チャールズ・スポルジョン『朝ごとに』2024年3月21日
"Ye shall be scattered, every man to his own, and shall leave me alone."
John 16:32
あなたがたは散り散りになり、それぞれの人が自分のものとなり、私を一人にするでしょう。
(ヨハネ16:32)
Few had fellowship with the sorrows of Gethsemane.
ゲツセマネの悲しみを経験した人は殆どいなかった。
The majority of the disciples were not sufficiently advanced in grace to be admitted to behold the mysteries of "the agony."
弟子たちの大部分は、恵みにおいて十分に成長していなかったので、「苦しみ」の神秘を見ることが出来なかった。
Occupied with the passover feast at their own houses, they represent the many who live upon the letter, but are mere babes as to the spirit of the gospel.
自分たちの家で過越の祝宴に夢中になっている彼らは、遺された文字に従って生活してはいるが、福音の精神については乳飲み子にすぎない、多くの人々を象徴している。
To twelve, nay, to eleven only was the privilege given to enter Gethsemane and see "this great sight."
使徒である12人、いや11人だけに、ゲッセマネに入り「この偉大な光景」を見る特権が与えられた。
Out of the eleven, eight were left at a distance;
they had fellowship, but not of that intimate sort to which men greatly beloved are admitted.
11人のうち、8人は離れた場所に残された;
彼らは主との交わりを持ってはいたが、とりわけ愛されている人たちに許されるような親密な交わりではなかった。
Only three highly favoured ones could approach the veil of our Lord's mysterious sorrow:
within that veil even these must not intrude;
a stone's-cast distance must be left between.
私たちの主の神秘的な悲しみのベールに近づくことができるのは、3人の非常に恵まれた者だけである:
尤もその3人さえ、ヴェールの内側に侵入することは許されなかった。
石を投げて届くぐらいの距離が無くてはならなかった。
He must tread the wine-press alone, and of the people there must be none with him.
彼は一人で葡萄を踏まなければならず、人々の誰もが彼と共に居ることを許されなかった。
Peter and the two sons of Zebedee, represent the few eminent, experienced saints, who may be written down as "Fathers;"
these having done business on great waters, can in some degree measure the huge Atlantic waves of their Redeemer's passion.
ペテロとゼベダイの二人の息子、すなわちヤコブとヨハネは、"信仰の父"として歴史に名を残す、数少ない傑出した経験豊かな聖徒を表している。
「人間を獲る漁師」として、キリストと共に大海原で働いてきた彼らは、彼らの贖い主に押し寄せる「受難」という巨大な波を、ある程度推し測ることができる存在だ。
To some selected spirits it is given, for the good of others, and to strengthen them for future, special, and tremendous conflict, to enter the inner circle and hear the pleadings of the suffering High Priest;
they have fellowship with him in his sufferings, and are made conformable unto his death.
選ばれた何人かの霊魂には、他の霊魂のために、そして将来の特別で途方もない戦いに備えて彼らを強化するために、輪の内側に入り、「苦悩する大祭司の嘆願を聞くこと」が与えられる。
彼らはイエスの苦しみの中で彼と交わり、彼の死にふさわしい者とされる。
Yet even these cannot penetrate the secret places of the Saviour's woe.
しかし彼らでさえも、救い主の苦しみの秘密の場所に入り込むことはできないのだ。
"Thine unknown sufferings" is the remarkable expression of the Greek liturgy:
there was an inner chamber in our Master's grief, shut out from human knowledge and fellowship.
「汝の知られざる苦しみ」は、ギリシャ典礼の注目すべき表現である。
私たちの主の悲しみの中には、人間の知識や交わりから遮断された領域があるのだ。
There Jesus is "left alone."
そこでイエスは「ひとり残された」。
Here Jesus was more than ever an "Unspeakable gift!"
ここでのイエスは、かつてないほどに「言葉にならない贈り物」であった。
Is not Watts right when he sings—
"And all the unknown joys he gives,
Were bought with agonies unknown."
まさにワッツ(※)が歌う通りではないか?
「そして彼が与える未知の喜びはすべて、
未知の苦しみを通して買い取られたのだ。」
訳註…アイザック・ワッツ(1674〜1748)。イギリスの牧師で「もろびとこぞりて」「さかえの主イエスの」など多くの讃美歌を作詞した。
上記の歌詞についてはリンク(https://www.ccel.org/ccel/watts/psalmshymns.III.12.html)を参照。