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みっともない女


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

あらすじ:
主人公の由美子は、経験を積んできたぶんのスキルだけはあるものの、もはや需要のない時代遅れの中年派遣社員。そんな彼女は自己評価が極めて低く、自分をデブでブサイクなみっともない女と呼ぶ。仕事もなにもかも人生のすべてが自分の理想とはかけ離れた現実を生きていることに絶望していた彼女が、ひょんなことから出会った男性・悠一のひと言で、自分自身とその生き方を見つめ直していくシンデレラストーリー。きっかけなんて、はじまりは、ほんの小さなものなんだ、あとは自分次第だよ、ということを伝えたい小説です。

本編:


終業チャイムが鳴る。
いつものように私は大急ぎで自席を後にし、エレベーターに向かってダッシュする。周囲からは変わった人、と思われてるのは知ってる。思わせとけばいい。実際わたしは変わっているのだろうから。

逃げたいのだ。あの場から、オフィスのデスクから逃げたいのだ。
できることなら、あんなところで仕事をしていたくない。
ただ、今さらこの年齢で、ただの事務職しか経験してこなかったバカなわたしに転職など不可能だろう。
派遣社員として、いくつもの大手企業を渡り歩き、キャリアを積んできたつもりのわたしは、気がついたらどこにも居場所のないただの能無しおばさんになっていた。
次の現場を探さなければならなくなるたびに年齢の壁にぶち当たる。派遣スタッフにキャリアを求めている企業などない、欲しいのは意見を言わない花になる若い子なのだ、という現実を痛いほど思い知った。それに派遣社員はいくら頑張ろうが3年たてばお払い箱。いつだかの総理が定めた派遣法という縛りがあるからだ。
つまり今の私は、この物好きな会社に拾ってもらえたラッキーな身であって、あのデスクにしがみついて自分の居場所を確保して働いているしかないのだ。でも逃げたくて仕方ない。
 
このビルのエレベーターは、1回乗り過ごしてしまうと次が来るのに何分も待たなければならない。
その上、上層階から乗ってくる人たちでいっぱいで乗れなかったりすると、大げさな話でなく、次はいつ乗れるか分からない。
ここは17階。階段で降りるには面倒すぎる。
だから私は就業チャイムが鳴る前からデスクまわりを片付けはじめ、チャイムが鳴ると同時にダッシュして帰るのだ。
いつお咎めがくるかとビクビクしながら。

今日は間に合った。
すし詰めなエレベーターに乗りこむ。ブザーはならない。セーフだ。
背後に立つ別会社の男性が舌打ちするのが聞こえた。慣れてはいるがちょっと惨めな気分になった。なぜならわたしはデブだからだ。普通の体型の若い子だったら、同じことをしてもむしろ歓迎されるのだろう。

身も心も窮屈な短くも長い時間を耐えてエレベーターは1階に着いた。
セキュリティカードをあててゲートを抜け、ロビーを走り抜ける。
デブが走る姿はなかなかにみっともないことは別のデブを見て知っている。それでもわたしは走る。

外は小雨が降っていた。
今年の梅雨は本当によく降る。傘はデスクの引き出しの中に置いてきてしまったが、この程度の雨なら傘などいらない。傘の波を抜けながら、私は駅へ向かってひた走る。
毎日こうだ。仕事が終わると職場から逃げるように走る。ある1本の電車を絶対に逃したくないのだ。その1本を逃したがために、この大嫌いな街に10分も15分も足止めをくらうのはごめんだった。だから駅までとにかく走る。
およそ10分。疲れる。ツライ。デブだから余計なのだろう。みっともない。でもいい。わたしなど、何をしようが、しまいが、どのみちみっともないのだから。

傘の波にブロックされて交差点の信号に足止めされてしまった。ジリジリと時間が過ぎる。早く青になれ!
青になった!
あれ?足が動かない。走れない。なにやってんだろ、わたし。
みっともない。
横断歩道のど真ん中で倒れる気?
これが痩せた若い女子だったら、男性諸君はこぞって助けてくれるのだろう、が、わたしみたいなみっともない女はダメだ。倒れるわけにはいかない。
私はクラクラする頭で踏ん張った。そして、朦朧としながら一歩一歩足を動かした。もう走れない。私の中から気力という原動力の泉が枯れてしまった。
雨は本降りになっていた。
デブが傘もささずにどしゃ降りの中をよたよた歩いている。どんなにかみっともないだろう。
横目に見ながら通り過ぎる人、見ないふりをして通り過ぎる人といろいろだ。
最寄りの総合病院まで歩く元気もなく、目の前の立派な漢方薬局を訪ねてみた。

客はいなかった。
カウンターにある銀色のチャイムを鳴らすと奥から初老の女性があらわれた。話によれば、本来は予約制なのだそうだ。今日は空いてるから特別に診てくれるとのことで助かった。
広い応接室に横並びに座り、詳しい問診が始った。足の脛をさわり、特にむくみもないし、と初老の薬剤師は首をひねった。血圧をはかってみましょう、と言われ、私は測定器の筒に腕をつっこんだ。薬剤師は首をひねり、もう一回ね、と言った。2度目の測定値は私も見た。上が200を超えていた。今、薬を処方してきますから少々お待ちくださいませ、と言われ、私は否応なしに、保険がきかない高い漢方薬を買うことになってしまった。
漢方薬は3種類出された。筆字で飲み方が書いてあるA4用紙も3枚くれた。
錠剤ではなく、煮だす本格的なものだった。1日3回というが、お昼に飲めるわけがない。それに私は子供の頃から服用している薬もある。自然由来の漢方薬とはいえ、西洋薬との相性もあると聞いたことがあるが、その話は一切出なかった。それより一番不信感を抱いたのは、病院へ行くことを勧めなかったことだ。血圧が200以上もあったら、即効性のある西洋薬の服用が必要なことぐらい私にもわかる。2週間分の漢方薬の会計は2万円近くした。わたしは目眩を覚えながら漢方薬局を後にした。


今日は格別に何もかもが上手くいかない。
わたしは惨めさに耐えきれず、通りのコーヒー屋に逃げこんだ。

傘を持たず、びしょ濡れのわたしを店員が迷惑そうに見た。
知った事か。わたしは客だ。
それでもお詫びの意味合いを込めて、このコーヒー屋で一番高い、食べたくもないケーキセットを頼んだ。
予想通りパサパサでお世辞にも美味しいとはいえないケーキだった。こんなものに800円も出してしまった。

今日は金曜日、店内を盗み見してみると、仕事帰りにここで待ち合わせしたらしいカップルがあちこちにいる。私には無縁な世界だ。だってわたしには彼氏なんて高嶺の花だって知ってるから。なんといっても、わたしはデブでブスでみっともないのだから。

