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友がみなわれよりえらく見える日よ・・・ ええ、ええ、私にも覚えがあります。同窓の友人たちが仕事でどんどん活躍したり、海外に留学したりしていく中、自分は・・・ と。 自分が怠けているように感じるとき、他人のほうが自分よりずっと頑張っていると思うときも、恥ずかしくて頑張っている人の前に出られないような気持ちになりますね。 私は、自分の子ども達が小さいとき、育児と家事で手いっぱいで、社会で活躍する友人たちと比べて「なんでもない」自分が、かなり、後ろめたくて寂しかったです
表題は という石川啄木の有名な歌の上の句を少々変えてみたものです。こうしてほんの少しでも変えてみると、啄木の歌の才能と、彼が抱えた痛いほどの孤独がありありと伝わって来ますが、それはさておき。 どうして自分だけ、という思いがもたらすものは本当に多岐にわたります。 そんな時は自分というものが卑小に見えて仕方なく、新しいものに手を伸ばしたり新しい場所に足を踏み入れたりといったことは難しくなるような気がします。 自分がそんな場所やものにふさわしいと思えなくなるから。
たまに、思うことはありませんか? なんで、この人は良いのに、自分は駄目なんだろうって。 同じことをしているはずなのに。同じぐらいの努力だったり、同じぐらいのミスだったり、同じぐらいのずるだったり、同じぐらいのわがままだったり。 そんなに違いはないはずなのに。 自分はなぜか、うまくいかなくて、許されなくて、損ばかりしてるような気持ちになることが。 人はうまくやってるのに、自分はそれが出来ていないような…。 でも、それってきっと方向性の違いなのではないかと思うのです。
宮沢賢治は「ほんとうのこと」を知っていたかどうかだって? うーん、全然分からない、ごめん。『銀河鉄道の父』(門井慶喜 講談社)も映画化されたし、タイムリーな人であるけど、残念ながらほとんど読んだことがない。 最初に読んだのはもちろん、児童文学である「注文の多い料理店」だったが、あまり好きにならなかった。次に目にしたのが「グスコーブドリの伝記」。全体に漂う暗い雰囲気が好きにならず、「セロ弾きのゴーシュ」はアニメで見た記憶がうっすらある程度、その後は宮沢作品は手に取っていない
旅って良いものですよね。いつもと違う時間、いつもと違う場所、いつもと違う風景。その一つ一つが新鮮で。 旅先で見つけた景色に、心が奪われる経験をしたことはあるでしょうか? 例えば、一面のすすき野原の上に浮かんだ三日月の美しさや、夕陽が富士山のふもとに沈んでいく姿や夕闇と合わさって溶けていくような空の儚さや、高台から見渡した小さな町と海の光などのまぶしさ、などなど。 このような景色の中にたたずんでいると、自分自身もその世界に包まれているような、ずっと見ていたい
お二人、お返事ありがとう。 そうか、年齢によっても違いますよねえ。私は幼児さんや小学生を念頭に置いて書いていたからそこまで考えが及ばなかった。その分、何だかぐるぐるしています。 見通しが立つこと、甘えと諦めと、成長と叫び。 自傷はその人のボディイメージや身体感覚とも関係あるだろうし、他害は他害で自他境界の曖昧さとかその辺の不安定さもあるかもなあとか、色々考えてしまいました。自傷も他害も決して薦められたものではないけれど、その人の中に誰にも聞き届けられない何かがあって、