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健全な教会形成をするために

エペソでは女性が活躍していた。
しかし、自由度が上がるにつれ、
それぞれが身勝手な教えをするようになっていた

パウロはそのような経緯を踏まえ、
女性が教会で教えることを許さない、とした。

これはエペソ教会の特殊な事情である。
そのため、字義通りに聖書を読まないように注意する必要がある。

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

Iテモテ3:2-4

いつも食事をともにするイエス。
御言葉の大切なことを伝えていく。

「酒飲みでなく」をそのまま捉えると、
多くの教会に仕える人々は、失格となってしまう。

ここで聖書が語っていることは、
酒に溺れることなく、ということである。

金銭についても、
主の前にごまかしをしていないかどうか、を求められている。

パウロが指摘しているのは、信仰を持って間もない人が、
長い信仰経験者であるかのように、高慢になってしまうこと。

御言葉の霊的解釈を適切に判断することは難しい。
神学的な教会形成を深めることは大変である。

僅かな教会生活しかなければ、
社会的な常識や慣習から答えを出そうとしてしまう。

それを教会に適用してしまうと、合理的な考えによって
教会が判断をしてしまうこととなる。

霊的な判断をしなくても良い教会。

そうなると、信仰告白共同体ではなくなる。
単なる人間コミュニティ。

合理的な判断とならない場合もあることを、
わきまえなければならない。

社会で信頼されて、伝道できる人。
信仰知識を持っているだけでも、ふさわしいわけではない。

隣人から信頼されていることが必要。
この人が言うことを信じて教会に行ってみよう、と思われる品格。

あの人はクリスチャンだというのに、あの態度はなんだ、
とそしりを受けるようなことがあってはならない。

ここまで述べてきたこと。
それを律法主義と捉えることは良いことではない。

パウロの助言を律法主義的に捉えると、
役員を志す人も、リーダーを志す人も、起こされない。

健全な教会形成が求められている。

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