わたしは窓沿いのカウンター席に座っていた。人と顔を合わせないで済むからだ。窓の向こうの駅に向かう人の束を眺めていた。
店の中と外とでは、たった一枚のガラス越しで、違う時間が流れているようだった。
残り少ないコーヒーをすすった。その時、男の人が頭にカバンをのせて雨をよけながら店の入り口にやって来たのが目に入った。
顔はカバンで隠れてよく見えなかったが背の高い人だ。
その人は開いた自動ドアを入り、おそらくコーヒーでも注文しているのだろう、それから店内をサッと見まわして目ぼしをつけた席に向かって歩き出した。
私は盗み見が得意だ。見ていたことには気づかれていない自信があった。
その人がわたしの隣にきて何か言った。ちょうどその時、雷のすごい音がして、その人の言葉は何も聞きとれなかった。なのにわたしはブサイクな笑顔で頷いた。その人も頷いて微笑み返し、わたしの隣の席に座った。

会話はなかった。
当たり前だ。映画やドラマみたいに、ただコーヒー屋で偶然隣の席になった人と会話などあるはずがない。綺麗な女性ならともかく。
わたしは何となくいたたまれなくなって、残りのコーヒーを一気に飲み干し、バカみたいに律儀にその人に会釈をして店を出た。
その人がわたしを目で追っている気配を感じた。みっともないわたしを。

雨は少し弱まっていた。
わたしは相変わらず走る気力がなく、またもや雨の中を濡れて歩いた。雨が止むまでコーヒー屋にいるつもりだったのに。
 
大嫌いな駅は、いつも以上に人でごった返していた。
わたしがこの街が大っ嫌いな理由のひとつはこの駅だ。
ホームが狭く、そこにぎゅうぎゅうに人が湧いてくる。とくに今日はひどい。電車が落雷故障で止まっているらしい。
家まで歩いて帰れる距離だったらどんなにいいか。
タクシーで帰れる距離ですらない。
うちは東京の田舎だから仕事があまりない。だから1時間以上もかけてこんなところまで働きに出ないといけない。ここにいま溢れかえっている人たちは、みんな私と同じ、東京の田舎にしか住めない連中なのだろう。わたしだけじゃない。あんたたちだって、十分みっともないよ。
貧乏人が溢れかえっているひどいこの駅から今すぐ逃げ出したかった。

さっきのコーヒー屋に引き返そうかと思ったが、満席だったのを思い出してやめた。
笑い声にふと振り向くと、手をつないだカップルが場違いに楽しそうにしている。こんな状況下でも好きな人と一緒なら楽しいんだな。それにしてもあの彼女、なかなかのブスじゃない。でもああやって笑ってると、それなりにカワイく見えるものなのね。
 
駅に来てすでに1時間近くが立っていた。トイレも混雑していた。
わたしはトイレの鏡に映った自分の姿を見て吐き気がした。なのに、鏡の中の自分にむかってゆっくり微笑んでみた。デブでブスでみっともないわたしでも、この笑顔でそれなりに見えるのだろうか。

トイレを出ると電車が動き始めたとのアナウンスが流れていた。あと30分もすれば多少人がはけて電車に乗れるだろう。

と、聞き覚えのある声が隣で言った。さっきコーヒー屋で隣の席に座ったあの人だ。

「追いついちゃいましたね」

わたしに話しかけてくるなんて変わった人だ。
こんなステキな人も、みっともない田舎者のひとりなのか、と、わたしは内心ちょっとガッカリした。

「ていうか、おいつけてよかった。これ、忘れ物」

その人は、子供じみたキャラが刺繍されたみっともないタオルハンカチを差し出した。
わたしは文字通り顔から火を吹くほど恥ずかしかった。恥かしさのあまり下を向いた。

「そのキャラクター、うちの娘が大好きでね」

既婚者か。
その言葉で自分が無意識に何かを期待していたことに気づかされた。
いい年して恋がしたいなんてバカみたいだ。

「それにしても金曜日でよかったですよね、この混雑。遅くなっても明日は休みで好きなだけ寝ていられるし」

その人はこの混雑がたいしたことじゃない、といった軽い口調で言った。

「なんでわたしに話しかけるんですか?」

わたしは自分でも驚くことを口にした。その人は言葉に詰まった。

「あ・・・ごめんね。見ず知らずなのに馴れ馴れしくて迷惑ですよね。大変失礼しました。じゃあ私はこれで」

その人が去ろうとする背中に向かって、みっともなくわたしは大声を出した。

「そうじゃないんです!なんでわたしみたいな、デブでブスなみっともない女を相手に話してくれるのか知りたかったの」

その人はゆっくり振り返って言った。

「みっともないの?あなた」

その人は続けて言った。

「もしそうだとしても、びしょ濡れで座ったカフェの椅子を拭いて帰るキレイな心を持っている女性、今どきあんまりいないよ」

「わたしみたいなみっともない女の横に並んで、楽しそうにお喋りして、恥かしくないんですか?誰かに見られたらどうするんですか?同僚とか」

「恥ずかしくもないし、どうもしないよ」

人の波が一歩また一歩と動き出した。わたしとその人は波に押し流されまいとする小さな中州のようにその場にとどまった。

「あなた、どうしてそんなに自分を卑下するの」
 
わたしは子供時代のある出来事を思い出した。

小学校5年生の時だった。
クラスに好きな男の子がいた。そのころ割れペンというネックレスがカップルの間で流行っていた。
割れペンとはハートが半分に割れているペンダントで、ふたつを合わせるときれいなハート型になるのだ。
カップルでお揃いの割れペンを片方ずつ身につけるのが両想いの証で流行っていたのだった。

ある時、嘘にみたいな話で、好きな男子から割れペンをもらった。
絶対嘘だと思った。からかわれてるのだと思った。でもそうじゃなかった。わたしとその男子は本当に両想いだったのだ。
その日からは毎日が楽しくて仕方がなかった。誰も知らないけど、わたしたち割れペンしてるの、という秘密がドキドキときめいて仕方なかった。
そんなある日、彼氏が数人の女子に問い詰められていた。
わたしと付き合ってるの?と。
わたしは何も聞こえないふりをしながら離れたところにいた。
彼氏の言葉が聞こえた。

「あいつ、デブだからなぁ、無理」

みんなが一斉に笑い出した。
わたしはこっそりと教室を抜け出して、小学校の汚いトイレに駆け込んで吐いた。吐いて吐いて、鼻水と涙でぐしょぐしょになった顔もかまわず、割れペンをはずし、吐いたものの中にポトンと落として勢いよく流した。

