見出し画像

フラメンコという表現ー西脇美絵子さんの訃報に寄せて

偶然のきっかけで、フラメンコ界の重要人物(注)、西脇美絵子さんの訃報を知った。2022年10月の「第31回フラメンコ・ルネサンス21「新人公演」」の選考委員をなさっていたとのことで、最後まで、日本の若きフラメンコ・アルティスタたちに向き合っていたのだと思うと万感迫る思いである。


このことをきっかけで選評を読むに至ったが、全編を通し、「気持ちが伝わってきた」「うまく表現されていた」という評に、「どういう気持ちが」「何がうまく表現されていたか」が書かれていないのが気になった。小説家なら言葉で、画家なら絵で、歌手なら歌声で、「メッセージ」を伝えるのが「表現」というものだが、フラメンコの場合、「メッセージ」の内容が(ミュージシャンでなく、評によって)伝わってこないのだ。

・全身で語り踊っていた。
・心が見えた瞬間が嬉しかったです。
・想いのこもったソレアでした。
・おいしいところをしっかりおいしく歌えていました。
・強烈な存在感で深く重みのある人生が見え、ご自分の世界を創り上げられている。
・気持ちが伝わる歌でした。
・大切にしている気持ちが伝わった
・素晴らしい世界観でした。
・分かりやすいはっきりした踊りで好感が持てた。
・やりたい事は伝わってきます。
・自分の魅せ方(表現したいもの)をしっかり分かっていて、そしてそれが十分に発揮された・・・
・彼女独自の世界が立ち上がり、最後まで途切れることなく惹きつけられた。
・唄をよく感じていて気持ちが伝わってくる。
・ブレリアのアイレを感じました。
・踊りがこなれていて自分のものになっていて自然で説得力あるバイレ。
・思いのままに感情を吐き出し・・・

語り手は「伝わった」という。しかしこの評の読み手は、「何が伝わったのか」わからない。このことは踊り手にはどう映るのか。何が、と言ってもらえないと、自分の表現に自信が持てなくなるのではないか。私なら不安になる。

私の大好きなミュージカル『レ・ミゼラブル』には、その名曲中の一曲として『On My Own』という歌がある。登場人物である少女エポニーヌが、片想いの相手マリウスを想って歌う曲である。イギリス発のミュージカルだが、世界各国で上演されている人気作品であり、世界中にエポニーヌ役がいる。優れた歌唱力を持つ世界中のエポニーヌの中から「オールスターキャスト版」の公演に選ばれたのは、日本の島田歌穂であるが、私も彼女の『On My Own』が断然素晴らしいと思う。エポニーヌの、「片想いの彼を想ういじらしさと、ひとりぼっちのさみしさ」が、他のエポニーヌよりも伝わってくるからだ。

また、フィクション作品だが、演劇漫画の超名作、美内すずえ『ガラスの仮面』も思い出す。役者は登場人物の心情を伝えるが、「どういうことを伝えないといけない」という点は作品全編に描かれる。以下は『忘れられた荒野』という、オオカミに育てられた人間の少女・ジェーンを主人公北島マヤが演じた時の引用だが、マヤが心身を削って身につけた演技と表情で、ライバルの姫川亜弓は、姉を亡くした少女の心境をしかと受け止める。「泣き叫ぶわけでもないのに、ジェーンの死ぬほどの悲しみが伝わってくる・・・」

美内すずえ『ガラスの仮面』第19巻、白泉社文庫、1995、196ページ。
美内すずえ『ガラスの仮面』第19巻、白泉社文庫、1995、197ページ。

次は説明不要かもしれないが、あまりにも辛く深刻であるがゆえに、知っておくべき偉大な先人として、ビリー・ホリデイを取り上げたい。ジャズの名曲『奇妙な果実』(Strange Fruit)は、差別によるリンチを受けて殺され、木に吊るされた黒人たちを歌ったものだ。ビリーは口を歪めながら歌うが、それはリンチと死の恐怖と苦痛に歪む黒人たちの表情を模したもので、世の中のあまりの理不尽への悲しみと怒りが伝わって、その圧倒的な存在感と歌唱力とがあいまって、世界に与えた衝撃は相当なものだったという。

