見出し画像

Alone Again...VIPルームの告白(8/全17回)

 ジャッキテーブルに用意された琥珀色のストゥールに座った小姫は、その完全な黄金比で周囲の空間を支配した。

 小姫はまず、歩きながら自分の豊かで優雅なウェイブのかかった黒髪を手ぐしで解き、気だるそうな瞳で肩越しまで伸びた自分の髪を左右に振った。それは、選びぬかれたサラブレットが、神々しいまでの質感を持つ自分の尻尾を無造作に振るようであった。

 髪は鞭のようにしなり、辺りの空気をかき乱した。解かれた髪の間からは小姫クラスの女だけがもつ目に見えぬフェロモンが容赦なく飛び散り、カジノ全体に抗いようもない淫靡にして強烈な芳香をばらまいた。

 回転型ストゥールの足掛けを、かかとの高いハイヒールで軽く蹴る。背の低い背もたれはちょうど小姫の正面を向いた。ストゥールはまるで生き物のように回転した。その様は、あたかも熟練した猛獣使いが、猛禽類に指示を与えてこちらに跪かせる様を連想させた。

 背もたれをあちら側に向かせたストゥールに対して、小姫は艶めかしい下半身を捻り、小ぶりだが肉感のある尻を乗せた。小姫は体重をかけて180度ストゥールを回転させた。小姫を乗せたストゥールは、カードを配るディーラーを対面にして止まった。

 完全なる美がもたらす真空地帯だった。

 客の出入りなどには普段ディーラーはまったく無頓着なものだが、このときはカードをシャフルする手を止めたほどだった。そのまま己の意思に反してこの美の降臨にポーカーフェイスで対処しようとしても、シャフルしていたカードを落とす可能性すらあっただろう。

 客のすべての視線は小姫に吸い込まれていた。目があった客は慌てて目をそらすか、ぎこちない笑みを作って会釈を返すのみだった。

 抗うことのできない黄金比。
 美貌、肢体、そしてテーブルに無造作に投げ出された左手。
 不安定なストゥールにはスリットから覗く左右の足が太ももの辺りで典雅に交差していた。小姫がその左右の太ももを組み替えると、男たちはその欲望の視線の先、無限に遠くにある下着の色を想像せざるを得なかった。

 白い歯をこぼして、ディーラーに向かって小姫が人差し指を軽く振った。ディーラーはやっと自分の職務を思い出したかのように、無表情に5枚のカードを小姫の前に配った。カードはそれ自体が意思を持っているかのように、ピタリと小姫の眼の前に置かれた。

 このときは、何が起きたのか分からなかった。小姫はそれを左手で上から撫でるように軽く触っただけだった。しかし、まるでボールが床に叩きつけられたように5枚のカードは宙に浮かび上がり、一瞬で左の手のひらの中に扇型に収まっていた。

 ディーラーは、再びポーカーフェイスであることを止めざるを得ない。ただ観念したような目になっていた。

 一瞬でカジノを支配した小姫がついに口を開いた。

「おーい、シンゴちゃん何やってんのよ。はやくおいでよ、バカみたいに突っ立ってないで」

 日本語だ。しかも、声が大きい。

 客という客の二つの目が小姫の視線の先、つまり俺に向けられた。それはさながら機関銃の集中砲火を受けたようなものだった。情けないことに俺はこれから一時間ほど何が起きたのかまったく覚えていない。

 気がつくと、小姫のテーブルの前には3色のチップがまんべんなく積まれていた。俺はそのかたわら、汗ばんだ手で、チップケースをしっかりと握っているだけだった。

「うん、なかなかいい出だしだ。シンゴちゃん、なんか冷たいものでも飲もうぜ」

 小姫が米国大統領機のタラップを降りるように、真紅の絨毯に足をついた。マネージャーがすかさず小姫の積み上げたチップを空のチップケースに収納し、VIPルームの方向に案内する。客もまた、小姫のためにVIPルームに続く通路を左右に開ける。
 その横にいる俺は、自分がひどく場違いに思えて、まるでヴァージンロードだな……などと頓珍漢なことを考えた。無理もない。完全に頭がおかしくなったような心地だった。