これが今のわたしの原点だ。
 
「あなたみたいな人、いないですよ。誰もわたしに近寄りたがらない。みっともないから」

「それ、やめようよ」

「だって!」

「あなた、どことなく私の死んだ妻に似てるんだ。だからあまり、あなた自身のことを悪く言ってほしくない」

その人は暖かい眼差しで私を見ながらこう言った

「妻は確かに太っていたし、特別に美人でもなかったけど、僕にとってはちっともみっともなくなんかなかったよ。自慢の妻だった」

そして続けざまに信じられないことを言った。

「さっきのカフェに入ったのも、あなたを遠くから見かけて、傘をさすのももどかしくて走っていったんだ」

わたしはこれ以上この人のそばにいてはいけない、と思った。

「いやな思いをさせてしまったのなら、ごめんなさい。でも、わたしはあなたの死んだ奥さんじゃない」

「そうだね。すまなかった。まるで私はストーカーみたいだ」

その人はわたしを真っ直ぐに見てそう言った。

「私はあっちだから。じゃあ」

その人が指さしたのは山手線方面だった。
落雷事故とは無関係な、止まっていない山手線。
都会に住めない貧乏な田舎民が住む方面へとわたしを運ぶ路線の乗客ではなかったのだ。
わたしと話すためにわざわざこの混雑に?

その人が立っていた場所にキーホルダーが落ちていた。わたしは急いでそれを拾うと、みっともないタオルハンカチで拭いた。それは先端がロケットになっていた。
人のものを勝手に見ていいのか、と迷いつつ、ロケットを開く手を止められなかった。
予想通り若い頃の二人が映っていた。
奥さんと思われる女性とあの人。
あの人が言っていたとおり、確かに美人ではないが、優しさが滲み出ているような、笑顔がステキな女性だった。
あの人も今のどこか翳りある笑顔とは違う本物の笑顔で映っている。
こんな大切なもの、絶対に届けなくては。
いや、でも・・・。

わたしは乗車待ちの列を抜けて山手線方面へ向かった。
あの人が向かってからまだあまり時間は経っていない。きっと追いつけるはず。わたしはそういう思いで、太った身体で人並を縫って走った。
あの人が向かったのは新宿方面か渋谷方面かもわからない。ただ、幸いこの駅は同じホームに両方面が来る。わたしはホームの左右を確かめながら小走りにあの人を探した。
山手線は3分間隔くらいで電車が来る。急がないと。あの人は背が高かった。きっと見つかる。
わたしは右左、左右と目を走らせながらあの人を探した。電車が来る音がする。ホームを半分ほど探したところで電車がホームに入って来た。ドアが開いた。電車から降りる人、乗り込む人でホームはごった返した。ドアが閉まり電車は発車した。
そしてまた次の乗客たちがホームにひしめき始める。

あの人を見つけられる、とバカみたいな確信があった。
東京のど真ん中、通勤ラッシュの駅のホームでそんなドラマチックなことが起きるわけないのに。そんな縁、わたしは誰とも繋がっていないのに。
わたしはその人が落とした、きっと宝物に違いないロケットをみっともないタオルハンカチで包み、バッグにそっとしまった。


どっと疲れが出て、帰りは有料電車のチケットを取った。
普通列車はしっかり立っていられないほど混んでいるだろうし、どしゃぶりに濡れた服が隣の人に触れて舌打ちされるのもイヤだった。
チケットを取った有料列車に乗り込み、自分の席を探した。
わたしはいつも窓際の席を取る。窓にぴったりと寄り添えば、少しでも隣の席の人との距離をひらくことができるからだ。

わたしが自分の席の前にたどり着くと、隣の席の人はもう座っていた。
ひと駅前が始発だから、そこから乗って来たのかも・・・でもわたしがアプリで席を選んだとき、隣の席は空席だった。それからすぐ発売は締め切りになったはずだ。たぶんこいつ無賃乗車だ、とわたしはピンときた。
でもわたしには関係ないこと。わたしは頭をさげてそいつの前を通り、窓際の自分の席に着いた。
無賃乗車ヤローはあからさまに舌打ちをした。そして缶チューハイをガブ飲みしはじめた。酒臭い。吐き気がする。

席に着いてぼんやりと、あることを思い出した。
今よりだいぶ前、まだ若い頃のことだ。上りの通勤電車でのこと。隣の席の年配サラリーマンが大股を開いて新聞を読んでいた。ページをめくるたびページの半分が隣に座る私の顔にあたった。誰もが見て見ぬふり。私は自分で闘うしかなかった。

「新聞が顔に当たるので新聞読むのやめてもらえませんか」

と言ったのだ。
するとその年配サラリーマンは

「おまえがデブだからだろ!このブサイクが」

と大声で言ったのだ。
周囲の人たちが一斉に吹き出しそうになったのがわかった。
その日からわたしは、自分を守るということをしなくなった。
自己主張を、自分の権利を口にしなくなった。デブでブスでみっともないわたしには、そうするのが一番身のためなのだと思い知らされたからだ。
あの人は奥さんとわたしが似ていると言っていた。でも妻はちっともみっともなくなんかなかったと。あの人がもしあの時、あの場にいたら、わたしを守ってくれただろうか・・・。

わたしは子供の頃からある病を患っている。
といっても外から見てわかるものではないし、目が見えないわけでも耳が聞こえないわけでもない。ただずっと飲み続けなければならない薬があって、その副作用のせいでみるみる太ったのだ。
食事制限や適度な運動などではとうてい対処できなかった。
背が高いわたしは太っているせいで余計に大柄でひどい外見になった。

 
小学校高学年当時、オーバーオールという上下が一枚続きのデニムズボンが流行った。
背の小さい、細身の、いわゆるカワイイ子たちにはとてもよく似合っていた。
わたしもそれに憧れ、自分がカワイくなれるはずもないのに、どうしてもオーバーオールが欲しかった。
しかし何件も店を探して回ったがわたしのサイズはなかった。
数日後、どこからか母が見つけてパート代で買ってきてくれた、ちょっと色味やデザインがイメージしていたものと違うオーバーオールを着て、鏡の前で何度もチェックし、まんざらでもない、という自己判断で、翌日ドキドキしながら学校に着ていった。
通学路で最初に会った仲の良い男子生徒の悪気ない正直な感想はこうだった。
「その体系でオーバーオールはないよなぁ」
わたしは学校に着くとすぐに体育着に着替え、心の中で母に謝りながらオーバーオールをリュックにしまい、その日一日その男子生徒の言葉を引きずって過ごした。
小さくてかわいい子たちはその日もオーバーオールを着てはしゃいでいた。
 
