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漫画という最高の表現 井上雄彦『SLAM DUNK』

2022年12月に封切りされたという映画『THE FIRST SLAM DUNK』が、2023年4月現在でもまだ公開中である。文句なしのロングラン、大成功といえよう。私は1月に鑑賞したが、「井上先生のあの絵が動いている」という映像は強烈な体験であり、しばらく興奮冷めやらず、原作全巻に戻るに至った。

リアルタイムで読んでいたのは中学から高校時代だったが、当時ひたすら「カッコいい」「面白い」という感想しかなかった当作品も、今読み返すとその魅力の秘密に大いに気付かされている。あくまで主観的な意見だが、『SLAM DUNK』の「映画」ではなく「漫画」の魅力を、ここにまとめてみたいと思う。

リアリティとフィクションのバランス

主人公の桜木花道さくらぎはなみちがバスケットボールを始めたのは、湘北しょうほく高校に入学して出会った同級生である晴子はるこに一目惚れし、彼女に好かれたいという、不純だが、誰でも持ちうる動機からだった。自分自身を「バスケットの天才」と信じ込むも実際はそうではなく、バスケットの知識もプレイルールも一切知らず、地道なドリブルの練習からさせられることになる。作品のクライマックス、山王工業さんのうこうぎょうとの試合での彼の活躍ぶりは尋常ではなく、そこに至るまでも4ヶ月の期間しかないのはフィクションならではの飛び道具ともいえるが、1991〜96年の連載期間中、花道は何度も自分の実力に落ち込みながらコツコツと練習をしているのだ。主人公に目の覚めるような才能を持たせて、初心者があっという間にスターになってしまうという展開ではなく、練習している姿を見せるというのが、読者の共感を呼んだことだろう。スポーツライター・関口裕一氏によると、「下手なフォームのリアルさ」があったそう。

花道の見るにたえないひどいフォームはかつての自分たちであり、そんな花道が練習して上手くなっていき、フォームが綺麗になっていく姿を見るのは自分のことのように嬉しかった読者も多かったのではないだろうか?

関口裕一「『SLAM DUNK』の絵にはすべて”理由”が描かれているーー桜木花道が圧倒的に読者の共感を呼んだワケ」リアルサウンド ブック、2020年4月4日記事。(注1)

そして、もともとラブコメの要素も大きい作品だが、「非現実的なギャグは出てこない」というのも本作品の特徴だ。これは私も未だギャグなのかどうなのか掴みかねているが、試合中のコートに突然陵南りょうなん高校のライバル、魚住純うおずみじゅんが板前姿で現れ、倒れている赤木剛憲あかぎたけのりの頭上で大根のかつらむきを始める。魚住は3年生で引退、「夢は板前だ」と言うシーンがあったとき「ああ、彼の板前姿を見たかったものだ」と思いはしたが、コート場で見ることになるとは思わなかった。まさに面食らった瞬間であった。しかしそれも、湘北バスケ部へのエールであり、諦めムードを変えさせる力として機能するのである。ずっとシリアスでも疲れてしまうし、柔らかすぎてもリアルから離れてしまう。何より、突然のギャグシーンの登場は、読者を突き放してしまうリスクがあるものだ。これら、シリアスな物語に差し挟むギャグの選択は、井上氏の天性のものなのか。読者がついてこられる微妙なさじ加減での均衡が見事である。

