感謝と祈りによる生き方

感謝を持って祈りつつ目を覚ます。
それは神を礼拝することから始まる。

忠実に神を礼拝し、神の完成の御業にあずかっていくことを知ること。

私達の祈りの中に、感謝はどれだけあるだろうか。
祈りを捧げると言いながら、高慢になることに気をつけたい。

感謝に生きるからこそ、弱い人達に恵みや助けがあるように、
心と思いを寄せながら、わざが執り行われていく。

それが、たゆみなく祈り、目を覚まして祈るということ。

そこには祈りが必要。
とりなしの祈りを通して聖霊の助けがなければならない。

自分の行いを強調し、他の人をさばくようになっていないだろうか。

パウロは、神の言葉はつながれていない、と語る。

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。(IIテモテ2:9)

ときの権力者、支配者に対して、神の義と裁きを伝え、
悪しき行いに対する警告となる。

黙らずに、神の国の奥義を語る人が投獄されていく。

しかし神の言葉はつながれていない。

語るべきことを大胆に語る。
人を恐れず大胆に語るために、祈りが必要である。

教会の祈りが、宣教の力を強くする。

宣教師たちが疲れを覚え、落ち込み祈れないとき。
家族が危険にされされるとき。

諸教会の祈りを聞かれる神が、
宣教師たちを励ます。

教会の礼拝を中心として、祈りによって生きる人生。
聖霊の助けを得て、生きる生き方。

感謝がなければ、何が残るだろうか。
文句、批判、貪欲。

自分の内側が塩気を保つためには、
自ら清められなければならない。

清めてもらうために、祈りが必要である。

キリストを神として礼拝すること。
様々な苦労を経験した歴史がある。

日本の福音宣教の反省。

クリスチャンがノンクリスチャンの上に立って福音を伝え、
苦悩により添えずに来たこと。

救われた人、天に向かう人。
受け入れなさい。

それによって多くの人が傷ついた。

1974年、第1回ローザンヌ世界宣教会議がスイスで開かれた。
救いののぞみを聖書に置く人たちが、福音派である、とされた。

感謝と祈りによる生き方が必要である。

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