ふ、と気づくとちょうど降りる駅だった。わたしは嫌な思い出を振り払うように、バッグをギュッと抱きしめて電車を降りた。
隣の席の酔っ払いは、空き缶だけを残し、いつのまにか姿を消していた。
 
ホームに季節外れの蟻が一匹歩いていた。
立ち止まって見ていると、後ろから歩いて来た人のちょうど歩幅だったのだろう、運悪く蟻は踏まれた。踏まれたことさえ気づかれずに。
踏まれた蟻の身体はくしゃっと丸まって手足をバタつかせていた。
痛いだろうか、
苦しいだろうか、
悔しいだろうか、
悲しいだろうか、
やがて蟻は動かなくなった。
見ている以外何もしてやれなかったわたしは、これ以上踏まれ続けることがないようにと蟻をそっと手のひらに乗せ、駅を出て、植え込みの根本に置いた。仲間たちが迎えにきてくれることを願って。


ここから家までは自転車で20分。
雨が止んでいて良かった。
この20分の自転車運動だけでも少しは痩せてもよさそうなのに、わたしは何をしても痩せない。痩せれば少しは顔も見栄えが良くなるのではないかと食事制限を頑張った時期もあったが、薬の副作用の力のほうがはるかに強く、本当に、何をやっても痩せなかった。
美人とまでは望まないが、デブでなければ人生違っただろうといつも思う。今頃、ステキな旦那様(あの人の顔がチラついた)とかわいい子供たちに恵まれた温かい家庭で、会社になど行かず専業主婦をしていたかも知れない。
そんな人生があったかも知れない。

わたしは今36才だ。なのに男の人を知らない。つまり処女だ。
でも当たり前に性欲はある。だが、デブでブスだと遊びのSEXもできない。
以前、何件かの出会い系サイトに登録していた。
そして3人と会ったことがある。
一人目は明らかにわたしを見て逃げた。
二人目はひどかった。わたしを見るなり持病のメニエールで目が回って吐き気がする、と言ってトイレに駆け込み、10分以上待たされた挙句、気分が悪いからその辺で休んで帰る、と言った。
一緒にお茶して休憩するという選択肢はなかった。
3人目も似たようなものだった。
わたしはあまりに恥ずかしく腹が立ったので、返事もせず背中を向けて帰りの駅に向かった。
こういった出会い系で会うのはお互いやりもく(SEXが目的)なのに、その目的にすらたどりつけないわたしは、傍から見てどんなにみっともない女なのだろう。

でも、こんなわたしに似ている奥さんを、あの人は、ちっともみっともなくなんかない、と言っていた。
自転車を止めて、バッグからタオルハンカチで包んだロケットをだして開き、中の写真を見た。
あの人から見て、わたしも笑顔ならこんなふうに愛らしく見えるのだろうか、と笑顔の奥さんを見て思った。そして笑顔のあの人をじっと見て、この人だったらわたしの処女をもらってくれるだろうか、このみっともないわたしの処女を、と考えた。

どれくらいそうしていたろう。わたしはロケットを閉じるともう一度タオルハンカチに包んで大切にバッグにしまった。
そして考えた。処女をあげるシーンについて。
快感と恐れが同時に身体をつきぬける。わたしは今、妄想の中であの人に抱かれている。たった一度会って数分話しただけのあの人の唇が・・・と、突然車のクラクションが激しく鳴り怒声がした。

「ぼーっとしてんじゃねーよ、メスブタ!」

わたしのほうの信号は赤だった。危なかった。車が走り去るときにその車が巻き上げた水しぶきを顔からもろに浴びてしまった。
服の裾で顔の泥水を拭きながら、妄想していた自分をひどく恥ずかしく感じた。
誰もいない。わたしを好いてくれる人なんて。一緒にいてくれる人も。敵意から守ってくれる人も。愛しく抱いてくれる人も。
ここは泣くシーン?などと思いながらわたしは薄ら笑いしていた。

家に着いたのは23時過ぎだった。
湯舟に浸かるとそのまま寝てしまいそうだったので、シャワーだけにすることにした。
びしょ濡れの服を脱いで洗濯機へ放り込んだ。パンティーとブラはネットに入れて大切に洗っている。
わたしは下着には若い頃からずっとこだわっている。下着だけは安物は絶対に身につけない。デブには似つかわしくないセクシーで大胆な色とデザイン。紐に巻かれたチャーシューみたいだ、と我ながら思うこともあるが、見えないおしゃれだから人から笑われることも、とやかく言われることもない。
自己満足でいいのだ。

浴室のドアを開け、シャワーを浴びようと手に取った時、目の前の全身鏡に自分の裸体が映った。
垂れ下がった胸と脇腹、洋ナシ体型そのものだ。
横を向いて見た。胃からふくれあがって出ている腹。顔をねじって鏡をみている首もとは二重アゴ。
わたしは本当になんて醜いのだろう。
こんなわたしを知っているのはわたしだけでいい。誰にも見られちゃいけない。あの人にも。修道女みたいに生涯処女を通さなくては。

シャワーを浴び終え、身体と髪を拭き、見たくもないテレビのスイッチを入れ、みっともない素っ裸でソファーに横になって缶ビールを飲んだ。
半分で捨てたのはこれ以上太らないための空しい努力だ。
寝る前に食べるのは太るもとだからイヤなのだが、仕方なく8枚切り食パンを焼いて、マーガリンを塗って食べた。4枚でも6枚でもなく8枚切りにしているのもこれ以上太らないための空しい努力。
食べないのが一番いいのだが、そうもいかない。寝る前に何種類もの薬を飲まなければいけないから、胃に何か入れておかないといけないのだ。

髪の毛を乾かすのがひどく億劫だった。
そのまま素っ裸でソファーに横になって天井を見ていた。と、わたしは突如起き上がり、洗面所の鏡の前で笑顔を作ってみようとした。でも、表情筋がもう笑うようにできていないのか、何度やってもぎこちない歪んだ顔になるばかりだった。
あの人の奥さんみたいには笑えない。
恥ずかしいことをしてしまったような気がして、誰にも笑われる心配のないセクシーな純白の透けたキャミソールを着てベッドにもぐりこんだ。

