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Alone Again...エピローグ 永遠の唇づけ(17/全17回)

=============5年後=============

「おーい、早くしないとまじで間に合わないぞ」

「ごめんなさい、今やっと前髪の揃え方気に入ったみたいだから」

 俺はやきもきしていた。

 一生に一度のことだ。できれば遅刻はしたくないし、「遅刻してきた三崎さん」のレッテルを貼られるのは御免被りたい。

「ごめんパパ。ママがね、下手なの髪の毛。自分はきれいにまとめているくせにずるい」

 あかりが、俺に不満をぶつける。

「まあ、そういうなよ。ママもあかりの一生の記念日だからちょっと焦ったのかも知れないな」

「やってもらったはいいんだけどさあ、パパ。やっぱりここ跳ねてるよね」

 あかりはそう言って、俺に右のおでこのところの前髪を指差して訴えた。

「いや、そんなことは…いや…。確かに少し…」

「慎吾さん、余計なこと言わないで!」

 みゆきが俺をとがめる声をあげながら、廊下をダッシュで走って玄関までやってくる。

 往年のナンバーワンキャバクラ嬢も少しだけ贅肉がついたが、それはごく自然な母性の発露による豊かさのように感じられた。

 子供をもうひとり生んだにしては、腰つきや脚などの全体的な体型自体はほとんど変わっていない。だから、そこはむしろ、赤ん坊のおしめを替えながら毎日欠かさず通っていたマタニティヨガの努力を、率直に褒めてやるべきなのだろう。

 俺はその頃のことを軽く思い出して、腕に抱えた3歳になる息子の健吾の顔を覗き込んだ。


「あなた、もたもたしていないで、急いで」

「もたもたって、それはお前が…」

「いいから。せっかくのあかりの入学式に遅れたら一生の恥よ」

 俺は一人で悪者になっていたが、とりあえず「そうだな」と無難な相槌だけうっておいた。


 思えばよくここまで月日を重ねられたと思う。

 北海道に旅立ったみゆきから、半年ほどして俺のケータイに連絡があった。

 あかりのことだった。

 複雑な事情を抱え、まるで東京から逃げるようにして身寄りのない北海道へと移り住んだ母娘には、相応の試練が待ち構えていた。

 みゆきに関しては接客業のプロなので、仲居の仕事はすぐに慣れることができたそうだった。しかしもともと引っ込み思案なところのあったあかりは、周囲と全く馴染むことができず、保育園でもすぐに孤立してしまった。

 それまでの新宿の託児所で集団生活を送っており、ここでは問題はなかったのだから、急激な環境の変化に原因があることは明らかだった。食欲もどんどん落ち、みゆきにすら必要最小限のことしか口にしなくなった。そしてついには、何一つ口を開かなくなってしまったのだ。

 医者は発達障害の病名を正式に診断名とする一歩手前だと言っているという。小学校に入る時に通常クラスに入ることはやめることも視野にいれるようにと、医者からは言われたそうだ。

 あの夜たった一時間弱しかあかりとは会っていなかった。しかしその愛くるしさと、内に秘めた拭い難い不安がありながらも、精一杯健気に振る舞っていた様子が印象的だった。そのあかりの状況を考えると心が痛んだ。

「あかりちゃんはそれで、毎日何をしているんだ」

「それがね…。それで連絡したの。ずうずうしいと思われても慎吾さんにしか相談できないだろうって思って」

 みゆきの思いつめた様子が電話越しにも感じられた。

「いや、ずうずうしいなんてことはまったくないさ。それより俺でないとだめなことでもあるのかい」

 電話口でみゆきのふうっと、息を静かに吐く音が聞こえた。

「それがね、あかりは慎吾さんの持ってきてくれたお花で毎日一緒に作った、あのドライフラワーを一日中いじってるの」

「うん」俺は先をうながす相槌をうった。

「それでね、慎吾さんの思い出話を私がすると、とてもうれしそうに笑って、ときどきは、頷いたりもするのよ」

「発達障害一歩手前なのにか…」

「うん。あの子の心の中には、慎吾さんの存在が生き続けているみたいなの」

 俺は衝撃を受けた。

 忘れなくてはいけないと毎日酒に溺れながら、みゆきとともに忘却の彼方に消えかかっていたあかり。そのあかりの中には俺がしっかりと存在していたのだった。

「それでね、もし時間があったら、あかりと電話で話をしてあげてほしいなって、そのお願いでずうずうしく電話したんです」

 合点がいった。しかし合点はいったが、電話で俺が話をしてなにか事態が好転するものだろうか…。


 しかしそれは杞憂だった。

 あかりは、その日は一言も口をきかなかったが、何回か話をするうちに電話越しに声を出して相槌をうつようになり、やがては俺のつまらない話に笑い声をたてるようになった。

 そして半年もしたころには、また保育園に通い始め、今日保育園で何があったかを俺に聞かせてくれるようになった。

 俺はありとあらゆる育児書を買い込んだ。そしてこの年齢の子供とどのように接すべきかについて、市民講座の子育てコースに申し込んだりもした。

 市民講座には、実の子供の子育てで悩んでいる人もたくさんいた。俺は積極的にその人達と問題を共有した。毎日、来る日も来る日も電話を通じてあかりに、全身全霊で語りかけた。