「ふう、とりあえずシャンパン用意されてるから飲もうか」

「うん。喉乾いたよな、確かに」

 空調の完璧に効いた部屋にはダブルベッドとソファ、サイドボードがあった。サイドボードには、ワイン、ウイスキーなどの高級酒がズラッと並んでいた。

「全部無料だから、飲み干しちゃってもいいんだよ片っ端から」

 小姫はサイドボードを片っ端から開けながら「おおすごいのがある」などと無邪気な感想をあげている。それにつられて、俺も適当なシャンパンを一本手に取った。

「とりあえず、この用意してくれてある冷たいシャンパンで乾杯しようよ」

「そうだね。じゃあ、シンゴさんが乾杯の音頭取ってね」

「そうだな。俺はまったくやってないから、小姫の大勝利に乾杯といこう」

「うん。分かった」

 小姫は素直に嬉しそうだった。

「では勝利の美酒を」

「かんぱーい」

 俺たちは祝杯を中国式に一気に飲み干した。

「おいしいね、これ。シンゴさんもさ、休憩終わったらどんどんやりなよ。私多分チップケース1箱分は稼いだからそっちの全部シンゴさんにあげるよ。損しちゃってもいいから好きなように使って」

 俺は小姫が冗談抜きでそう言っているのをその瞳で確認すると、流石に大げさに手を振った。

「いや、いくらなんでもこれ1500万円分はあるだろ。そんなのただでもらえないよ」

「遠慮しなくていいんだよ。どうしてもいやっていうなら、いいけど」

「いや、半分……。いやいやそれでも多いや。60万円分くらいなら現金で持ってる。占い師の売上だ。それで買わせてもらう」

「それはここで楽しむにはちょっと足りないかもな」

「そうかもしれないが……」

「じゃあ、シンゴちゃんがここで私と一発やるってのはどう? ベッドもあるし」

 小姫は、奥の巨大なダブルベッドの方を見ながら言った。

「しかし、男の方から払うならまだしも……。それに一発1500万なんて聞いたこともないぞ」

「めんどくさいなあ。いいのに。あたしがいいっていうんだから。それともあたしとしたくないの?」

「いや、そんな男がいるなら見てみたい」

「じゃあ、決まりね」

 俺は現実離れした話に、返って段々と正気を取り戻してきた。


「なあ、小姫」

「みゆきじゃなくて、小姫に訊きたいことがあるのね」

 さすがに察しがいい。

「小姫は、なんで俺のことを……その。そんなに良く思ってくれるんだ」

 本当は「どうして俺のことを好きになってくれたんだ」と言いたかった。しかし、好きでもないよ別になどと言われてしまうと、かなり精神的ダメージがあるだろう。たやすくそう予想することができたので、俺はわざと曖昧な言葉で濁したのだ。

「なんで、私がシンゴさんのこと好きなのかっていうことね」

 だが、小姫に艶然とした微笑で言い直される。
 参った。これもすっかり見透かされている。心地よいKO負けだ。本当にこんな女がいるんだろうか。

 小姫ほどの美貌でなくても、この場面で自分の方から男が言いにくかった言葉を、女の方から自分の言葉で優しく言い直してくれる。これで落ちない男がいたら、本当に見てみたいものだ。

「あなたが楽しそうに、言葉の通じない世界を満喫しているのが分かったからよ」

「そうか、そんなに楽しそうだったか」

 照れてくるようなむずがゆい気持ちになり、小姫から目をそらす。だが、小姫は俺から視線をそらさず、まっすぐ見つめてきてさらに言葉を重ねた。

「ええ。まるでこの世の一切の苦痛を遮断して、幽体離脱して惨めな自分を天上から見下ろしているように見えたわ」

 俺は右手のシャンパングラスを絨毯に落とした。

「なんでそんな風に思ったんだ」

 はっと小姫を観る。その包み込むような微笑が、怖くなった。

 小姫は俺のグラスを拾い上げて、代わりに自分のグラスを俺に渡した。

「この世の中に、自分の話す言語が全く通じない世界がある。普通は人はそこで孤独の地獄を味わうわ。でもごくまれに、そういう状況がとてつもなく心地よいと感じる人もいるものよ」