電気を消した。外の街燈の明かりで室内はうっすら青白い。
身体に熱いものがこみ上げてきた。女ざかりの36才ならごく自然のことだ。罪悪感からそんな欲情を極力戒めてはいるが、今日は身体が意思に負けてしまった。
右手で乳房を揉みしだき、乳首を引っ張ったりつねったりして弄び、ときにかじられたように強くつねった。自分の出す声にさらに気持ちは昂る。左手はパンティーを履いていない局部の薄いカーテンを分け入って一番敏感な箇所をつつき、こねくりまわし、慰めた。
いつもなら妄想の相手は推しと決まっているが、今日は違った。
あの人に一番恥かしい場所を弄ばれる自分を妄想して、わたしは荒ぶる声をあげて絶頂を迎えた。


目が覚めるとお昼近かった。
空は今日もどんよりと低く曇っていた。いつ雨が降り出すかわからない天気の中、わたしは用もないのにぶらぶらと外へ出ていき、公園のベンチに座った。病院へいこうかな、とぼんやり考えた。今日は土曜日、病院は午前中しかやっていない。行くなら急がないと。
昨日の激しい雷雨でまだ乾ききっていなかったせいで、スウエットのおしりがぐっしょり濡れてしまった。みっともなさに輪をかけたところで大したことでもない。わたしはついでにとばかりに背中を背もたれにもたせかけ、上着の背中もおそろいで濡らしてやった。

あの人は今頃、あのロケットを無くしてしまったことを、さぞ嘆いていることだろう。明日は日曜日、明後日の月曜日に会えるだろうか。
あのコーヒー屋にいればわたしに気づくだろうか。そうしたらこのロケットは本来の持ち主の元に落ち着き、お互い肩の荷が下りるのだけど。
いや、でも・・・。

5
日曜日が過ぎ、月曜日になった。
終業チャイムが鳴り、いつもなら大急ぎでエレベーターに向かう私は、仕事が終わってからもデスクでぐずぐずしていた。
明日やればいい仕事をしたりして時間をつぶした。あの人に会わないように。
いつもより1時間遅い帰り道、少し空いている人の波を歩きながらコーヒー屋をチラッと覗く。それが日常化していた。当然あの人の姿はなかった。いなくて残念なのかホッとしているのか自分でも分からない気持ちが心に渦巻いていた。そして3週間近くがたった。

「野原さーん、生活残業もたいがいにして帰ってよ」

と、課長にとうとう言われてしまった。定時きっかりで帰ることに文句を言われたことはないのに、仕事のために残るのはダメらしい。くだらない。

久しぶりに定時であがった。
特に急いでもいないこういう時に限ってすんなりエレベーターはやってきて、1回目で乗れるのだ。
一秒でも早くこのビルとおさらばしたい私とすれば、もちろんありがたいことなのだが。
外に出てまもなく雨が降り出した。あの日のデジャヴュのようだ。わたしは走らなかった。運命を変えたかったのかも知れない。でも、走らなかったのに信号はちょうど青になり、待つこともなくすんなり渡れた。
おそらく普段の青信号の次の青だったのだろうが、運命に抗おうとするわたしを、みっともない、と何かがあざ笑っているような気がした。
どしゃ降りになってきた。しかし今日はおりたたみ傘を持ってきていた。
華奢な折り畳み傘の両側からしたたり落ちる雨が、大柄なわたしの両肩を濡らした。

くだらない追憶に浸りながら、わたしはコーヒー屋に入った。
今日はケーキはやめてコーヒーだけ注文し、前回と同じ窓側のカウンター席に座った。我ながらバカみたいなことをしているな、と思いながら、外の出来事が聞こえるように片耳だけヘッドセットを挿し、大好きな米津玄師の歌を聞き始めた。
このロケットを返したらそれですべておしまい。あとには何も残らない。なぜか涙で目が曇った。

「2回目ですね」

聞き覚えのある声がした。

そんな気もしていた。予感があった。今日会えるような。

「泣いてる?」

わたしの顔をちょっと覗き見てその人が言った。
わたしは何も答えずにバッグの中からタオルハンカチに包んだままロケットを渡してしまった。軽い後悔とともに。

「返しようがなくてお預かりしていました」

その人は、そっと包みを受け取ると中味を確認してハッと息をのんだ。

「拾ってくれたのが、あなたでよかった」

そしてタオルハンカチをわたしに渡そうとした。

「ああ、それ、よかったらお嬢さんに。このキャラクター、好きだって言ってたでしょ?これまだ今日で2回目のほぼ新品だから。ちゃんと洗ってきたし」

その人はタオルハンカチを手にしたまま言った。

「ありがとう。本当にありがとう。でもね・・・」

しくじった、とわたしは思った。

「あ、ごめんなさい、迷惑ですよね、こんな中古品、じゃわたし帰ります」

と立ち上がったわたしの腕を掴んでその人は言った。

「ちがう。とっても嬉しいんだ。でもね、娘ももういないんだよ」

「いない、って?」

バカなオウム返しをしてしまったと思った。いない、といったら意味はひとつしかない。

「妻と一緒にね、飲酒運転のトラックにはねられて」

わたしとその人は見つめ合っていた。しばらくして、その人は力なく笑った。

「あなたがくれた優しい心に救われました。本当にありがとう」

その人はほとんど口をつけていないコーヒーをそのままに、店を出て行った。わたしは一瞬どうしたらいいのかわらなかった。そして急いでその人を追った。みっともなくても。

「待って!」

その人は振り向いた。

「ちがうんです!救われたのはわたしのほう!デブでブスでこんなにみっともないわたしのことを、あなたは自分の愛する奥さんとどことなく似てるって言ってくれて、妻はちっともみっともなくない、って言ってくれて。
わたし、その言葉に救われた!だってそれって、わたしもみっともなくないのかも、って思えたから。
世界中にたったひとりだけでも、わたしをそう見てくれる人がいるのかも、って思えたから」

わたしは大声でまくし立てた。
泣いているような気がした。
雨なのか涙なのか自分でも分からなかった。
その人に行ってほしくなかった。だから返したくなかった。返してしまったら、本当にサヨナラだから。
その人に約束のない場所に行ってほしくなかった。
行かせてしまったら、今度こそもう本当に、絶対に会えない気がした。
偶然を装った偶然は今日だけだと分かっていた。

「あなた、名前は?」
「野原由美子」
「由美子さんの職場はこの近くなんだね」
私は声にならず頷いた。
「私もです」

「もしよかったら、これから一杯つきあってもらえませんか?」

わたしはしゃくりあげて泣きながら頷いた。

「野田悠一といいます。はじめまして。イニシャル同じですね」

その人は私のほうに近づいてくると、雨の降る中、傘もささず、わたしの涙が止まるまでしっかり抱きしめていてくれた。
みっともないデブを抱きしめていて恥ずかしいとも思わないのか、周囲の好奇の目も気にせずに。
彼の心はあまりに強く、暖かく、幸せすぎて、泣き止むのをやめようにも止められなかった。


