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話しをしようよ。

 “密”を避けるようにソーシャルディスタンスをキープすることが新しい日常なのだと言われてきた1年半。“コロナうつ”などと一部のマスメディアで言われているものの正体は何でしょうか。

 それは多分、精神的な「すき間」のなさではないかと私は考えています。

 精神的なすき間。それはどうでもいい時間だったり、気の置けない人との無駄話だったり、目的なく揺蕩うような時間と空間とでも言いましょうか。少なくとも私にとってコロナ禍突入直後は、リモートワークで職住が一体化して労働が生活に侵食してくる、そしてその中で自分や家族の健康といのちの心配をする先の見えない日々。今思い出すだけで心がひりつくような時間でした。体はいつもと同じでも、心は常に何かに刺激されているような、静かな喧騒に覆われていたような気がします。

 そのなかで圧倒的に足りなかったのは、一人の時間。本や好きな飲み物を用意して、適当な姿勢で何にも邪魔されず過ごすぜいたくさ。

 ちなみにこの原稿の下書きを万年筆で書いている今は都内のコーヒーショップにいます(編者注:2021年末の話)。書いてみて気づきましたが、こうして家の外で書き物や読み物をするのは1年以上ぶり(!)です。好きな音楽を聴きつつ、雑踏に囲まれての作業の、進むこと進むこと。

 閑話休題。

 人は社会的な動物ですし、基本的には群れで暮らす生き物です。しかし人と人との物理的な距離が長期間にわたって近づきすぎると、家族であろうと他人であろうと、心のすき間がなくなって、ストレスがたまるのも事実。それも、緊張や不安が高い状態であればなおさら。

  これはコロナ禍に関係なく、子育て期のいわゆるワンオペ育児にも通じるものかもしれません。

  家族は他人の始まりです。いくら愛していても、「私」と「あなた」は別の人。夫と妻、親と子どもも別人格。けれど、親しくなりすぎてしまうと、近くなりすぎてしまうと、なぜか皆それを忘れてしまいがちです。相手の存在が近くなりすぎて自他の境界が薄くなってくると、相手が自分と違うということに対して強い違和感を覚えたり、相手がなかなか思い通りになってくれないことへの苛立ちを感じたりするものです。

  では、家族が他人であることを忘れずにいるために必要なものは何でしょうか。それはたくさんあると思いますが、私は、まずは会話、ダイアローグだと思うのです。それも、生産性があるのかないのかわからないような、どうでもいい話。すき間時間にするような、どうでもいい無駄話。自他の境界を際立たせ、対人間の緊張をほぐすには、無駄話が特効薬になるのではないでしょうか。

  「すき間を埋める」のではなく「すき間を生み出すために必要な会話」というものが、必ずあります。

  言わなくてもわかってくれるはず、という甘えと察しの文化が強い日本では「沈黙は金」と思われがちですが、声を出せば沈黙は簡単に破れますし、言葉に乗せて伝えることは、時に沈黙を乗り越えることができると思うのです。

  そしてもう一つ、すき間を生み出すものにペットがあるのですが、それはまた別の機会に。
                                                                                                  (文責:C.N)

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