若きバイラオーラ鬼頭幸穂『CAFフラメンココンクール優勝記念ライヴ〜Una Arena de Montaña Grande 〜』
まず、「CAFフラメンコ・コンクール」について簡単に。このコンクールは2001年に設立された公益財団法人スペイン舞踊振興MARUWA財団(※1)が主催するもので、CAFはConcurso de Arte Flamenco(フラメンコ・アート・コンクール?)の略称。趣旨は「若手芸術家の育成を目指し、将来性のある舞踊家を発掘し、スペインでの研修機会を提供する為の対象者選考を目的とするコンクール」とある。第1回は2002年であるが2年ごとの開催であるようで(2020-2021年は開催無し)、鬼頭氏が優勝の運びとなったのは第12回目のコンクールであった。
最初に意見の部分から述べておきたい。彼女のライヴに限った話ではないが、クラシック音楽のリサイタル、能・狂言、歌舞伎の舞台のように、予定の曲種(※2)をチラシやSNSでもいいので教えてほしいと思う(当日変更があるのは問題ない)。曲の成り立ちや意味について多少でも事前に知識があれば、より深い理解ができるのだ。ちなみに、曲名をチラシなどに記載することは著作権法上問題はないので安心して頂きたい。実行が難しい理由が個別にあるのなら話は別だが、「フラメンコ業界ではいつもそうしているから」ということであれば、業界の習慣というものはときに観客の不便となりうることは、常に(私自身もそうだが)認識するべきだと思う。
さて、このライヴは途中休憩をはさむ2部構成で、前半はソレア・ポル・ブレリア、シギリージャ、タラント。後半はアレグリアス、グアヒーラ、マルティネーテ(記憶によれば)、ソレアと、ギターだけの演奏も織り交ぜながらオーソドックスな曲種が採用されている。カンテ(歌)のShin氏やギターの福嶋隆児氏など、表情を見ていて「ノッてるな」と安心する。歌、手拍子、ギター、踊りのグループをバンドとするならば、バイレという踊り手はヴォーカルだが、個々の演奏や歌の力にお互い触発されながら温まってくるものだし、演奏技術あってこそ生まれるグルーヴがあるものだ。最初の曲ではカンテとギターの音が大きすぎてサパテアード(靴の踏み鳴らし)が聞こえづらかったが、次の曲ではバランスが良くなったので、音響さんがちゃんと調整されたのだろう。
全体として音声やトークによる説明はなく、5歳からフラメンコを始めたという彼女のこれまでの経歴を、写真とスクリーンを利用して映し出しながら進む。初めての舞台の写真、最初に一人で踊った曲のショット、別のコンクールに出演したときの様子などが、スクリーンに時系列に映し出されていく。そして優勝したコンクールで踊った「ソレア」は、この舞台上で再現されることになる。オオトリにふさわしいスクリーンの演出に胸が高鳴る。ミュージカル『レ・ミゼラブル』の舞台では、出来事の年と場所が背景の幕に映し出され、重厚な音楽とともに「1832 Paris」と眼前に現れるたびに肌が 粟立ったのを、これを書きながら思い出している。上手い演出だったと賞賛したい。
ソレアーSoleá、もとの形はSoledadで、スペイン語で「孤独」を意味するというー(※3)はフラメンコでも大変に重要な位置をしめる曲種といわれるが、必ず登場するギターのメロディ「G/A→E→D→E/G#」(※4)は私も大好きだ。特に「G/A→E」の音の連なりは、泣き腫らした顔を照らしてくれる月の光を音にしたようで、聞くたびに胸がきゅっとつかまれるように切なくなる。孤独というと「暗闇で膝を抱えてうつむいている」のも一つの表現ではあるが、ここではそうではない。チラシの地色とも共通する深緑のバタ・デ・コーラ(※5)、色とりどりの花の刺繍が施された黒のマントン(※6)でダイナミックに演じられるのは、思い通りにならない苛立ち、焦燥感。運命に身を任せて沈むのではなく、浮き上がろうとあらがっているのだ。だからこそ上からの光にハッと反応するのだろう。それが、生を表現するということではないだろうか。
パフォーマーからひとときたりとも目を離せない照明の演出も、緊張の連続だったに違いない。また、出水宏輝氏によるバイレは、このライヴ全体のクオリティを一段階高めたと言える。スタッフひとりひとりがレベルの高い仕事で作り上げた舞台作品だった。
鬼頭氏との出会いはフラメンコ教室だったが、再会は私がイスラエル・ガルバンのライヴを観に行った帰りのスペインバルだった。きびきびと給仕をしてくださる彼女を引き止めて話をしたときにお聞きした、「パコ(・デ・ルシアのギター)を聴くと泣けてくる・・・」という言葉に私は衝撃を受けた。感受性というのは誰でもが一律に持っているものではなく、訓練を経て育むものだが、彼女は生まれ持った感覚がすでに違うと思った。クラシック音楽やオペラなど西洋の古典芸術にも惹かれるというその精神性や感受性に、妙な言い方かもしれないが私は安堵しているのである。「知り合いのジプシーの老女が、バッハの音楽にはデュエンデがあると自信満々の口調で言っていたわ」(※7)という、私の大好きな言葉を、きっとわかってくださると思う。大陸の風土、歴史、とりわけスペイン戦争、信仰、涙から紡がれた、幅広い先人たちの表現ー絵画、舞台、映画、音楽も含めてーのひとつにフラメンコはある。ぜひこれからも、彼女の言葉で、われわれにそのストーリーを踊ってみせてほしい。
※1 https://mwf.or.jp/caf/1680/
※2 曲の題名ではなく曲の形式で、パロと呼ばれる。「ワルツ」とか「ロンド」とかが曲の形式を表すのと似ているかなと理解しているが、イコールで考えられるかは自信がない。
※3 「5 ソレア及びアレグリア」、浜田滋郎『フラメンコの歴史』晶文社、1983、169頁。
※4 ソレアのギター譜を見ながらピアノで音を取ったもので、違うかもしれない。参照:Soleares(por: Juan Carmona Habichuela; arreglo: Akira Seta)、瀬田彰編『フラメンコギター曲集Ⅰ「野いちご」』現代ギター社、2006。
※5・6 バタ・デ・コーラはフラメンコの衣装の一つで、以下リンク先の写真のように、長い長いしっぽが特徴。見た目は優雅だがものすごく重いそうで、高度な技術が要求される。マントンは写真の女性が持っている大判のストールのような真四角の布で、振り回したりして大きな動きを演出する。
※7 ジェイソン・ウェブスター、田中志ほり訳『デュエンデ フラメンコの魔力に魅せられて』ランダムハウス講談社、2006、387頁。
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