「IPAでいい?」彼は私をクラフトビールの店に連れて行った。悠一さんが私にきいた。よく分からないまま私は頷いた。悠一さんがオーダーしてすぐにビールがきた。マスターの態度から見て、どうやら悠一さんはここの常連らしい。何も言わずとも、おつまみのアンチョビとポテトが出た。
「先生、予定より早かったんですか?」
先生?
「ああ、被験者の都合で予定が前倒しになってね」
被験者?
「西海岸はどうでした?サンタモニカあたりトップレスの美女がいっぱい・・・おっと失礼」
悠一さんが苦笑いして私のほうを向いた。

「先生って?」
「ああ、そこの総合病院で脳神経外科の医師をしてるんだ」
「お医者さんなんですか?」
「そう」悠一さんが2杯目を頼んだ。「1か月の予定でカリフォルニアの大学に行っていたんだよ」

そうか、留守だったのなら私がムダあがきに残業していたのはまるで無意味だったんだ。

「エリートなんですね」
「おいおい、また始まるのかい?」

やっぱりこの人は雲の上の人だ、と私は思った。さっき雨の中で抱きしめられている間は、体温を感じるほど近くて淡い期待を抱いたけど、やっぱり違う世界の人なんだ。

それから私の仕事のことや、お互いの趣味、好きなアーティストや映画のことなど時間が経つのも忘れるほど喋った。こんなに人と喋ったのはいつぶりだろう。いや、初めてかも知れない。

「こんな時間まで付き合わせちゃってごめんね」
悠一さんが腕時計を見ながら言った。
自分の腕時計を見ると21時だった。まるで高校生の門限だ。ちょっと恨めしく思いながら、わたしは悠一さんに促されて店を出た。
支払いをする際、悠一さんがブラックカードを使っていたのを見てしまった。とんでもないお金持ちだ。私などがお近づきになっていい人じゃない。
店を出ると、私たちはこれといった会話もせずに駅に向かった。

「由美子さん」

由美子は突然名前を呼ばれてびっくりした。

「またご一緒してもらえますか?スイーツでもイタリアンでもお寿司でも由美子さんの好きなものを一緒に」

私は戸惑った。ブラックカードを使うような人が真面目な気持ちで私を誘ったりすることがあるだろうか?私は何かに利用されようとしているんじゃないだろうか?でも、こんなみっともない私を何に利用できるというんだろう?私は延々と考えをめぐらせた。その間、悠一さんはじっと私の返事を待っていた。
通り過ぎる人たちが私たちを物珍しそうに見ている。中にはクスクス笑いながら歩き去る人たちもいた。何で?ふり返ってみて気づいた。休憩4.000円、宿泊10,000円。私たちが立っているのはラブホテルの入り口前だったのだ。悠一さんも同じく気づいたらしく、私の腕を取ってまた駅に向かって歩き出した。

駅についてしまった。
由美子は立ち止まって悠一に言った。

「今日はごちそうさまでした。楽しかったです。じゃあ、気を付けて」

と不愛想な口調(本当は緊張しているだけなのだが)で立ち去ろうとすると、悠一は由美子の手を掴んで引き留めた。

「まだ返事をもらっていない」

由美子は戸惑いながらも

「私、予定なんてぜんぜんないんで、悠一さんさえよければ都合のいい日を連絡ください」

と言ってスマホを取り出した。二人はLINEの交換をした。

「ありがとう」

悠一は心底ホッとしたように言った。

「明日から一週間長野に出張で。これで由美子さんと連絡が取れるので安心できます」

由美子は何も言わず微笑んだ。二人はそれぞれの路線への帰途についた。
由美子は帰りの電車で考えてみた。
あの人がこんなみっともない私のことを相手にしているのは、亡くなった奥さんの面影を追っているからにすぎない。わたしはその人の身代わりとして悠一さんのそばにいていいのだろうか。わたしはわたしという自分ですらなくなってしまうではないか。でも考えてみれば、わたしという人間なんて消えてしまえばいいっていつだって思っていたじゃないか。わたしは悠一さんを慰めてあげることのできる唯一の存在なのだ。そこに自分自身の存在価値を見いだしてもいいのではないか。いや、亡くなった奥さんそのものになりきったっていい。そうすれば悠一さんは永遠に私を思ってくれるのではないか。だって、悠一さんが求めているのは、私なんかではなく、亡くなってしまった奥さんが蘇ることなのだから。そうだ、私なんか捨ててしまおう。


それからの私たちは、悠一さんの仕事あがりの時間に合わせて、コーヒーを飲んだり、飲みに行ったり、食事に行ったりした。
だいぶ打ち解けてきたころ悠一さんが言った。
「次の週末、海に行こう」
私は返事に詰まった。冗談でも水着になれるような体型ではないからだ。悠一さんはそれを察したのか「海辺を散歩したくなってね」と言った。

薄曇りの日だった。晴れていたら暑くて砂浜を歩くなんて現実的じゃなかったろう。なのでちょうどいい初夏の日だった。
悠一さんの大きな左手が私の小さなでも肉付きのいい右手を引いて砂浜を歩いて行く。まるで恋人同士のようだ。私たちの関係って、一体何なのだろう?と由美子は思った。

悠一さんが予約しておいてくれた海辺のレストランのテラス席で、名物のラザニアとプリンを食べ、クラフトビールを飲みながら、暮れなずむ海岸線を眺めていた。
水平線が一望できる。朱色が濃くなっていき、やがて紫色から紺色へと色を変えて言った。

「由美子さん、明日は日曜だし、泊まっていかない?ここの星空ね、けっこうすごいんだよ。由美子さんに見せたいな」

ペンションを兼ねているレストランのカウンターで宿泊の手続きを済ませた悠一さんは、鍵をブラブラさせながら嬉しそうに戻って来た。
クラフトビールの追加を頼み、私たちはほろ酔いで星空を待った。
昼間の薄雲は消え去り、星たちが明るく瞬き始めた。
悠一さんは私の手を取ってもう一度砂浜へ下りた。
流木に腰かけ眺める星空はまさに絶景だった。
と、悠一さんが私の髪を撫でて自分のほうを向かせた。悠一さんの顔が近づいて来た。怖かった。とても。唇が触れた。軽く。羽のように軽く。一瞬のできごとだった。悠一さんは私の肩を抱き、私の頭を自分の肩にもたせかけ、何事もなかったかのようにまた星空を見上げていた。
それは私のファーストキスだった。今までに想像したどんなファーストキスよりもやさしくロマンチックなものだった。

