高慢と謙遜

私たちは、正義を守る戦いの中にいる。

善と悪の間には、明確な違いがある。
子供に対数接し方など。

バベルの塔よりももっと前のこと。
人々が散らされる前から、神から学んだこと。

バベルの塔で人々が散らされて以降、
秩序は失われてしまった。

神の真理とは全く違う方向のこと。

悪魔は欺くものであり、神の言葉を疑わせるため、懸命に働き掛けてくる。
それは、神は本当にそう言ったのか?と言う投げかけ。

神が私たちに御言葉を与えたとしても、
敵はそれを私たちの元から奪い去ってしまう。

それはどのように行われるのだろうか。
人間の高慢さ、プライドに訴えかけてくる。

エバの神のようになりたいという高慢さ。

人々が持つプライドのせいで、全てを失ってしまった人々の話が聖書には多く記されている。

アダムとエバはその結果、神の園を追い出されてしまった。

もう一つの事例が、Iサムエルに記されているサウル王。
彼の持つプライドは彼を盲目にしてしまった。

「サムエルはサウルに言った。「主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主が語られる御言葉を聞きなさい。 万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。 行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」」
サムエル記上‬ ‭15‬:‭1‬-‭3‬ 新共同訳‬

なぜ神はこのようなことを言われたのか。
それは、アマレク人、すなわちアナクに関連する。

イスラエルの歴史の中で、アマレク人は彼らを苦しめる存在としてして、何度も登場する。そのため神は、彼らを完全に滅ぼすことを望んだ。

しかしサウルは完全に滅ぼすことをしなかった。
それどころか、動物の中で良いものを自分たちのために残し、彼らの王を殺さなかった。

自分の好きなことをだけを選び残す、自分勝手な行為。

「主の言葉がサムエルに臨んだ。 「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。」
サムエル記上‬ ‭15‬:‭10‬-‭11‬ 新共同訳‬
「サムエルはサウルに言った。「あなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ。」」
サムエル記上‬ ‭15‬:‭26‬ 新共同訳‬

人々は、権力の持つ誘惑に負けてしまうことがある。
自分の影響力を誤った仕方で使ってしまう。

結果として人々を操り、分裂を引き起こすようなこと。
聖句を捻じ曲げて、自分の自分の意図の通りに語ること。

悪魔も荒野でイエスにイエスに同じようなことをした。
悪魔は御言葉を捻じ曲げることが得意である。

神の御言葉を使うときは、細心の注意を払わなければならない。

「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」
ヤコブの手紙‬ ‭3‬:‭1‬ 新共同訳‬

聖書を用いて人々を励ます多くのクリスチャンがいる。
恐れることはない。それは悪魔に対する最善の対抗策であるから。

ただ、細心の注意を払えば良い。

権威のある立場。神に召されていないのだとすれば、自分の力で活動していることになってしまう。

謙ること

高慢さと謙遜さ二つの対比がよく見られる。
サウルが自分の高慢さの罪を犯した時、彼は責任転嫁をしていた。

サウロは許しをこうた時、神に対してではなく民衆の前での自分の評判の方を気にしていた。神から拒絶されたとしても、まだ自分を王と認めてほしい、とサムエルに縋っていた。

ダビデが預言者ナタンから罪を突きつけられた時、彼は自分の罪とために生まれてきた子供のために断食をした。これこそが、神の前における謙遜さである。

自分の自分のプライドで目を曇らせてはいけない。

神に対してどう応答するか。それによってあなたの運命が変わる。

私たちは弱く、高慢になりがちである。助けてもらえるように、神に祈ろう。

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