に働きかけることで、健全な好奇心が湧いてくる。ほうっておいたら冷えていくだけのこの世界、温められるのは人間の内から生まれる熱だけなんだ。それなのに、寝転がったまま誰かが作ってくれたものを消費するだけ、この世界のお客さんとして本当に一生を過ごしたいのか!
 そんな大演説をしたんだけれど、んーよくわかんない!茹だるからもう出るね。と、ぜんぜん伝わらなかった。困った。やっぱり魂が半分くらいしかこもってない言葉は子供には伝わらない。ごめん、ちょうどパパもいまそのあたりの問題で人生の迷子になってるところなんだよ。

 そもそも、ぼく自身も人とコミュニケーションを取るのが苦手で、なんとかして誰にも会うことなくお金だけ入ってくる方法はないかと不労所得を追い求めてきた人間だ。
 東に東穀カジノがあれば食べきれない量のトウモロコシを狂ったように売買し、西に人気ドメインがあれば一文字違いのドメインを取ってアフィリエイトリンクを並べ、北に日経先物シグナル配信があれば60万円払ってドブに捨てて泣き、南に高利回りの黒豚預託牧場があると聞けばパンフを取り寄せてきた。
 日常会話の節々を通じて、うすうすそういう養分気質が伝わってしまうのは仕方ないことなのかもしれないけど、子どもにはどうか養分にならずに育って欲しい。お金の教育というのは難しい。

 「貨幣とは鋳造された自由である。」というドストエフスキーの言葉がある、という言葉がある。(原著は読んだことない。)
 小さい頃、駅で古いタイプの券売機にお金を入れると、パーっとそのお金で行ける駅までランプが点灯するのが大好きだった。いまでも銀行の口座残高をみて、これだけあれば日本のどこにだって行ける。いますぐ誰も知ってる人がいない港町で木造アパートの一室を借りて、毎晩ほか弁を買って、誰とも口をきくことなく、図書館で借りた本を読んだり、野良猫に餌をやってぷらぷら暮らせる。そんな妄想をして甘美な気持ちになることがある。

 「お金は我慢料」だと言う人がいる。たしかにアルバイトで拘束されて、時間を切り売りしている時はそんな感じだった。fuck you money。嫌いな上司にクソったれ!と言って、いますぐ仕事をやめられるだけのお金のことだ。それがあればいつ辞めても困らない。受け入れられない命令には嫌だと言って魂を売らずに済む。これもまた鋳造された自由のひとつかもしれない。

 ありがとうを先に集めるとお金は後からついてくるという都市伝説がある。一方で、悪いことをしないとお金なんか儲けられないという陰謀論もある。みんなお金について何かと気の利いたことを言っている。やってる稼業によってお金の見え方はだいぶ違っているのかもしれない。

 ぼくは大家なので、お金は川の流れのようにもともと流れていて、その流れを止めないように見張り番をしながら、すこしだけ上澄みをすくって暮らしている。人や物件が集まって流れが集まって太くなるほどすくえる量も増えるし、無理に一気にすくいすぎるとうまく流れなくなって涸れてしまう。とくにありがとうを集めてる感覚はないし、かといって悪いことをして儲けてるとも感じない。まあ、インフラっぽい仕事だからね。お金は天下の回りもの。まさにこの使い古された諺がいちばんしっくりくる商売だ。

 誰が発明してくれたのかわからないけれど、お金は本当に便利な道具だ。もしお金がない世界で、お家を貸してくれてありがとう!と大家はありがとうをもらえるだけだったら、しばらくして何かと交換してもらいにいっても相手はありがとうの気持ちが薄れて消えているかもしれない。(価値保存)すでに自分のお家をもってる人や、自分で建てられる大工さんに対しても、お家を貸して一旦お金に換えておくことで取引をもちかけることができる。(交換機能)そしてお金があることで異なるものに値札をつけて較べることができる。家賃でソートできないSUUMOで「家賃米1俵、共益費塩1升」とか「毎月3日間の労働力提供」とか並ぶ中でまともにお部屋探しができるだろうか。(価値尺度)

 この価値尺度については、あくまでお金があとから対象物のモノサシのひとつとして便利に使われているにすぎないのだけれど、お金が便利すぎるし、お金が好きな人が多いので、近頃はモノサシで計った年収が高い方が偉いみたいなことを真顔で言いだす人や、「2億円で片腕を切り落とせるか。君の片腕は今2億円分の働きをしてるのかい?」など主客転倒したわけのわからない話が出てくる。
 お前が言うなよと思うかもしれないけれど、ツイッターのみんなは四六時中、お金や年収の話ばかりギトギトとやりすぎじゃないだろうか。見ていて胃もたれ胸焼けがするし良くない。ぼくら不動産クラスタもお金のことばかり話しているから、外からは下品な拝金主義者の集まりに見えてると思うけど、ぼくらの場合はお金はモノサシのひとつ、不動産投資ゲームのポイントくらいに理解しているところがあって、ギトギトしてるようで意外と口にすると上品であっさりしてるんだけど。伝わっているだろうか。無理でしょうね。

 不動産業界は人智の及ばない市況の津波に襲われて何十回生まれ変わっても返せないような大損失を会社に与えたり(天だ!)、人がビルのために働くのではなくビルが人のために働いていたり、一代で500億借金して爆発する人もいれば、生まれながらにして実家が2万坪ある地主がいたりする。人が働いてせいぜい数十年の間にもらえる年収のことで嫉妬したり較べるのは儚くて阿呆らしいというのもあるかもしれない。
 不動産業界以外、とくに人が働く士業や、均質性の高い業界だとなんだか他人の年収や売上を聞くのは失礼…みたいな感じが強いけれど、不動産屋さんはわりと遠慮なく年収や売上や資産を聞いてくるし、それで人を値踏みするようなこともない。(そこから得られる手数料くらいは妄想する)
 モノサシの桁がいくつも違うものを扱っているから、ぼくが300万円で買った水路スナックの話を、仕事で100億の不動産を買う人が面白がって聞いてくれたりもする。不動産世界は広くいろんな持ち場があるので、それぞれの持ち場で仕事に夢中になってる人の話を聞けるのが一番楽しいし尊敬できる。

 どうにか子どもにはたくさんの自由を手にして欲しいし、しょせんお金はモノサシのひとつなんだと心のどこかで思っていて欲しいし、なにより寝ているだけよりも、夢中になれることをいっぱい見つけて欲しい。さて、今日は風呂で何を話したらいいだろう。もう妻に叱られたくない。

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