「そろそろ部屋に戻ろうか」悠一さんが言った。
私も大人だ。このあと部屋で起きるかも知れない出来事を予想して、期待と不安で胸がいっぱいになった。

レストランの2階にある部屋は、寝るだけと言ってもいいこじんまりとしたツインルームだった。海を思わせるブルーで統一されていて、静かに過ごせるようにとの配慮だろうか、テレビはなかった。

「シャワーあびてきます。汗かいたので」

そういう私の腕を取って

「一緒に」

と悠一さんが言った。私は耳を疑った。

「ダメです!そんな・・・やめて」

悠一は由美子のブラウスのボタンを外しはじめた。由美子は手持ちの中でも一番のお気に入りのブラとパンティーを身に着けてきていた。なので脱がされるままにされていた。
悠一はブラのホックを外し、あらわになった乳房をしみじみと眺め、腰を落とすと、すでに固くなっている乳首をひと舐めした。由美子は声を出さないよう口の中で舌を噛んでいた。
スカートのファスナーを下され、ストンと落ちたスカートの下から、ブラと同じ色柄の大胆なパンティーが姿を見せた。腰にあたる両側のひも部分にはパールがあしらわれ、おしりはTバック、前は薄い生地が由美子の薄い陰毛を透けさせている。悠一はさらに腰を落として甘いためいきをつきながら、パンティー越しに強くくちびるを押し当てた。

「ステキだよ、由美子さん」
「悠一さん、お願いシャワーを浴びさせて」

悠一はパンティーを脱がせて由美子を全裸にすると、自分も裸になり、連れ立ってバスルームに入った。
熱いシャワーを勢いよくひねり出し、二人は抱き合いながら、お互いの身体を洗い流すようにシャワーを浴びた。
悠一は由美子の全身を確かめるように両手でさすっていった。由美子はおぼれそうに呼吸が早くなるのを感じた。シャワーを頭から浴びながら、悠一は由美子の乳房を舐め回し、しだいに下へ下へと愛撫を移動させ、由美子の薄いカーテンを開き、一番敏感な場所へと舌を運んだ。経験のない由美子は、泣き声のようなみっともない小さな声をあげながら、すぐに絶頂へと導かれた。2度、3度と。

「ベッドへいこうか」

悠一はやっと由美子を解放した。今、由美子は悠一の愛の奴隷だった。二人は全身をタオルでおおざっぱに拭い、抱き合いながらベッドに倒れ込んだ。由美子の目は、悠一の勃起した赤黒い性器にくぎ付けになっていた。怖かった。あんなものが入ってくるのかと思うと、怖くて逃げだしたかった。
悠一は再び由美子の一番敏感な部分を愛撫しはじめた。由美子が足を閉じようとするのを許さなかった。下のほうで固いものが触れていた。すると少しずつ悠一のものが由美子の中に入って来た。
「痛いっ!」
悠一は驚いたように由美子の顔を覗き込んで「初めてなの?」と聞いた。由美子はみっともなく頷いた。
「わかった。やさしくするから、こわがらないで」悠一は由美子の顔を腕で包みこむようにして、おおいかぶさってキスをした。
悠一の舌が由美子の唇を割って入って来た。さっき海辺でしたのとは、まったく違うキスだった。悠一の舌は由美子の口の中をまさぐりながら由美子の舌をさぐりあて、舌で舌を愛撫した。
「力を抜いて、だいじょうぶだから」
悠一はそう言い、さらに由美子の一番深いところまで入って来た。
灼熱に焼けた鉄の棒が入っているように痛かった。
「いや」という由美子の抵抗の声は、生ぬるいキスに掻き消された。
悠一はゆっくりとピストン運動をはじめた。気が付くと、由美子ははじめてにもかかわらず、呼吸をあげ、声を漏らしながら、悠一を迎え入れるように腰を動かしていた。悠一の動きが早くなった。由美子はひどく感じていた。頭が狂いそうなほどの痛みと快感だった。そして二人は同時に絶頂を迎えた。


毎週末のように私たちは身体を求めあった。回数を重ねるごとに痛みは減り、今では快感だけを味わうことができるようになった。

初めて悠一さんの家を訪ねたとき、男の一人暮らしだというのにホコリ一つなく整然と片付いているのに驚いた。
奥さんを失くして何年経つのか聞いていなかったが。
ハウスキーパーを雇っているらしい。どうりで、と納得した。
棚にはいくつもの写真が飾ってあった。奥さんの写真、娘さん(4、5才くらいだろうか)の写真、何か違和感があった。そしてスタジオで撮ったような大きい家族写真。
それらの写真にも、写っている人にも何の罪もないが、私の永遠に勝てないライバルのようでイヤだった。
家族写真を見て違和感に気づいた。娘が似ていないのだ。父親にも母親にも、まったく。

背後のキッチンでコポコポと音がする。悠一さんがコーヒーを淹れている音だった。まもなくして悠一さんがコーヒーを2カップ持って私のところに来た。

「娘の5才の誕生日に撮った記念写真だよ」
「パパ似?ママ似?」
「さぁ」

悠一さんはコーヒーをすすってダイニングの椅子に腰をおろした。

「舞は、娘はね、僕の実の娘じゃないんだ。詩織は、妻は子連れで僕のところに来たんだ。シングルマザーで幼い舞を育ててたんだよ。過労で倒れて僕の病院に運ばれてきてね。明るい人で、MRIを取りながらずっと喋ってて。あれには参ったね。ちゃんとしたデータが取れやしない。
点滴を打って2,3日ゆっくり入院することを勧めたんだけどね、僕も内科医も。娘を保育園に預けっぱなしだからすぐ帰るってきかなくてね。仕方ないから僕がかわりにお迎えに行く羽目になってね。朝は僕が保育園に送って行って、夜はタクシーでお迎えに行って面倒見たてたよ。食べさせたり、お風呂に入れたり、おむつをかえたり。笑えるだろ。今となってはいい思い出だ」

悠一さんは私に背を向けて話していた。そしてこちらに向き直って言った。

「こんな話していても退屈だろ?映画でも見ようか、それともいい天気だから散歩にいく?」

悠一さんのマンションの周囲は緑に囲まれた公園になっていて、その中を遊歩道が巡っていた。私たちは手をつないで新緑の中を深呼吸しながら歩いた。ポツリ。昨日振った雨がひとしずく、木の葉から私の頬に落ちてきた。「あっ」
ふり返った悠一さんが私の顔を見て言った。ピエロみたいだ。と、滴を指で拭いてくれた。そう、ピエロだった。悠一さんに出会う前の私は。あの頃も今も私は、みっともない女のまま何も変わっていない。なのに、悠一さんの言葉一つで、態度ひとつで、私の心はこんなにも変わることができる。悠一さん次第で。

