見出し画像

【詩】粕谷さんの名刺

一昔前のことだ
歴程の会というのに招待されて
一張羅の薄蒼のワンピースで出掛けた
疲れ果てた帰りに上野駅の暑いホームで
友人に『毒虫飼育』の筋をかなり大きな声で
一生懸命になって説明していたら
後ろからたまりかねたように
「さっきの詩の会に出ていらした方ですか?」
と声を掛けてきた人がいた
 
二人して振り向くと
その人は「粕谷です」と言って
礼儀正しく頭を下げた
私は
「わあいわあい粕谷さんだ」と
叫んで
やっと来た宇都宮線の前でばんざい三唱をした
 
まだ81才の粕谷さんに
それでも私たちは席を譲って
ごとんごとんいう緑とオレンジの車両の中で
吊り輪につかまっていろんな詩の話を夢中でした
「老害にはなりたくないよ」
とダンディな粕谷さんはあかるく言った
私の降りる駅が近づいてきて
まだ自分の詩集もその頃出していなかった私は
わざわざ作った名刺を図々しく
この人に渡した
 
粕谷さんは黒い小さな革の財布に指を入れて
少し黄ばんだ一枚の名刺をくれた
列車は粕谷さんを乗せたまま
真っ暗な夏の線路を古河に向かって走っていった
あの頃の無邪気な自分は
名刺フォルダーの中の
角の少し折れた一枚の名刺の思い出のあたりに
まだいる
 
詩が詩であって
万人のためのものであって
誰の名誉でも権威でもない場所に
肩書きのついていない
粕谷栄市
とだけ坦懐に印刷された名刺の時代に



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?