権利は万能ではない 友利昴『エセ商標権事件簿』
もはや知財業界で「この名前を知らないならモグリ」という定番感すら出てきつつある友利昴氏の意欲作、入魂の書である。発売から半年以上、書店に向かっても棚にない状況が続いていた。『へんな商標?』(発明協会、2010)の頃から話題となり私もファンになったが、あの時の姿勢のままでブレイクスルーを起こしている先達に、とても心強く勇気を与えられている気持ちである。
思えば商標実務は私の知財人生20年の半分を占める、いわばホームであった。いくつかの事件は同業のニュースとして、あるいは時事ニュースとしてリアルタイムで知っており、懐かしく思ったり、友利氏の切れ味シャープな解説に爽快感を味わったり溜飲を下げたりしている(特に村上隆関連は大いに溜飲を下げた)。特に印象に残った事件について取り上げてみたいと思う。
面白い恋人事件
これについては私は氏の見方とは反対であることを、最初に述べておきたい。氏はこの章の冒頭で、「クラスの人気者が、文化祭のステージで校長先生のモノマネを披露したところ、これが大ウケ。その場にいた生徒も先生も保護者も、みんなが大爆笑の渦に沸いていたところで、当の校長が急にブチギレ」(104頁)となぞらえている。しかし私にとっては、吉本興業がクラスの人気者なら――まして当時、石屋製菓は不祥事(※1)を起こして間もない企業であったことをかんがみると――石屋製菓は校長ではなく物言えぬ下級生(※2)であった。
言葉は人間というものをよく知っていると思うときがあるが、人は怒ったときに、「ふざけるな」と言う。ふざける、つまり誰かを笑わせようとすることは、人の感情を逆撫でするという性質があるものだ。またモノマネは人を馬鹿にするときの常套手段である。もちろん笑いは権力への抵抗手段であるが、ここでは相手の立場は弱かった。「パロディなんだから笑って受け流せ」という姿勢は往々にして強者の論理である。日本の誇る老舗興行会社として、笑いに潜む残酷さには、誰よりも敏感なはずだと思うのだが。
石屋製菓の問題が明らかになったのは2007年だが、吉本興業の闇営業問題が明るみに出たのは2019年である。いち地方の製菓会社が警告状とか事前協議だとか、一般的な手段を取って解決しようと思えるものだろうか・・・。なお時系列で並べると、「面白い恋人」の商標出願(商願2010-66954)が2010年8月25日。石屋製菓の提訴のニュースが2011年11月。日本経済新聞の2011年11月28日付記事には「島田社長が面白い恋人の存在を知ったのは昨年(2010年)夏ごろ。当初は大阪市内の吉本系列店の販売にとどまっており、「正直びっくりしたが、パロディー商品としてすぐに販売も終わると思った」とある。「パロディを怒ったのではなく、吉本興業が永続的な自己の商売として本気を出してきたからこそ、石屋製菓も笑って済ますことはできなくなってきた」と考える方が自然だろう。
当時の栗原潔弁理士のブログにもある「吉本側・・・は「面白い恋人」を商標登録出願(2010-66954号)までしています(先願である「白い恋人」を理由に拒絶査定)。これはちょっと洒落の域を越えていると思えるので石屋製菓が怒るのも無理ないと思えます」という意見に賛成である。
とはいえ、友利氏への反論が本記事の趣旨ではない。特に次の事件は、作家さんにとっても大変興味深い件だと思う。
Bamily Mart事件
「実在の会社名や施設を作品に用いていいか」という疑問はクリエイターにとってたびたび生じるが、本書でも繰り返し説明があるように、「商品やサービスの目印として使うわけではなければ法律上の問題はない。」私は何か聞かれたらそのように回答しつつも、「爆破するとか、悪い使い方はしない方がいい」と付け加えるようにしてきたが、まさに悪い使い方になってしまったのがこの事件である。友利氏も指摘するように、よりにもよってコンビニ強盗事件の舞台に使われたとなれば、ファミリーマートが不愉快に思う気持ちはわからなくはない。しかも「Bamily Mart」にもじったといっても、実は店の外観を描いた多くのコマでは、看板の「B」の部分に反射光が描かれており、「Family Mart」とも読める描写になっていたのだ」(284頁)。
確かにファミリーマート側の「・・・コンビニにおいて強盗事件が多発する昨今の状況で、特にファミリーマート店をねらった強盗事件を誘発しかねない」(同頁)という主張は苦しく、「「気分を害しているから止めてほしい」と率直に伝えるに留めるべきこと」(285頁)であって、「権利侵害や不法行為であるかのように主張する」(同頁)は、結局見当違いな権威頼みという稚拙な印象を与える。
しかしながら、法律上問題がなければOKという考え方にも待ったをかけてくれる事件であろう。私自身は、リスクがあっても既存のものを利用したいなら、それを使う必然性があるべきだと考える。なぜローソンでもセブンイレブンでもミニストップでもなく、ファミリーマートでなければならなかったのか。結局「Bamily Mart」は「Shop24」に修正されたところを見ると、作品の提供者として考えが浅かったのではないかという印象はぬぐえない。次の嶽本野ばら氏による小説『カルピス・アルプス』とは真逆のベクトルなのである。
カルピス・アルプス事件
なぜ三ツ矢サイダーでもペプシ・コーラでもリボン・シトロンでもなく、カルピスでなければならなかったか。その答えは嶽本氏の単行本にある。夭逝した画家、田仲容子さんの絵画から着想を得て書いた物語であり、「カルピス・アルプス」は彼女の個展のタイトルであった。田仲さんご夫妻との交流、刺激の受け合い、そして田仲さんとの突然の別れ。おそらく他人には計り知れない深い涙の海から生まれた作品である。「カルピス株式会社から、如何なる条件、理由があろうと登録商標をタイトルに使用するのは許可できないといわれました。既に表紙見本も上がり、広告も出し、後は印刷するだけという段階で、NGが出たのです」(※3)そもそもそんな権利は持っていないカルピス株式会社の態度に、大好きだったカルピス飲料やバターから、私の心は離れ始めている。最終的に書籍のタイトルとして採用されたのは、『カルプス・アルピス』であった。
「強大な権利ですから」――私が商標担当者として、商標登録出願で拒絶を受けたときに上司とともに特許庁に面談に行ったとき、審査官がおっしゃったこの言葉をたびたび思い出す。その出願は審判を経ても登録にはならなかった――私が開店前のパチンコホールに入れてもらって集めた使用状況の資料をもってしても。国家が独占を許すということは、他人への使用差し止め、損害賠償請求、刑事罰の根拠となる。確かに強大な権利であり、だからこそその範囲は限定的であるべきなのである。ともすれば人の心を潰しかねない危険性とその扱い方を、友利氏は変わらぬ軽妙な筆致で示してくれている。
※1
老舗和菓子企業・赤福、一流料亭・船場吉兆を始め、全国にその名が知れている企業による「食品偽装問題」はかつて世間を賑わしたが、北海道の銘菓「白い恋人」の石屋製菓も、賞味期限偽装などの問題が大きく報じられた。
※2
それぞれの企業情報を確認するだけでも、石屋製菓は1964年創業で資本金は3,000万円、かたや吉本興業は明治にその歴史をさかのぼる、1912年創業の資本金1億円の企業。
※3
嶽本野ばら『カルプス・アルピス』小学館、2003、107頁。