チャールズ・スポルジョン『朝ごとに』2024年4月17日

[18-19] あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。
[20] 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。
[21] また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。
[22] しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、
[23] 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、
[24] 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。

"Ye are come to the blood of sprinkling, that speaketh better things than that of Abel."Hebrews 12:24
「あなたがたは、アベルの血よりも雄弁に語る、降り注ぐ血の許に来たのです」(ヘブライ12:24)


Reader, have you come to the blood of sprinkling?読者よ、あなたは「降り注ぐ血」の許に来ているだろうか?

The question is not whether you have come to a knowledge of doctrine, or an observance of ceremonies, or to a certain form of experience, but have you come to the blood of Jesus?
問題は、あなたが教義の知識を得たか、儀式を遵守したか、あるいはある種の経験をしたかではなく、「イエスの血の許に来ているかどうか」なのだ。

The blood of Jesus is the life of all vital godliness.
イエスの血は、すべての重要な神性の命である。

If you have truly come to Jesus, we know how you came—the Holy Spirit sweetly brought you there.
もしあなたが本当にイエスの許に来たのなら、「あなたがどのようにして来たか」は明らかだ-
それは、聖霊があなたをそこに連れてきてくれたのだ。

You came to the blood of sprinkling with no merits of your own.
あなたは、自分自身の「善きもの」など何も持たずに、この血潮を浴びに来たのだ。

Guilty, lost, and helpless, you came to take that blood, and that blood alone, as your everlasting hope.
罪深く、何も持たず、無力なあなたたちは、その血を、その血だけを、永遠の希望とするために来たのだ。

You came to the cross of Christ, with a trembling and an aching heart;
and oh! what a precious sound it was to you to hear the voice of the blood of Jesus!
あなたは震え、心を痛めながら、キリストの十字架のもとに来た;
ああ、イエスの血の声を聞くことは、あなたにとって何と尊い響きであったことか!

The dropping of his blood is as the music of heaven to the penitent sons of earth.
彼の血の滴りは、悔悛した地上の息子たちにとって天の音楽のようなものだ。

We are full of sin,
but the Saviour bids us lift our eyes to him, and as we gaze upon his streaming wounds, each drop of blood, as it falls, cries,
"It is finished;
I have made an end of sin;
I have brought in everlasting righteousness."
私たちは罪に満ちている、
しかし、救い主は私たちに目を彼に向けさせ、彼の流れるような傷を見つめて、滴り落ちる血の一滴一滴が叫ぶ、
「全ては終わった;
私は罪を終わらせ、永遠の義をもたらした。」

Oh! sweet language of the precious blood of Jesus!
ああ、イエスの尊い血が発する甘美な言葉よ!

If you have come to that blood once, you will come to it constantly.
あなたが一度でもその血に触れたなら、常にその血に触れることになる。

Your life will be "Looking unto Jesus."
あなたの人生は 「イエスを仰ぎ見ること」一点に集中する。

Your whole conduct will be epitomized in this—
"To whom coming."
あなたの行動は全て、「誰の許に来るのか」ということに集約される。

Not to whom I have come, but to whom I am always coming.
それも「誰の許に来たことがあるか」ではなく、「いつも誰のもとに来ているのか」という問題だ。

If thou hast ever come to the blood of sprinkling, thou wilt feel thy need of coming to it every day.
もし、あなたが今までに血まみれになったことがあるなら、毎日血まみれになる必要性を感じるだろう。

He who does not desire to wash in it every day, has never washed in it at all.
「毎日この水で身を浄めたい」と思わない者は、この水で身を浄めたことがないのだ。

The believer ever feels it to be his joy and privilege that there is still a fountain opened.
信者は、今この時も命泉が開かれていることを、「自分の喜びであり特権である」と感じて止まないのだ。

Past experiences are doubtful food for Christians;
a present coming to Christ alone can give us joy and comfort.
クリスチャンにとって、過去の経験は「頼りになる糧」とは言い難い。
「今この時、キリストの許に来ている」ということだけが、私たちに喜びと慰めを与えてくれる。

This morning let us sprinkle our door-post fresh with blood,
and then feast upon the Lamb, assured that the destroying angel must pass us by.
今朝、門柱に新鮮な血を振りかけよう、
そして、滅ぼす天使がわれわれを通り過ぎることを確信しながら、小羊に舌鼓を打とう。





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