「ねぇ、話の続き、聞かせて」
「何が楽しいの」
「悠一さんのこと知りたいの」

私たちはベンチに座った。悠一は話し出した。

「そんな風にして半強制的ながら僕は舞の父親になっていったんだ。いつの間にか僕らは自然に一緒に住むようになってね。舞も僕になついてくれて。出会いが赤ちゃんに近かったから、本当の父親だと思っていたんだろうね。
お金の心配はさせないから、仕事をやめて家にいてくれないか、と詩織に何度も頼んだんだ。僕の仕事も忙しいし、家にいて舞と向き合ってくれ、ってね。
詩織はしぶしぶ仕事をやめた。専業主婦というやつになったんだ。目が覚めれば朝食が、仕事を終えて帰ってくれば夕食が、風呂は沸いてる、洗濯ものは綺麗にしまわれてる。快適だった。その快適さの裏に、詩織の犠牲があるなんてこと、ちっとも考えなかったんだ、僕は。

詩織は次第に笑わなくなった。あんなに明るかった詩織が。そしてあまり喋らなくなった。僕が求めても拒否するようになった。そして「死にたい」と口にするようになった。うつ病だった。

僕たちはね、籍は入れてなかった。いわゆる事実婚。それも詩織が選んだことだった。最後の夜、TVの雑音越しに詩織が言ったのは「自分の力で生きていたい」という言葉だった。僕は彼女の心の叫びを聞き流してしまった。聞こえていながら背を向けてしまった。

翌日、仕事中に連絡があった。詩織と舞が酔っ払い運転のトラックに跳ねられて即死したってね。
運ばれた病院で二人に会えなかった。遺体の損傷がひどいから見ない方がいい、と。僕は医者だから大丈夫だ、と言ったが会わせてもらえなかった。
後で知ったんだが、警察の事情見分だと、近所の商店の主人が事故の一部始終を目撃してて、舞を抱っこした詩織は、自分からフラフラとトラックのほうに歩いていったように見えた、って話もあってね。警察は自殺なんじゃないかと言っていた」

悠一さんと出会っ鬱陶しい梅雨の季節からすでに半年が過ぎていた。猛暑が過ぎ、紅葉が木々を彩る秋が過ぎ、お揃いのマフラーが気恥ずかしくも暖かい冬がきた。


ある休日、マンションを取り巻く遊歩道をいつものように手をつないで散歩しているとき、悠一さんが切り出した。
「ここで一緒に暮らさないか?」と。

翌週末には婚約指輪を買いに行った。今、私の右手の薬指を飾っているのがそれだ。中央にダイヤが一粒控えめに埋め込まれたプラチナのリング。私はデブだから指も太いので、作り直しに時間がかかった。その場から逃げ出したいほど太い輪っかだった。
「このままつけていくのでケースはいいです」
悠一さんはそう言うと、言葉もなく私の指に指輪をはめてニッコリ笑った。それからまもなく私は自分のアパートを引き払って悠一さんのマンションに引っ越してきた。

医者は朝が早いというのを初めて知った。6時半には家を出る。悠一さんに合わせて私も朝食はコーヒーだけになった。職場の駅で別れ、私は始業時間まで時間を潰すのに、あのコーヒー屋で2杯目のコーヒーを飲む。まだちょっと寝ぼけた頭をスッキリさせるのにちょうどいい。

もうすぐ医者の妻になる。とんだ玉の輿だ。こんなデブでみっともない私が今、シアワセの絶頂にいる。だが、払い落とせない思いがあった。蜘蛛の巣のように振り払っても振り払っても離れない思いがある。これは、本当の幸せなのだろうか。前妻の詩織さんは「自分の力で生きたかった」と言い残して死んだ。私はどうだ?悠一さんのマンションに転がり込み、家賃も負担せず、食費も、光熱費も全て悠一さんが払っている。
結婚したら、大嫌いな仕事は辞めて専業主婦になる予定だ。料理や洗濯の家事はしているとは言え、これじゃまるで悠一さんに依存しっぱなしじゃないか。朝悠一さんを見送ったら夜悠一さんが帰宅するまで誰とも会わない。しゃべらない。行くところもない。まるでまるまる肥えた珍ペットのようだ。自分の力で生きたかった、詩織さんの言ったのはこういうことだったのだろうか。悠一さんに依存せず、自分も社会と関わりを持ちながら、専業主婦でなく外で働きながら、二人で協力して生きたかった。そういうことなのだろうか。
私はどうだ?これでいいのか?これが本当に私の望む人生のカタチなのか?・・・・由美子は考えた。脳みそが蒸発してしまうのではないかと思うほど自分の思いについて考えた。そして答えを出した。

翌日の土曜日。吐く息が雪の結晶になりそうなほど寒い朝に、二人して早朝から遊歩道へ散歩に出た。森の木々が吐き出したばかりの空気は、肺の奥まで染み入るように冷たかった。
「悠一さん」由美子は切り出した。

「どうした?」いつも一歩先を歩く悠一が振り向いた。

「結婚のこと・・・なんですけど」

「うん」

「詩織さんの言葉、考えたんです。自分の力で生きたかった、って」

「・・・」

「私はどうだろうって思って。みっともなく悠一さんに依存して生きて行くだけでいいのか、って。社会から逃げるように仕事も辞めて、悠一さんの家で、悠一さんのお金で生活して、まるでペットみたいに・・・」

「由美子、君が望まないならこの結婚は・・・」

「最後まで聞いて!私は詩織さんとは違う。自分の力で生きたいなんていうような逞しい女じゃない。
人と会うのも外で働くのも好きじゃない。いつでもどこでも恥ずかしくないように悠一さんのYシャツをピンとさせて、お風呂もトイレも窓も部屋をすみずみまで掃除して、悠一さんの帰りを待って、ご飯をつくって、昼間は悠一さんの好きなものと健康管理を考えながらご飯支度のお買い物をして、悠一さんが恥ずかしくない私でいられるように、時には新しいお洋服を買ってもらって、私が望む幸せはこんなんなの。
私はあなたに尽くしたいの。私がそうしたいの。私は詩織さんとはまったく違う女だってわかったの」

悠一は由美子に手を伸ばした。そして抱きしめた。

「ありがとう由美子。きみといたい。野原由美子という女性と。野田由美子としてずっときみと一緒にいたい」

抱きしめる悠一の手を、由美子はやさしく自分の腹部に当てると、悠一の耳元でささやくように言った。
「赤ちゃん、できました」

END

 

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