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因果応報はない

ヨハネの福音書 9:1,2,3    2024 08 05 (月) 
さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」。イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。

イエスの弟子たちは盲人になったことを因果応報的に解釈しようとしており、何が原因ですかと尋ねています。しかしその答えは予想にないものでした。原因のはっきりしないものについては、因果応報なるものはない、誰のせいでもないと言ったのです。

誰かから「あなたにも原因があるのではないか、あなたも悪いのではないか、身から出たさびではないか、自業自得ではないか」と言われたら、そのとおりだと納得するのではないでしょうか。しかし結論から言って降りかかった災難を因果で説明することにはまったく根拠がありません (ただし原因結果のはっきりしている場合は別です)。

そう考えるほうが腑に落ちるのですが、人間のトリセツである聖書のどこを読んでも苦難を受ける理由は書いてありません。「なぜ真面目に生きている自分が苦しまなくてはならないのか」という問いから、あらゆる宗教、思想、哲学、言い伝えなどが発生したと言ってもよいくらいです。しかし苦難の原因は「神の秘密」に属することであり、人間には知り得ないというのが聖書の言うところです。

ですから自分のせいにしたり、人のせいにしたり、神のせいにしたりして決着をつけようとすることは、まったく的外れです。停車中に追突されるようなもので、どんなに模範的な運転をしていても避けられません。しかしこれだけは言えます。「自分のせいでなく降りかかった災難と、自分の行いとはまったく関係ない」ということです。天罰が降るとかバチが当たることはないのです。人間が勝手に落とし前をつけているに過ぎません。

しかしこの苦しみから神さまが何か良いものを生み出してくださるにちがいないと期待することは推奨されます。つまり聖書によればこの世界に因果応報というものはない、それは人間の小さな頭からひねり出した悪あがきに過ぎないからです。これは人間のメーカーである神さまが断言しているので間違いありません 。誤った観念で犯人探しの時間と労力を費やすのは不毛です。

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