 俺は、名探偵についに追い詰められて絶体絶命となった真犯人のような気持ちになった。小姫から受け取ったシャンパンを飲み干したが……喉の乾きがおさまらない。

「私自身がそうだったのよ」

「え」

「中国から残留孤児として日本に来て、毎日不安で心が千切れそうだったわ。そんな私にとっての日本は、さっきシンゴさんがふらついて歩いていた新宿的特许权と同じだったの」

 小姫は俺の眼を見てそう言った。

「おそらく私のことを、中国から来た変な人間だということでいろんなことを言っていたはずだわ。学校では当然のように壮絶ないじめにあったし、家族も近所で実際ひどい仕打ちにあっていた」

 俺はただ無言で聞いていた。

「でもね、そんな毎日に疲れた父が久しぶりに福建省に連れて行ってくれたのよ。うれしかったな。そうしたら、今度は変な日本人が来たってね……。もう私達家族にはどこにも居場所がなかったの」

「小姫……」

「居場所がないのよどこにも。天に登って全部聞こえないふりをして、惨めな自分を天上から見下ろすことだけが、その苦痛から逃れる唯一の方法だったわ……」

 俺は初めて小姫の肉声に触れたような気がした。完璧な肉体美を体現し、男を手玉に取る小悪魔。おそらくブラックジャック以外のギャンブルにかけても超一流。裏社会の中国人の愛人。

 そのどれもが小姫であり、実はそのどれもが小姫ではないような気がしていた。確かに俺は最初にみゆきに似た小姫に好意を持った。しかし、みゆきとは違う小姫に徐々に惹かれ始めた自分がいることにも気がついていた。その正体は自分でも皆目見当がつかなかった。

 しかし、これだったのだ。
 俺と小姫は、自分たちの知らないところで天上から、惨めな己を見てかろうじて生きていく方法にすがっていたのだった。

「小姫……」

「そしたらさ、いたんだよ。間抜けな顔してノーテンキにこの暗黒街を歩いているおバカさんが」

「この俺様がおバカさんかよ」

 涙腺に危機を感じて意味もないことをしゃべった。

 小姫は心地よく俺の言葉を無視してくれた。

「この世の中でね、一目惚れというのはあるのよ」

「ああ、知ってる」


 小姫は俺をいきなり平手打ちした。

「バカ。本当にバカ。相槌打つなそこで」

 小姫の方が先に溢れ出るような涙を流した。

「みゆきのこと考えたんだろどうせ」

 俺は狼狽した。そんなつもりはなかったからだ。

「だから……だから……。そんなこと分かってたから」

 小姫は手元にあった、コインの詰まったジュラルミンのケースを俺に投げつけた。あまりに強く投げたのでケースは俺の、胸を直撃し、そのはずみで留め金が外れて1500万円分のコインが、宙に舞った。

 金、銀、銅。色とりどりの星屑が夜空から星屑がこぼれ落ち、流れ星のようにぶちまけられた。コインはまるでスローモーションのように落下し、ぶ厚い絨毯の中に吸い込まれていった。

「だから『みゆきより小姫が好きだ』って大声で言わせたのに」

 小姫はそのまま絨毯に座り込んだ。

……たんなる中学生の告白大会じゃなかったのか……。俺は押さえていた涙がすっと流れるのを感じた。


 俺は近寄って、小姫の肩を両腕で後ろから抱きしめた。

『みゆきより小姫が好きだ』

 はっきりと肩を抱きながらそう言った。


 小姫はさっきのように大仰に拍手をして喜んだりはしなかった。

 小姫は小さくうなずくと「ほんとね」とかすれるような声でつぶやいた。

「ああ、本当だ」

 俺は小姫を抱き上げて、ダブルベッドに運んだ。

 小姫はチャイナドレスを絨毯の上に脱ぎ捨て、俺の上着のボタンを撫でるようなしぐさで丁寧に外していった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?