フラメンコの曲には、歌詞がある。であれば、曲の内容を理解し、その背景や心情を理解し、それを自分の「ギター」「歌唱」「舞踊」で表現し、観客に届けるのが「フラメンコの表現」ではないのか。先にあげた先人もそれで人々を感動させてきたのではないか。このことは翻訳と共通するとも思うし、私も翻訳をするけれど、原文を無視して自分の言いたいことだけ言葉にして、読み手に誤解させていたら大変なことである。それはフラメンコも同じではないのか。フラメンコの場合、スペイン語が一般的に普及していないこともあって、一般の観客に届けるには一層難しいけれど、せめてコンテストの選考委員なら、課題曲の歌詞内容くらいは把握して、その内容にあった舞踊ができていたかを、言葉を尽くして説明するべきではないのか。

西脇さんのレビューも、そういう意味では決して例外ではなかった。しかし、少なくとも、若い人へのご自身の言葉による思いは見えた。以下に抜粋しよう。

もう一つ具体例。顔で踊るのはやめた方がいい。「いかにも」悲痛な表情で、表情筋ばかりを頼りに踊っているように感じられた人が少なからずいる。フラメンコは「お人形さんのような作り笑いではダメ」とは、よく言われること。「悲痛な表情」はたしかに表面的には、フラメンコの精神性を感じさせるマークみたいなものかも知れないが、これとて意識的に作り込んだら、「作り笑い」と一緒。舞踊表現としては表情も大切な要素だ。でも、フラメンコのそれは、嘘があってはダメなんである。その人自身の内から出たエネルギーでなければ。
表情筋と向き合う前にもっと体と向き合ってほしい。更にいうなら、目で見た「悲痛な表情」ではなく、その奥にある、自分の心の闇や孤独に向き合ってほしい。ヒターノの抑圧された歴史の中で刻まれた深い痛みや嘆きを無理矢理感じなくてもいい。今ここ日本で生きる私達自身と向き合えばいい。フラメンコ性とは、その人の生き方、在り方とつながっていると私は思う。

一般社団法人日本フラメンコ協会「第31回フラメンコ・ルネサンス21「新人公演」」https://www.anif.jp/event/shinjin/criticism_shinjin/kohyo-2.html、2022年12月18日閲覧。

フラメンコライブのチラシに、眉間にシワを寄せた写真ばかりが使われがちなのと関係があるのかもしれないが、「顔をしかめる」というフラメンコの「記号」を使いがちなのだろうと思う。漫画や芝居もそうだが、ある「お約束」「記号」の表情やしぐさは、表現の幅をせばめてしまう。この曲はどういう経緯で作られたのか?偉大な先人たちはどのように表現してきたのか?それを自分なら、自分の経験や想像力を働かせて、どのように表現するか?それを考えることが「自分と向き合う」ことだと思う。西脇さんは、それを仰っているのであって、フラメンコのアルティスタたちにとっても、最後の、とても大切なメッセージとなるはずだ。

いしいひさいち『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』(笑)いしい商店、2022、32-33ページ)。この作品で描かれるのは、ポルトガルの音楽である「ファド」だが、フラメンコに通ずるものがある民俗芸能だと思う。フラメンコで上記のような、歌詞の内容に自分の経験を反映させようとする指導を受けたことはないが、こういうアプローチは必須では?

最後に、極めて個人的な話になるが。西脇さんの評で、「今年迷わず7.5点をつけた唯一の人、鬼頭幸穂。」という箇所を見つけたときは、私の心にざぁっと風が吹き抜けた。小学生くらいからその踊りに注目し、彼女はどこか違うと信じてきた、私の大事な友人でもある幸穂ちゃんに、抜群の高評価がなされたことは、私の喜びでもあった。彼女の最後の評を含むレビューを、フラメンコ業界への苦言の材料としたことに呵責を感じるが、日本のフラメンコの前進には必要なのではないかと、厚かましくも記事にした次第である。西脇さん、どうか安らかに。日本のフラメンコが、貴女の育てた土壌の上に、ますます発展しますように。

(2022年12月20日 一部修正・加筆)


日本唯一のフラメンコ専門情報誌『パセオ・フラメンコ』の編集長もなさっていたそうだ。これを知ったのは、野村眞里子さんのブログでの追悼メッセージであった。


【参考文献】
ウィキペディア「奇妙な果実」、https://ja.wikipedia.org/wiki/奇妙な果実、最終更新 2022年5月22日 (日) 09:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)、2022年12月18日閲覧。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?