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愛の勇み足

箴言 3:27,28   2024 03 07 (木)
あなたの手に善を行う力があるとき、受けるべき者にそれを控えてはならない。あなたに物があるとき、隣人に向かって、「帰って、また来なさい。明日あげよう」と言うな。

今日の金言は、信仰を他者への行いに結びつけよということでしょう。みことばやメッセージに恵まれたというのは幸いですが、それはスタートラインに立ったにすぎません。何かを得たように、自分の何かが変わったように思いますが、行いのレースはまだ始まっていないからです。そのみことばが当てはまる状況が来たときに初めて真価が問われます。話は単純です。行うのか行わないのか。従うのか従わないのか。特に困っている人に対してどのように実際的に助けるのかが問われます。

ここでクリスチャンならではの魔法の言葉が使えます。「お祈りしています」です。ほんとうに祈るほか手も足も出ないことはあります。しかし手も足も出ることもあります。そのとき魔法の言葉で終わるなら、行いのない信仰にならないでしょうか。信仰の仲間とは血のつながりはないかもしれませんが、神の家族とはされています。私たちの断りなしに自動的に「キリストのからだ」として一体にされています。教会はイエス・コミュニティと言い換えることもできるでしょう。血のつながりとは次元の違う深い関係です。ノンクリスチャンとは地上限りですが、神の家族とは永遠だからです。

それは聖餐式によく表現されます。それを英語ではホーリーコミュニオン (聖なる一体、交わり) と言うそうですが、教会の本質をよく表していると思います。そこでキリストと一体とされていることを確認するだけでなく、教会メンバーと一体とされていることを確認します (実は全世界全時代のクリスチャンと一体にされています。クリスチャンはその一細胞です )。メンバーどうしの仲がいいとか悪いとかはまったく関係ありません。人として生まれたら自動的に家族に入れられるのと一緒です。キリストを受け入れた瞬間に神の家族に入れられます。ですから「私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」(ガラテヤ6:10)。

他人どうしが神の家族という理由で助け合うなら、神さまに喜ばれ、世の人からも好意を持たれるでしょう「民は彼らを尊敬していた」(使徒5:13)。ですから聖書的に善を行うとは「少し厚かましく、少しお節介な」付き合いをすることではないでしょうか。日本人の心の岩盤層には「人に迷惑をかけてはいけない」という信念が居座っています。これによってガラス細工どうしが触れ合うような傷つきやすいコミュニケーションを築いてきました。このおかげで日本は世界に冠たる「おもてなし大国」となれました。人に責められる前にあらかじめ対応するという過敏な文化を造り上げてきたのです。しかしこれは行き過ぎです。人はどう転んでも人に迷惑をかけないでは生きてゆけませんし、人からも無数に迷惑をかけられてきたはずです。つまり「迷惑は天下の回りもの」ですから堂々としておれば良いのです。しかし聖書の価値観は、神から受けた愛を人にどう与えるかでしょう。そこには相手から拒まれるという危険もはらみます。

けれども神さまは結果で責めることはないので、愛の勇み足は神さまに歓迎されます。見逃し三振より空振り三振のほうが良いのです。ときに関係の親密さは、面倒くささで計られます。親密になればめんどくさくささも出てきます。めんどくさくないのは関係が薄いと言えるでしょう。時にはめんどくさくても魔法の言葉で終わらせず、「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか」(ヘブル10:24)。ハリネズミのようにお互い程よい距離を取る教会ではこの世界に影響は与えられないでしょう。主にあっていささか面倒くさくお節介で厚かましい教会コミュニティになろうではありませんか。とは言えいつもいつもでは疲れますから、「いい加減に」愛しましょう。

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