まさかの桂むき 18巻#246「主将の決意」94頁。

人物設定の深み

花道がバスケットに明け暮れる日々を軸に、周りにいる人物たちの過去のエピソードが要所要所で描かれる。バスケ部監督の安西あんざい先生に先生にアメリカ留学を相談するも反対され、その理由を知る流川楓るかわかえで。たった1話しかないエピソードの語りに、私は大いに心動かされた。流川が進学先にも、女子生徒の声援にも、何も関心がなくボンヤリしているように見えるのは、アメリカのバスケットボールしか目に入っていないからだった。考えてみれば、本場のプレイヤーに魅せられてしまった少年にとって、いくら強豪校でも高校生のバスケットは別物だろう。その考えも、実力のある他校の選手たちとぶつかって、安西先生に「とりあえず日本一の選手になりなさい」と言われて改められる。この安西先生のセリフも、自身がかつて、渡米した教え子を亡くすという経験に裏打ちされていることで重みがあり、流川もそれを知って素直に従う。『SLAM DUNK』には多くのバスケ強豪校の監督たちが登場し、その誰もが厳しい指導をしている中、「白髪仏ホワイトヘアードブッダ」と言われるほどに安西先生は穏やかで優しい。しかし安西先生もかつては「白髪鬼ホワイトヘアードデビル」と呼ばれ、恐ろしいことで有名だった。その彼を変えた出来事があり、優しい指導はある意味贖罪しょくざいであるということが、私の中で自然につながった。そして震えた。この設定は、井上氏はいつ考えたのか。連載の途中で出すとして、どのタイミングで出される予定だったのか。登場人物を魅力的に説得力をもって描くには、ここまでの掘り下げが必要かと、襟を正した次第である。

トレンド感と垢抜け感

私は小学生の頃から漫画ファンで、漫画の話をするのが当たり前だったが、『SLAM DUNK』に関しては「普段漫画を読まない友達とも話ができた」という印象がある。登場人物たちのかっこよさはもちろんあるにしても、「ド根性」「熱血」という暑苦しさがなく、むしろファッショナブルな雰囲気がある。汗まみれの顔アップがほとんどを占める漫画で、この「垢抜け感」は驚異的にも思える。人物を描く線の引きの技なのか、デッサンの正確さのなせる技なのか。これは漫画とは別の話になるが、アニメ版では、大黒摩季、WANDS、ZARDなど、当時旬のミュージシャンの楽曲を主題曲に起用していた。そのイメージも相まって、漫画ファン層以外の読者を獲得できたのではないかと想像している。

さわやかである 14巻#197「バッシュ(brand-new)」232−233頁。

画力という手段

画力というものはそれ自体が目的になることもあるが、本作品で「画力とはドラマを見せるための手段」ということがよくわかる。井上氏といえば、その圧倒的な画力で有名な漫画家でもあるが、1巻から読むとその画力も上達(おそれ多いが)しているのがよくわかり、その上達ぶりは花道の成長ともリンクして感動的ですらある。ジャンプするときの体を描く線が増え、コート上でのカメラアングルが「俯瞰ふかん→アオリ→アップ→一気に引く」と、他の表現方法の追随を許さないカメラワークを駆使する。なんといっても見事なのが静と動のメリハリだ。選手たちが走り回り、疾走しているときはスピード線(人物の周りにある何本もの直線)に囲まれ、背景もなるべくきっちり描き込まれ、そのスピード感に合わせて読み手もページをめくることができる。それと対比して神業のようなプレイがあったときには余白を使って人物とボールに焦点が絞られる。観客の驚きの顔を眺めつつ、読み手もそのストップモーションに好きなだけ入り込める。画力だけではない、コマ割りや配置、文字の大きさ、セリフの有無とタイミング、漫画家に求められるすべての技術力をあますことなく発揮して、おそらく現実には起こり得ない最高のショーを見せてくれるのだ。

地元・陵南高校との練習試合。3巻#29「超高校級」102-103頁。
3巻と比べて、線の量が増えている。右上から、選手のアップ→上からの視点「俯瞰」→観客のアップ→下からの視点「アオリ」→観客のアップ→選手の目のアップ→アオリ。試合の疾走感、迫力を増すための表現力に磨きがかかっている。18巻#247「譲れない」112−113頁。
ストップモーションのような一コマ 20巻#271「ダンコ湘北」112頁。

つい先日までのこれまでになく忙しかった日々、仕事を終えて、毎晩『SLAM DUNK』を1冊ずつ読むのが楽しみだった。30年ぶりに読み返し、いろいろなシーンを覚えているかと思いきや、実に新鮮で、ただただ面白く、ひたすら興奮した。電気もいらない、本を開けば、私の手の中で誰にも邪魔されないミニシアター。だから私は漫画が好きなのだ。

注1
https://realsound.jp/book/2020/04/post-533701_2.html、2023年4月4日閲覧。読み応えのある記事であり、作品の表現の解説に興味がある方にお勧め。

注2
引用した『SLAM DUNK』はすべて、コミックス新装再編版(集英社、2018)からのもの。

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