 それは、子育てそのものであったのだ。

 俺とあかりは擬似的な父娘関係にどんどんなっていった。あかりは自分の悩みを母親に相談する前にまず俺に相談するようにすらなっていた。そのことをみゆきは嫉妬したりはしなかった。むしろ、電話口で泣きながらいつも感謝の言葉を俺にかけてくれた。

 それから一年以上そうした関係が続いた。俺は、まるで北海道の三人暮らしから、会社の転勤命令で東京に単身赴任をしているサラリーマンそのものだった。

 それがあまりにも当たり前になったころ、俺は自分のけじめを自覚したのだった。

「あかりちゃんの将来のこともある。もし君がまだ俺のことを好きでいてくれるのだったら、東京で一緒に暮らさないか」

 みゆきが電話口で泣き崩れていくのが分かった。

「いいの?いいの?本当にいいの?」

「ああ。俺も君に来てほしいと思っている」

 俺ははっきりそう言った。しかししばらくの間、みゆきは同じように「いいの?いいの?本当にいいの?」と繰り返していた。


 東京で暮らすようになってから、あかりは別人のように変わった。そして俺たちは三人家族になった。

 籍を入れたのだ。

 籍を入れる最後のきっかけは、小姫のことだった。

 小姫から、長い手紙とともに白牡丹のお茶が航空便で送られてきたのだ。

 向こうでの暮らしは順調で、蛇頭とは遠距離結婚でうまくやっている。そしてその手紙の最後の方には、自分の子供がいかに可愛いかについて書いてあった。

 同封された写真を見ると、男の子が天真爛漫に笑っていた。


 この時俺は思ったのだ。三人とももがき苦しみながらも、ひとつの結論が出かかっているのだ。俺たちが三人で顔を突き合わせてこの難問を無難に処理しようとしても、おそらく解決の糸口すら見つからなかっただろう。

 俺たち三人は、俺達の次の世代から、まるで背中を押されるように次の世界へ足を踏み入れようとしていた。そして、程なくそれを祝福するかのように、おれとみゆきとの間にも一人の新生児が誕生したのだった。


 結局タクシーをつかまえて、俺たちは滑り込みセーフで小学校の校門をくぐった。


 校門のところには、かなり不機嫌な顔をした小姫がいた。何年ぶりだろうか。そんなことを思うくらいに、あの日からは月日が経っていたのだ。暦の上でも、心の中でも。

 しかし、久しぶりに見る小姫はあいかわらず美しかった。かつてこんな美しい女と一夜を過ごしたことさえ、今はもう懐かしい思い出だ。

「なにやってんのよシンゴちゃん!」

 開口一番みゆきは大声を上げた。俺はあの夜賭博場でそう言われたことを思い出して笑いが止まらなくなった。

「笑ってる場合かあ!もうあと一分で式が始まるぞ!」

 この日に合わせて、小姫は息子を連れて福建からわざわざ来てくれたのだった。


「よし6人でダッシュだ!体育館に滑り込め!」

 俺の号令のもと、俺たち奇妙な親戚集団は、締まりかけようとする体育館の扉を無事通過したのだった。

 気を利かせてくれたのだろう。

 入学式の行事が終わった後、みゆきが、子供たちを連れて先に帰って行った。

「いい花が残っていないかどうか、市場に寄ってから帰る」

 俺たちは、家族経営で小さなフラワーショップを営んでいたのだった。

 俺は、久しぶりに小姫と二人っきりになった。

 目と目が合う。照れくさかった。

「照れくさいよね」

 小姫が俺の気持ちを代弁するように、静かに口を開いた。こういう気のつくところもちっとも変わっていない。面と向かって見る小姫はあの夜の小姫と寸分の違いもなかった。

 俺は何から話をしていいのか分からなかった。

「どう?中国で寂しくないかい」当たり障りのないことを言ってみた。

「蛇頭は2ヶ月に一度くらいしか帰ってこないけどね、この子がいるから大丈夫」

「そうか。名前なんだっけ」

「省吾だよ」

「そうか、慎吾の吾だったな」

「うん」小姫は、俺から目をそらして子供を抱きかかえた。運命という言葉を軽々しく使ってはいけないと、俺は思う。

 しかし、この省吾くんの親が俺と小姫であったという可能性もあったのだ。時は流れ、それぞれがそれぞれの運命を懸命に生きた結果、俺達は俺達の新しい世界を手に入れたのだった。


