見出し画像

クラシックギタリストから見るフラメンコ 菅沼聖隆サロンコンサート

「大御所」とか「重鎮」という敬称は、経験年数が長い人に与えられることがあって、真っ当に育った才能ある若者のそれには及ぶべくもない実力の人も混じっている――そんなことを考えたのはこの若きギタリスト・菅沼聖隆すがぬままさたか氏の演奏に出逢ったからだろう。プロフィールや活動内容に村治昇氏、福田進一氏など日本トップのギタリストのお名前が登場して目を引かれるが、もはやそのビッグネームを引き合いに出すまでもない、確固たる技術とパフォーマンスを持っていた。

コンサートは2部形式。1部はクラシック、2部はフラメンコだが、ギターも奏法も異なるカテゴリで、それぞれ素晴らしい演奏を聴かせてくれるというだけで稀有な存在だろう。私にとってアルベニス以外は初めて聴く曲の数々だったが、ユーモアたっぷりに解説を加えながら進めてくれた。小川のせせらぎのような響きのクラシック、速弾きも魅力のロックのようなフラメンコ。フラメンコにいたっては、伝統的な曲種に基づくオリジナルというのだから驚嘆するほかない。

そのフラメンコに対する解説の中で次のようなくだりがあった。「フラメンコの歌詞というのは、「自分の友達は家の床しかない」というような一見変なものもあるが、スペインには内戦があって、家も持ち物も破壊される中で、残ったのは床だけだったという背景がある。フラメンコというと“情熱”と言われがちだけど、どうしようもない切実な思いを歌ったものもある」と。これまで、フラメンコのダンサーやミュージシャンから、内戦の話を聞いたことがなかった私は驚いたが、ここにきてやっと納得のいく解説を聞けた気がした。もちろんフラメンコの歴史は長く、スペイン内戦は1930年代最後数年の話だが、スペイン国民にとって未だ大きな傷となっていると聞く。内戦とはいうものの、世界中の知識人が関心を寄せ、参戦もした大きな闘いであった。フラメンコの重要人物たる詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカを初めとして、多くの民衆が犠牲となった戦争に、フラメンコが影響を受けてないはずがないのだ(※)。

また菅沼氏はスペインにおいて、フラメンコの指導者から「フラメンコは、そのリズムのひとつひとつを、人生を謳歌するように表現するんだ」と聞いたという。しかし菅沼氏はここで「?」となった。そして彼にとっての疑問は、自分で調べて答えをみつけたそうである。おそらく日本の名だたるフラメンコアーティストたちは、「そうか、そうなのね!」と納得してしまったのだ。なぜなら、フラメンコの本や対談を読んでいても、私にはピンとこないからである。

"SONG OF THE OUTCASTS An Introduction to Flamenco"の著者であるRobin Totton氏は、カヴァーの裏表紙にこのように書いている。

フラメンコは説明できるものではない、という強固な信念がある。「もしここ(といって心臓に手を当て、目は天を仰ぐ)で感じなけりゃ、どんな説明も無駄だ」私はこれを聞いたときA cop-out【責任回避、逃げ】だと思った。フラメンコの素晴らしい歌い手であるCalixto Sánchezがそれに同意してくれたことは、私にとって大いに励みになった。

Robin Totton, "SONG OF THE OUTCASTS An Introduction to Flamenco", Amadeus Press, 2003. 
訳は筆者による。

なお、コンサートの第1部で、『プラテーロと私』という組曲の演奏があった。この場で初めて知った作品で、詩人フアン・ラモン・ヒメーネスが書いた散文詩をもとに、E.S. デ・ラ・マーサが作曲したというもの。愛らしいロバ、プラテーロとの幸せな日々、しかしそのプラテーロも死んでしまう。「プラテーロ!」――思わずそう叫んでしまう場面を表現する旋律が登場すると最初に説明があり、「あ、」と思う瞬間があった。観客の静寂がより一層深まった気がした。心をつかまれる表現というのは、なにもフラメンコの専売特許ではない。表現もひとつのコミュニケーションであって、言葉や技術をつくして提供すればこそ、人に感動を与えられるものなのだ。

私はクラシック音楽の世界を知らないが、音楽理論や歴史を知らずに、ミュージシャンが世に出てくることはないだろう。菅沼氏もそんな研鑽を積んできたからこそ、理解できるフラメンコの世界があるのではないだろうか。私は菅沼氏のギターを通じて、もっとクラシックやフラメンコの魅力に迫ることができるのではないかと期待している。

※「内戦 フラメンコ」で検索したところ、フェリス女学院大学学術研究リポジトリより、遠藤実華子氏による論文『20世紀における反抗のフラメンコ――観光化と独裁の狭間に苦しむアーティスト達――』が見つかったのでぜひ紹介したい。「フラメンコが持つ力というものは、独裁者フランコの政策によるところがなかったといえるだろうか」「フラメンコは学ぶものではなく感じるという人々は、その歌詞の検閲という負の側面も感じてきたのだろうか」という問いを与えてくれる、目の覚めるような力作である。

また、スペイン文学にお詳しい川成洋先生によるブログも見つかったので参考文献として。なお川成先生は、『ロルカとフラメンコーその魅力を語る』(ロルカ生誕百周年記念実行委員会編、彩流社、1998)に掲載されている対談の場において、フラメンコ業界への苦言をかなり率直に語っていてくださったことがわかり、昔からそのお名前を存じ上げていた身としてはなんだか嬉しい。もっとも、川成先生のお言葉さえ、「大御所」たちには届いていないようにも見受けられるけれども・・・。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?