「そうだ、蛇頭から伝言があるの」

 俺はあの日のことを思い出して、心拍数が上がった。

「大丈夫よ、笑い話って言ってたから」

 小姫はそう言って、紙切れを俺に渡した。

「あのひとね、日本語の漢字はまったくダメなのよ。だからひらがなだけどごめんなさいね」

「ああ、そんなことかまわない」

 恐る恐る俺は、蛇頭の伝言が書いてある紙を広げた。

 思わず大声で笑ってしまった。

「なんて書いてあるの?私は中身そのものは知らされていないのよ」

「読み上げようか」

「うん」

 俺は笑いを噛み殺しながら、ていねいにそのひらがなを読んだのだった。


『あなたに なぐられた こうとうぶ の とことに じゅうえんはげ が できてしまって なおりません せっかくの おとこまえが だいなしです あなたを いっしょう うらみます 蛇頭』


 小姫も大声で笑った。省吾は大人同士が大声で笑っているのを見て、自分も大声で笑った。

「バレてたのか、やっぱり俺が景徳鎮で殴ったって」

「そうね。いい人でしょうちの旦那」

「ああ。ものすごくいい人だ」

 俺は小姫の眼をしっかりみて、心からそう言った。


「でも、そんないい旦那さんと2ヶ月に一度しか会えないのはつらいな」

「つらいって、エッチのこと?」

 小姫が、三々五々引き上げていく家族連れの視線も気にせずに大胆な言葉を口にする。

「あ、ああ、まあ、そういう意味だ」

 小姫はくすぐったそうに可愛い笑顔で笑った。

「大丈夫よ。蛇頭は奥さんを失った精神的ショックもあってね、もともと男性機能はそれ以来まるでダメなのよ」

「え」

 俺は、ある事実を直感的に思い起こして、再び心臓の音が激しくなるのを感じた。

 省吾…。俺は省吾を見た。


「だから、あたしは結婚処女なのよ」

「シンゴちゃんといっぱいしたのが最後だもん。貞操守ってるの。だから今度一回、お姉ちゃんに内緒でエッチしようよ」

 小姫はその口ぶりとは裏腹に、にこりともせず、俺から目をそらすようにして、真剣な表情で息子の省吾の頭を撫ぜた。無理して、そんな心にもないことを言っているのは明らかだった。


「寂しくないよ、中国で一人ぼっちじゃないから。慎吾さんにそっくりのこの子がいる…」

 小姫は泣いていた。

「手紙に書いただろ、あたし。一目惚れの人の思い出と一緒に生きていくってさ。あの思い出があれば、あれがあれば生きていける…」

 後から後から溢れてくる大粒の涙を、小姫は隠そうともしなかった。


「このことを蛇頭は…」

「もちろん、知っているわ。だって私と一度も最後までセックスしていないんだから」

「…それで蛇頭はいいのか」

「あたしと、慎吾さんには感謝しているみたい。わかりにくいと思うけど、確かに感謝している。あの人は、いい人なのよ。それも普通じゃないくらいに。私はあんな中国人を他に知らないわ」


 俺は省吾の顔をまじまじと見つめた。

 このあどけない笑顔の中に、蛇頭の後継者という生まれながらの権力者とはまた別の、ひとつの道がすっと浮かんで消えた。

 

 小姫は女学生のように唇づけをせがむ仕草をした。

 省吾が俺たちをじっと見ている。

 かまうものか。

 見られたってかまわない。

 みゆきにも、あかりにも、健吾にも、そして蛇頭にも見られてもかまわない。

 この一瞬のキスだけは、全員が赦してくれるだろう。

 運命という時は、このときばかりは俺たちが、長い唇づけを終えるのを待っていてくれていたようだった。


「じゃあね、飛行機の時間がある」

 小姫は何事もなかったかのように、省吾の手を引き、大通りに向けて歩いていった。

 二人を乗せたタクシーが走り去っていった。


 途中省吾は一度俺を振り返って、しっかりと俺の眼を見た。

 小姫は決して振り返らなかった。

 その後姿は、美しかった。


 どこからか白牡丹の甘い香りが漂い、俺の鼻孔を満たした。


===完===


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